2000–2009
祈り
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祈り

「信仰があれば、自分の願うものを求めて祈ることもできますし、何であれ頂くものに感謝することもでぎるのです。また、そのような信仰があって初めて、神がお求めになるような熱心さをもって祈ることもできるのです。」

世界は激動しているようにおもわれます。戦争があり、戦争のうわさがあります。世界のどの大陸でも、経済の動きは鈍っています。世界各地の雨不足のために、穀物の生産が落ち込んでいます。そして天は、危機に陥った人々の祈りで、満ちあふれています。公の場でも私的な場でも、人々は助けを求め、慰めを求め、そして導きを求めて、神に訴え続けているのです。

皆さんも恐らくすでにお気づきのことと思いますが、人々の祈りはその頻度が増しただけでなく、もっと真心からささげられるようになっていることが最近分かってきました。集会に行くと、壇上では、祈りを依頼された人の近くにわたしの席が用意されていることがしばしばなのですが、近ごろわたしはその祈りを驚きの念をもって聞いています。ささげられる祈りの言葉が、確かに、その力強さにおいても、そこからにじみ出る思慮深さにおいても、神の霊感を受けたものだからです。そしてその訴える口調は、助けを求めるいたいけな幼子おさなごのようです。地上の親に助けを求めているのではなく、求める前にわたしたちに何が必要かを御存じである全能の天の御父に向かって、助けを求めているのです。

世の中がまるで狂ってしまったのではないかと思われるときに、人々の心は熱烈な祈りへと向かいますが、このような現象は人類の歴史と同じくらい昔からありました。悲劇や危機の時になると、人々は祈りを通じて神に心を向けるのです。いにしえのダビデ王も、今起きているような状況を認識していたのでしょう。皆さんは詩篇にあるダビデの言葉を覚えておられることと思います。

「主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。

み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者をあなたは捨てられたことがないからです。」1

真心からの祈りをささげるべきだとの思いが大いに深まり、公にもそうした考え方が受け入れられていることは、わたしにとっても、ほかの人々にとっても、きわめて注目すべき現象です。最近一度ならず、ある人がわたしにこう言いました。しかも実に熱意を込めて、そしていかにも心配そうに言ったのです。「わたしは、このような変化がずっと続くことを願っています。」

そのような心配は無理もないことです。わたしたち自身の個人的な経験を考えても、また、神とその子どもたちとの間でどのようなやり取りがあったかを神の記録から読んでみても、その心配が当たっていることがよく分かります。祈りがこたえられれば、神に頼る心はすぐさま消えてしまうのです。そして、問題が少なく、小さなものとなれば、ささげられる祈りも少なく、弱々しいものとなってしまいます。モルモン書には、そのような悲しい物語が幾度も繰り返して登場します。

ヒラマン書を見てみましょう。「おお、どうしてあなたがたは、神が助けてくださったその日に、神を忘れることができたのか。」2 そして同じ書の後の部分で、神が恵みに満ちた優しさで祈りにこたえてくださった直後の、民の恐ろしいまでの行動パターンが、再び描写されています。

「このことからわたしたちは、人の子らの心がどれほど不誠実で不安定であるかを知ることができる。まことに、主を信頼する者たちを、主が大いなる限りない慈いつくしみをもって祝福し、栄えさせられるということも、、わたしたちは知ることができる。

また、主が御自分の民を栄えさせられるまさにそのとき、まことに、民の畑と家畜の群れを増し、金銀と、あらゆる自然の貴重な品々と人工の貴重な品々を与え、民の命を助け、敵の手から民を救い出し、また宣戦することのないように敵の心を和らげ、要するに御自分の民の繁栄と幸いのためにあらゆることを行われるそのときに、彼らは心をかたくなにし、主なる神を忘れ、聖者を足の下に踏みつけるということが、わたしたちに分かるのである。これは、彼らが安楽で、非常に豊かに繁栄したためである。

またこのことから、主が多くの苦難をもって御自分の民を懲らしめられなければ、まことに、死と恐怖と飢饉ききんとあらゆる疫病を下されなければ、彼らは主を思い起こそうとしないことが分かる。」3

そして、同じ章の次の節を読むと、わたしたちがなぜ祝福の源をいとも簡単に忘れ去り、信仰をもって祈る必要性を感じなくなるのか、その理由が分かります。

「おお、人の子らは何と愚かで、虚栄心が強く、邪悪で悪魔に従い、何と罪悪を行うのが早く、善を行うのが遅いことか。何と悪しき者の言葉を聴くのが早く、俗世のむなしいものに執着するのが早いことか。

まことに、何と高慢になるのが早いことか。何と誇るのが早く、あらゆる罪悪を行うのが早いことか。人の子らは何と主なる神を思い起こすのが遅く、主の勧告に耳を傾けるのが遅いことか。何と知恵の道を歩むのが遅いことか。

見よ、人の子らは、自分たちを造ってくださった主なる神に治められ、統治されるのを望まない。主が深い慈しみと憐あわれみをかけてくださっているのに、人の子らは主の勧告を軽んじ、主が自分たちの導き手になってくださるのを望まない。」4

この3節の短い聖句から、悲しいことにいつの間にか謙遜けんそんな祈りを捨ててしまう原因が3つ見えてきます。まず第1に、神はわたしたちが祈るよう願っておられるのに対して、魂の敵は、祈りの大切さを過小評価し、あざ笑うという点が挙げられます。ニーファイ第二書に書かれている警告は真実です。「さて、わたしの愛する同胞はらからよ、わたしはあなたがたがまだ心の中で深く考えているのを承知している。そして、このことについてあなたがたに述べなければならないのは、わたしにとって悲しいことである。あなたがたは、祈るよう人に教えてくださる御霊みたまに耳を傾けるならば、祈らなければならないことが分かるであろう。悪霊は祈るようにとは人に教えず、かえって祈ってはならないと人に教える。」5

第2は、慢心から、神を忘れ去ってしまうということです。わずかに繁栄したり平安になったりしただけで、あるいは、ほんの少しだけ改善したというだけで、わたしたちは自分で十分にやっていけるという気持ちになります。自分の人生は自分でコントロールできる、改善したのは自分の努力の結果であって、御霊の静かで細い声を通じて語りかけてくださる神のおかげではない、といった思いにすぐに駆られます。高慢な思いが心の中に雑音を作り出し、そのために、御霊の静かな声を聞きにくくしています。そして日ならずして、慢心のためにその声に耳を傾けようとさえしなくなってしまいます。そうなると、自分にはそんなものは必要ないという思いになるのも時間の問題です。

第3の原因は、心の奥深くに根ざしている問題です。わたしたちは愛に満ちた天の御父の霊の子どもです。天の御父はわたしたちをこの死すべき世に置かれ、わたしたちが天の御父の戒めを守り、その愛する御子のみもとに戻る道を選ぶかどうか、(自由に選ぶことができるわけですが)、試しておられるのです。わたしたちは強制されているわけではありません。むしろ、天の御父も御子も強制することはおできにならないのです。そんなことをすれば、幸福の計画を台なしにしてしまうからです。だからこそ、わたしたちの心の中には、自分自身の選びについては責任を取りたいと考える、神から授かった願いが備わっているのです。

自分自身で選びたいというこの願いは、永遠の命へと進む、上り階段の一部です。しかし、もしわたしたちがこの世の目だけを使って物事を見ようとしたら、この願いは、神に頼る思いを弱めてしまいます。さらに.は、そうした強い願いが自分から出たものであると感じ始めるとき、神に頼る思いはまったく消え失せてしまいます。そう考えると、以下の真の教義は、実に耳に痛い教えとなり得ます。

「生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪しょくざいにより、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。」6

子どものように従う人々は、御父がひとえに子どもたちの幸福を願っておられることを知っているがゆえに、また、御父しかその道を御存じの方がおられないことを知っているがゆえに、従います。恵まれているときも問題を抱えているときも、従順な子どものように祈り続けるために、わたしたちは御父に対するそのような証あかしを持つ必要があります。

そのような信仰があれば、自分の願うものを求めて祈ることもできますし、何であれ頂くものに感謝することもできるのです。また、そのような信仰があって初めて、神がお求めになるような熱心さをもうて祈ることもできるのです。神は祈るように命じられたとき、「絶えず祈る」「常に祈る」「熱烈な祈り」といった言葉をお使いになりました。

こうした戒めを読むと、数多くの言葉を使うことは求められていないと分かります。事実、救い主は、祈るときには言葉数を多くする必要はないと言われました。神が求めておられるような熱意あふれる祈りとは、美辞麗句を連ねた祈りでも、人里離れた所での長時間にわたる祈りでもないのです。それは、モルモン書のアルマ書の中ではっきりと教えられています。

「また、声に出して主に叫び求めないときでも、あなたがたの幸いと、あなたがたの周りの人々の幸いを気遣う気持ちを心に満たし、それが絶えず主への祈りになるようにしなさい。」7

わたしたちの心が神に向けられるのは、神を愛する心と、神の慈しみを信頼する心に満たされたときだけです。ジョセフ・スミスは、まだ幼い少年だったときでさえ、どのようにしたら神への愛に満ちた心で祈ることができるようになるか、試練や祝福に満ちた生涯を通じて絶えず祈ることができるようになるか、ということについて、一つの模範を示しました。

ジョセフは、愛に満ちた神は必ず祈りにこたえてくださり、混乱から救ってくださるという信仰をもって、祈るために森に向かいました。ジョセフは、神の御言葉みことばを読むことにより、また、それが真実であるという証を得ることにより、その確信を持ちました。ヤコブの手紙の次の言葉を読んだと記録しています。「その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」8祈りを通じて神に願い求めようというジョセフの信仰は、聖句について深く考え、神が愛に満ちた御方であられるという確信を得た後にもたらされました。ジョセフは、わたしたちに今求められていると同様の、愛に満ちた神を信じる信仰をもって祈りをささげたのでした。

ジョセフは、ただ単に神の言われることを聞くためだけでなく、それに従うつもりで、祈りました。ただ真理を知るためにだけ願い求めたわけではありません。神が自分にお話しになる事柄については、どんなことであれ、それに従って行動する決意ができていたのです。ジョセフの書いた記録を読むと、固い覚悟のうえで祈ったことが明らかです。どのような答えを受けようとも、それに従って行動しようという決意でした。その記録を読んでみましょう。

「この聖句が、このとき、かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って、わたしの心に力強く迫って来たのであった。それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んで来るように思われた。もしだれか神からの知恵を必要とする者がいるとすれば、それは自分であることを悟って、わたしはこの言葉を再三再四思い巡らした。なぜならば、わたしはどうしてよいか分からず、また自分がそのときに持っていた知恵よりも深い知恵を得られなければ、どのように行うべきかまったく分からなかったからである。それというのも、様々な教派の教師たちは同じ聖句を異なって解釈し、その結果、聖書に訴えて疑問を解決することへの信頼をすべて打ち砕いてしまっていたからである。」9

御父とその愛する御子が、祈りの答えとしてジョセフの前に御姿みすがたを現されました。そしてジョセフは、望んでいたとおり、どのように行動すべきかを教えられたのです。彼は子どものように従いました。どの教会にも加入してはならないと告げられました。ジョセフは教えられたとおりにしたのです。そしてその忠実さのゆえに、それからの日々、年々歳々、彼の祈りは光と真理が洪水のように注ぎ込まれることによってこたえられました。イエス・キリストの完全な福音と神の王国の鍵かぎがこの地上に回復されました。ジョセフがへりくだって神に頼ったために、権能と聖なる儀式とともに、福音が回復されたのです。その回復のおかげで、最も貴重な独立を選ぶ機会がわたしたちに与えられています。つまり、イエス・キリストの贖あがないによる清めの力によって、罪の束縛から自由になることができるのです。

ジョセフ・スミスの使命は、ほかに類を見ないものでした。しかしながら、その謙遜な祈りは、わたしたちにとって有益な模範となり得るものです。ジョセフは、わたしたちに求められているのと同様に、神を信じる信仰をもって御業みわざを始めました。神はわたしたちに語りかけ助けることがおできになり、またそう望んでおられます。ジョセフの信仰は、聖文に書かれている神の僕しもべたちの言葉を深く考えたときにもたらされた強い印象に根ざしていました。わたしたちは、神の御言葉を度々、そして注意深く研究することができますし、また、そうする必要があります。もし聖文の研究をごく自然にできるようになったら、祈りもごく自然にささげることができるようになるでしょう。

わたしたちは祈ることはやめないかもしれませんが、祈りが、本来の目的を欠いたまま同じ言葉の繰り返しになったり、機械的にささげられたりすることはあるでしょう。自分で知らない神に心を向けることはできません。そこで、聖文や生ける預言者の言葉が、神を知る助けになるはずです。神を知れば知るほど、神を愛するようになるのです。

また、神を愛するためには、神に仕える必要もあります。ジョセフ・スミスはそのような生涯を送り、最終的には、神に仕えるために自らの命をささげたのです。ジョセフはいつも従うつもりで祈っていました。そのように従順であることは、常に人に仕えることも意味していました。神の業において奉仕をするとき、神の御心みこころを幾分か感じることができるようになり、神を知るようになるのです。

「なぜならば、仕えたこともなく、見も知らぬ他人で、心の思いと志を異にしている主人を、どのようにして人は知ることができようか。」10神に対する愛が深まれば、祈りによって御父に近づきたいという願いも、同じように強まってくるものなのです。

この大会で耳にする言葉や音楽は、真心からの祈りをささげなくなる危険に対抗する決意を強めるためにはどのようなことを実践したらよいのか教えてくれることでしょう。聖文を研究するよう促す思いがわき起こることでしょう。その促しに従ってください。また、この大会を通じて、皆さんがバプテスマの水に入ったときに実行しようと決意した奉仕について、思い起こす機会があることでしょう。どうぞ従うことを選んでください。

皆さんが聖文について深く考え、神と聖約を交わした事柄を実践し始めるなら、神に対する愛をいっそう深めることができ、また皆さんに対する神の愛をいっそうよく感じられることを約束いたします。そして、この愛を念頭に置いてささげられる皆さんの祈りは、感謝と願いとで心を満たしつつ、真心からささげられることになります。そして、神に頼る思いも強まります。また、恐れずに、心に平安を抱いて、神に仕える業のために行動を起こそうという勇気と決意とを見いだすことになります。常に祈るようになります。そして、将来どのようなことが起ころうとも、神を忘れるようなことはなくなるのです。

父なる神が生きておられることを皆さんに証します。神はわたしたちを愛しておられます。わたしたちの祈りを聞き、最善のものを用意してこたえてくださいます。神の御言葉を通じ、また奉仕の業を通じて神を知るようになるにつれ、わたしたちは神をいっそう深く愛するようになることでしょう。わたしはそれが真実であることを知っています。

イエス・キリストの完全な福音とイエス・キリストの真の教会は、預言者ジョセフ・スミスを通して回復されました。神権の鍵かぎはこの教会にのみ存在します。わたしは、自分が生きているのと同じように確かに、現在ゴードン・’B・ヒンクレー大管長がこの地上でその鍵を持ち、行使していることを知っています。イエス・キリストは生きておられます。わたしはそのことを知っています。そして、主は今日こんにちも御自身の教会を導いておられます。この大会において、御自身の僕たちを通じて、皆さんを教え導いてくださるのです。

イエス・キリストの聖なる御名みなにより、アーメン。