聖文
『モルモン書』についての概説


『モルモンしょ』についてのがいせつ

『モルモンしょ』は、むかしアメリカたいりくんでいたたみしんせいろくであり、きんぞくばんきざまれていたものである。このろくへんさんするりょうとして、つぎのものがもちいられた。

  1. ニーファイのはんしょうはんたいはんの二しゅるいがある。しょうはんには、とくれいてきことがらげんしゃたちのつとめとおしえがしるされており、いっぽうたいはんは、だいぶんぞくれきめられている(ニーファイだいしょだいしょう二-四せつ)。しかし、モーサヤのだいは、たいはんにも、れいてききわってじゅうようことがらしるされた。

  2. モルモンのはんモルモンがニーファイのたいはんからみじかくまとめたと、おおくのかいせつぶんからる。このはんには、モルモンがいだれきと、息子むすこモロナイがくわえたっている。

  3. エテルのはんヤレドじんれきつたえるものである。モロナイはこのろくみじかくまとめて、これにぶんかいせつみ、「エテルしょ」というひょうだいけ、ぜんたいれきれてへんしゅうした。

  4. しんちゅうはんげんぜん六百ねんに、リーハイのたみがエルサレムからたずさえてたものである。このはんには、「モーセの五しょ……また、はじめからユダのおうゼデキヤのとうはじめにいたるユダヤじんろく……また……せいなるげんしゃたちのげん」(ニーファイだいしょだいしょう十一-十三せつ)がっている。イザヤやそのせいしょげんしゃせいしょあらわれないげんしゃたちのことが、このはんからたくさん『モルモンしょ』にいんようされている。

『モルモンしょ』は、一つのれいがいはあるものの、ほかはすべて「しょ」としてられる十五のしゅすなわちぶんからっている。これらの「しょ」にはつうじょう、そのしゅようちょしゃけられている。「オムナイしょ」までのさいしょの六つのしょは、ニーファイのしょうはんからのほんやくである。また、「オムナイしょ」と「モーサヤしょ」のあいだに「モルモンのこと」とばれるそうにゅうがある。これは、しょうはんきざまれているろくとモルモンがたいはんからみじかくまとめたろくをつなぐものである。

「モーサヤしょ」から「モルモンしょだいしょういたながぶんは、モルモンがニーファイのたいはんからみじかくまとめたもののほんやくである。また、「モルモンしょだいしょうからかんまつまでののこりのぶんは、モルモンの息子むすこモロナイがきざんだものである。モロナイはちちしょうがいについてろくえたのち、(「エテルしょ」として)ヤレドじんろくみじかくまとめたものをつくり、そののち、「モロナイしょ」としてられているぶんくわえた。

げん四百二十一ねん、あるいはそれにちかいあるとしに、ニーファイじんさいげんしゃでありれきであるモロナイは、むかしげんしゃたちをつうじてかみこえによりこくされたとおりに、まつじつあきらかにされるように、そのしんせいろくふうじ、しゅたくしてかくした。そしてげん千八百二十三ねんに、とうふっかつしていたこのおなじモロナイがげんしゃジョセフ・スミスをおとずれ、のちに、ろくきざまれているそのはんかれわたしたのである。

ほんぱんについて—もくのページのすぐまえにあるげんぶんのタイトルページは、はんからられたものであり、しんせいほんぶんの一である。しょうまえきとしょたいことにするニーファイだいしょじょぶんやモーサヤしょだいしょうちょくぜんにあるじょぶんもまた、しんせいほんぶんの一である。しょうまえきなど、ほんぶんとはしょたいことなるものはしんせいほんぶんからのものではなく、まなたすけとして、むときの便べんはかってくわえられたものである。

しゅっぱんされたえいぶんの『モルモンしょ』のほんぶんには、ちいさなあやまりがいくつかのこっていた。ほんぱんは、しゅっぱんまえげん稿こうげんしゃジョセフ・スミスがこうていしたしょはんわせて、てきせつおもわれるていせいくわえたものである。