2000–2009
永遠の航海
脚注

Hide Footnotes

テーマ

永遠の航海

わたしたちの召しを尊び、責任についてよく考え、務めを栗たして、主イエス・キリストに従いましょう。

わたしの最も鮮明な記憶の一つは、執事に召されて間もなく、神権会に出席して開会の賛美歌「神権持つ子らよ」を歌っていたときのものです。1今晩、このすばらしいカンファレンスセンターや世界中の礼拝堂は、出席者の皆さんで満席です。そこで、わたしはこの特別な賛美歌と同じ気持ちで皆さんに申し上げます。「神権を受ける神の息子たちよ、皆集まりなさい。わたしたちの召しを尊び、責任についてよく考え、務めを果たして、主イエス・キリストに従いましょう。」(『賛美歌』〔英文〕322番、1節の逐語訳)

わたしたちは年齢も、習慣も、国籍もまちまちですが、神権の召しの下に一つです。

神権者として、わたしたちは困難な時代に地上に送られて来ました。わたしたちは混乱に満ちた世の中に生きています。政治的陰謀が国の安定を破壊し、独裁者は権力を握り、ある人たちは永遠に虐げられ、機会を奪われた結果、自分を落伍者らくごしゃと感じてしまいます。

神の神権者として聖任されたわたしたちには、違いを生み出す力があります。主の助けを受けるにふさわしければ、少年たちを育成し、男性たちを本来の道に戻すことができます。主の聖なる業に仕えて奇跡を行うことができます。機会は無限にあります。

課せられた務めは膨大に思えるかもしれませんが、「今日こんにちの世の中における最大の力は、人を介して現れる神の力である」という真理がわたしたちを強めてくれます。主の用向きを行っていれば、主の助けは約束されています。でもそれには、わたしたちがふさわしければ、という条件があります。現世の海を安全に渡るために、人命救助という使命を果たすために、永遠の航海士、つまり大いなるエホバの導きが必要です。天よりの助けを得るために、わたしたちは手を伸ばして人を助け、主を求めるのです。

差し伸べたわたしたちの手は清いでしょうか。思いは純粋でしょうか。歴史を振り返ると、死に瀕ひんしたダリウス王の言葉から、ふさわしさについての教訓を学ぶことができます。「ダリウスは… …正しい儀式を受けてエジプトの正当な王と認められていました。競争相手のアレクサンダー〔大王〕も、… … アモンの正当な息子であると宣言されていました。彼もまた王だったのです。

・・・戦いに破れたダリウスが死にかけていることを知ったアレクサンダーは、・・・ 彼の頭に手を置いて癒いやし、『立って、王としての力を取り戻すように』と告げ、・・・ 最後にこう言いました。『ダリウスよ、これらのことを真心より、偽りなく行うことを、すべての神々によって、あなたに宣誓する。』・・・〔ダリウスは〕優しく諭して言いました。『アレクサンダー、・・・あなたはその手で天に触れることができるとお思いか。』」2

しばらく前に、『チャーチニューズ』(Church News)の「ビューポイント」(Viewpoint)という欄から霊的な教訓を学びましたので引用したいと思います。

「様々の国籍の船がオレゴン州ポートランド港で貨物の積み下ろしをすることを奇妙だと思う人がいるかもしれない。ポートランドは海から100マイル(約160キロ)も離れているのだ。そこにたどり着くまで、コロンビア川沿いの砂州を渡るのは難しく、流れが荒いことも度々である。コロンビア川とウィラメット川をさかのぼるその旅は長い。

しかし、船長はポートランドへの寄港を喜んでいる。航海中ふじつぼが船体に付着し、岩のような貝で身を包んだまま一生そこで生活する。ふじつぼが多く付着すればそれだけ船の抵抗が増し、推進力が落ちて能率が低下する。船長はこれをよく承知している。

定期的に船を水から上げて、ふじつぼを相当の労力を使ってそぎ落とす必要がある。そのために数日間は船を使用できず、費用のかかる大変な作業となる。

しかし、船がポートランドまで行ければ問題はない。ふじつぼは淡水では生息できないからだ。ウィラメット川やコロンビア川の新鮮な淡水でふじつぼは死に、容易にはがれるようになり、軽くきれいになった船は再び任務に戻って行く。

罪はこのふじつぼのようなものである。少しも罪を身に負うことなく人生を終える人はまずいない。罪は抵抗を増し、わたしたちの進歩を遅らせ、能率を下げる。悔い改めない罪が一つずつたまり、その結果わたしたちを沈めてしまう。

無窮の愛と慈悲で主は,わたしたちが悔い改めによって罪を落とし,赦ゆるしを受けられる港を用意してくださった。心を軽く,きれいにしたわたしたちは,自分と主の仕事を能率よく果たすことができるようになる。」3

神権は、義の強い軍隊、すなわち王国の軍隊を代表するものです。わたしたちは神の預言者であるゴードン・B・ヒンクレー大管長によって導かれています。最高司令官はわたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストです。進行命令は明白、かつ、簡潔です。マタイは主の言葉を引用して、わたしたちの責務を説明しています。

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」4

「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣のべ伝えた。主も彼らと共に働〔かれた。〕5

奉仕の召しは、主の業がどのようなものかを教えてくれています。この召しが都合のいいときに来ることはまれです。召しはわたしたちを謙遜けんそんにさせ、祈りに導き、決意を促します。召しがカートランドに来た後、数々の啓示が続きました。召しがミズーリに来た後、迫害が広まりました。召しがノーブーに来た後、預言者が亡くなりました。召しがグレート・ソルトレークの盆地に来た後、苦難が訪れました。

このような大変な状況の中での長い旅は信仰の試しでした。しかし、試練と涙の炉で鍛えられた信仰の賜物たまものは、信頼と証あかしです。犠牲を数え上げることができるのは、神だけです。神だけが悲しみを測ることがおできになります。神に仕える人の心を御存じなのは、今も昔も、神だけです。

過去の教訓はわたしたちの記憶をよみがえらせ、生活に影響を与え、行動を左右します。わたしたちは立ち止まって、神から与えられた約束を思い起こすよう勧められています。「さて、あなたがたは代理人であるので、主の用向きを受けている。そして、あなたがたが主の思いに従って行うことは何であろうと、主の業務である。」6

この集会に出席している大勢の神権者の中には、執事、教師、祭司の職にあるアロン神権者がたくさんいます。若い男性の皆さんは、人生の教訓について親から学ぶこともあれば、学校や教会から学ぶこともあります。しかし時には、天の御父が教師となって、生徒である皆さんに直接教えておられると分かるときがあります。わたしたちの考えや感情、そして少年期の行いまでもが、永遠にわたり自分の生活に影響を及ぼします。

わたしは執事の職にあったころ、今もそうですが野球が大好きでした。「メル・オット」と名前の入った野手用のグローブを持っていました。彼はわたしの少年時代のスター選手でした。友達とわたしは、家の裏手にある小さな空き地でよく野球をしました。野球をするには狭すぎたのですが、センターに向けてまっすぐボールを打てば問題はありませんでした。しかし、センターよりも右寄りに打つと、災難が待ち構えていました。そこにはシャイナス夫人の家があり、彼女は台所の窓からわたしたちが野球をするのを見ていて、ボールが家の前に転がって来ると、すぐに彼女の大きな犬がそのボールをくわえて行って、ドアを開けた彼女に渡すのでした。そして彼女は家の中に入って、これまで没収したボールの山にそれを加えるのです。彼女はわたしたちにとって楽しみを台なしにしてしまう天敵であり、悩みの種でもありました。シャイナス夫人を良く言う者はだれもいませんでしたが、悪口は随分と言ったものです。だれ一人としてシャイナス夫人に話しかける者はありませんでしたし、彼女の方から話しかけてくることもありませんでした。彼女は片方の足に障害があり、歩くのにも不自由していました。恐らく激しい苦痛を伴ってもいたのでしょう。子どももなく、ご主人と二人でひっそりと暮らしていて、家に引きこもりがちで外に出ることはほとんどありませんでした。

こうした状態が2年ほど続きました。けれどもやがて、一つの霊感に導かれた出来事が、春の陽気が冬の氷を溶かすようにわたしたちのにらみ合いを水に流してくれました。

ある晩、わたしは日課であった芝生の水まきをしていました。当時よく行われていたように、ノズルの付いたホースを手に持っていると、シャイナス家の芝生が乾燥して茶色に変わっているのに気づきました。わたしはいまだに正直言って、どうしてそうしようという気になったのか分からないのですが、その後の数分間、自分の家のホースで彼女の家の芝生に水をやったのです。それ以来、夏の期間わたしは水をやり続けました。やがて秋になると、自分の家の芝生と同じように、彼女の家の芝生にホースで水をかけて落ち葉を流し出し、道路の端に集めて、片付けられるようにしておいたのです。その夏の間、ずっとシャイナス夫人を見かけることはありませんでした。あの場所で野球をすることも、随分前にあきらめていました。ボールはみんな取り上げられてしまい、新しいボールを買うお金もなかったからです。

そんな夕方のことでした。シャイナス夫人が玄関のドアを開けて、わたしに低い垣根を飛び越えてこちらに来るようにと合図しました。そのとおりにして、シャイナス夫人のそばに近づいて行くと、彼女はわたしを居間に通してくれ、座り心地のいい、いすにかけさせてくれました。そしてわたしにクッキーとミルクを差し出してから、台所に行ったかと思うと、何シーズン分かの没収品である野球のボールがいっぱい入った大きな箱を持って、戻って来ました。彼女はその箱をわたしに渡してくれました。しかし、ほんとうの宝物はその箱の中ではなく、彼女の言葉の中にありました。そのとき、わたしは初めてシャイナス夫人のほほえんだ顔を見ました。彼女はこう言ってくれたのです。「トミー、このボールを返したかったの。それから、親切にしてくれてありがとうって言いたかったのよ。」わたしは彼女にお礼を言い、彼女の家に入ったときよりもっと良い子になって出て来ました。もうわたしたちは敵などてはなく、友達となったのです。黄金律を実践したことが実を結んだのです。

父親、監督、そして定員会アドバイザーの皆さん、皆さんの責任は今の時代に宣教師となるべき人々に備えをさせることです。この執事、教師、祭司たちに、伝道に出る義務があることを知らせるだけではなく、彼らが宣教師の召しを通して待ち受けている数々のすばらしい機会や祝福についてビジョンを持てるように励ましてください。それは熱心な働きを求める責任であり、その影響力は永遠に続きます。今は、自分の都合に合わせて働くような兵士を、主の軍勢の中に置いておくときではありません。

神聖な召しにこたえて伝道に出る宣教師は主の僕しもべになります。そしてこの業は確かに主の業なのです。青少年の皆さん、恐れないでください。主が皆さんとともにいてくださるのです。主の御心みこころは必ず果たされます。主はこのように約束されました。「わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり、また左にいる。わたしの御霊みたまはあなたがたの心の中にある。また、わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて、あなたがたを支えるであろう。」7

兄弟の皆さん、人に援助の手を差し伸べる機会がいつ訪れるのか、わたしたちは知ることができません。わたしたち一人一人が通るエリコへの道には標識がなく、わたしたちの助けが必要な疲れた旅人は名もない人々かもしれません。親切にした相手から一言ひとこともないため、もう一度同様の親切を繰り返す気にさせるあの高貴な思いや優しい心を味わえずに終わることもしばしばです。

2、000年前、ナザレのイエスはサマリヤの井戸のそばに座り、ある女性にこう話されました。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」8

もし浮き沈みする人生を自分の弱さのために変えられないと思っている人がいるなら、あるいは、失敗を恐れるあまり改善する決心がつかない人がいるなら、主の次の言葉ほど、確かな慰めをもたらすものはないでしょう。「わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。9

謙遜な祈り、勤勉な備え、そして忠実な奉仕を通し、わたしたちは自らの神聖な召しを果たすことができます。

海洋を航行する船長が、船体にふじつぼが付着して重くなると、進行を妨げるその障害物を取り除こうとして、航路を淡水のコロンビア川やウィラメット川に定めたことを覚えているでしょうか。わたしたちも、生活の中で、また主の業に仕えるうえで、イエス・キリストの福音という生ける水に航路を定めることにより、疑い、怠惰、恐れ、罪というふじつぼを振り払おうではありませんか。すなわち、信仰、祈り、慈愛、従順、愛などの教えを実践するのです。主イエス・キリストという灯台は、生ける水に至る道を示してくれます。主の明かりは、わたしたちの航路を日の栄えへと導いてくれるのです。

わたしたちがこのような航海を行ううえで賢明な船員となれますように。主の御前みまえにあって清い器となりましょう。夫に先立たれた人、子どもの叫び、職を失った人のつらい立場、病にある人が抱える重荷、寝たきりの人、年老いた人、貧しい人、飢えた人、'足の不自由な人、忘れ去られている人、そのような人々に気づき、彼らの必要を満たそうではありませんか。天の御父、その愛されている御子、イエス・キリストは彼らを覚えておられます。わたしたちがこの方々の神聖な模範に従えますように。そうすれば、わたしたちは天与の平安という祝福を受けることでしょう。イエス・キリストの御名みなによって、アーメン。