2000–2009
いつまでも幸せに暮らす
脚注

Hide Footnotes

テーマ

いつまでも幸せに暮らす

救い主イエス・キリスとは、幸福への道を示し、幸せになるためにわたしたちがなすべぎことをすべておしえてくださいました。

子どもたちは物語が大好きです。子どものころ、わたしは「昔々」という言葉で始まる物語にすぐ引き込まれました。このような物語はたいてい「いつまでも幸せに暮らしました」という言葉で結んでありました。こういった言葉に好奇心をそそられるのは子どもだけではないと思います。わたしたちは皆、「昔々」自分の人生が始まったころ幸福で満たされ、その後も希望と夢があり、「いつまでも幸せに暮らせる」ような人生を願っています。

わたしたちは自分の人生の物語の始まりを生きているのです。地上で時が与えられ、この世の試しを経験しているのです。前世においてわたしたちが偉大な永遠の幸福の計画を受け入れたとき、「神の子たちはみな喜び呼ばわ」りました(ヨブ38:7)。わたしたちは地上に生まれて霊的に成長する機会を得る時を心待ちにしていました。「人が存在するのは喜びを得るためで」す(2ニーファイ2:25)。地上での生活の後にも続く幸福を得る機会が、今、ここにありますが、幸福とは何なのか、どうしたら幸福を得られるのかを知る必要があります。

モルモン書の中で、リーハイは息子ヤコブに幸福とは従順の結果得られるものである、と説明しました。またリーハイは、永遠の律法にはそれに付随した罰か、幸福を得る機会の両方がある、とも話しました。神の律法に背くと罰を被りますが、従えば幸福になります(2ニーファイ2:10参照)。幸福になる条件の一部は、後悔の念や過ち、罪がないことです。

預言者ジョセフ・スミスは次のように教えました。「幸福とは我々の存在の目的であり計画でもある。幸福に至る道を歩んで行くならば、そこに行き着く。こきよの道のりとは徳、高潔、忠信、聖きよさ、神のすべての戒めを守ることである。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith、ジョセフ・ブイールディング・スミス選〔1976年〕255-256)

エミリーという名の年若いお友達は、このことに自分で気がつきました。エミリーには福音に対する証あかしがまだなく、教会に活発でい続けようか、それともほかの場所で幸せになる方法を探そうかと、ずっと考えていました。エミリーはその答えを探すうちに、自分の周りにいる人々や家族で、いちばん幸せそうにしているのは、教会に活発でいる人たちであることに気づきました。その発見があってから、エミリーは福音が真実であるという完全な証がまだなくても、人をこのように幸せにする何かにかかわっていきたいと思いました。福音とは「良い知らせ」という意味の言葉であり、エミリーが気づいたように、その良い知らせとは、福音がわたしたちをとても幸せにしてくれるということなのです。

けれども、皆さんは、教会の中にも幸せではない人や、普段は幸せでも精神的な王迫や、心配事、試練、落胆などを時々経験している人たちがいる、と考えているかもしれません。これも偉大な幸福の計画の一部なのです。死すべき状態とは試験と試練のときであり、わたしたちが苦痛やつらい気持ちを味わうときが必ずあるということなのです。しかし、永遠の計画を根気よく信じ続けることにより、わたしたちは日々幸せを経験し、「いつまでも続く幸福」を得られるという希望を持つことができます。

ボイド・K・パッカー長老は次のように説明しています。

「人生とは難しいものであって然しかるべきなのです。多少悩み、意気消沈し、落胆し、時には失敗しても当たり前なのです。会員の皆さんに、ほんとうに惨めな日がたまにある場合、またそのような日が何日か続いた場合は、問題にしっかりと立ち向かうように教えてください。物事は改善するものです。このような人生の闘いには深い意味があるのです。」("That All Might Be Edified"〔1982年〕94)

わたしたちが神を信頼し続け、試練のときにも戒めに従うなら、逆境のさなかにあってさえ求めている幸福に近づくことができる、というふうに、わたしたちの幸福探求の物語は進みます。救い主は次のように言われました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

救い主イエス・キリストは、幸福への道を示し、幸せになるためにわたしたちがなすべきことをすべて教えてくださいました。救い主の教えを学び、それによって自分が存在する目的を理解するとき、わたしたちは幸せを感じ、その気持ちが外にも表れるのです。

教義と聖約で、主はわたしたちに「喜びの心と楽しげな表情」で礼拝するように言われました(教義と聖約59:15)。わたしたちは幸福につながる習慣と態度を身に付けることにより、「いつまでも続く幸福」への、より早く、確実な道をたどることができます。

わたしたちの預言者であるゴードン・B・ヒンクレー大管長こそまさに喜びの心を持った人です。大管長はこう記しています。「わたしは楽天家です。わたしは、嵐あらしを探し求めることをやめ、日の光を十分に楽しむよう、皆さんにお願いしたいと思います。人生を切り抜けるに当たり、『良いこと』に目を向けようではありませんか。」(Standing for Something〔2000年〕101)

子どもはたいてい「喜びの心と楽しげな表情」という態度の良い模範を示してくれます。子どもたちは幸福で楽観的な考え方をするのが得意で、ほかの人々を一緒に楽しませてくれます。

主人とわたしは、孫を4歳の誕生日に昼食へ連れ出しました。昼食の後、孫を車の後部座席に座らせ、シートベルトを締めて家に向かいました。前の席でわたしと主人はその日の予定について話を始めましたが、わたしはこの4歳になった子どもが、何度も、「ぼくは運がいいなあ、ぼくは運がいいなあ」と言っているのを聞きました。この子は聞く人すべてに自分の喜びを表していたのです。

わたしたちはこのような幼い子どもたちから、喜びがいかに簡単なものであるかを学ぶことができます。幸福とは何か、どこで見いだすことができるのかをわたしたちに教えてくれる初等協会の子どもたちの意見をご紹介したいと思います。

ある子どもは、「ほんとうに幸せかどうかは、その人の目を見ると分かるので、.幸せとは笑顔のようなものです」と言いました。この子どもは幸福が笑顔のように簡単なものだと知っています。

先日わたしはスーパーに立ち寄って夕飯に出すものを急いで買おうとしました。通路を曲がると、お年を召した男性とぶつかりそうになりました。ぶつからなくてよかったと思いながらにっこりすると、その男性もにっこり笑い、「ほほえんでくださってありがとうございます。わたしには笑顔が必要だったんです」と言いました。わたしもその男性の笑顔が必要でした。笑顔は皆さんや周りの人々に影響を与えます。ほほえむことができず、人の笑顔を見ることもできなかったとしたら、人生はどうなってしまうでしょう。

幸福とは簡単であるばかりか、日々経験できるものです。幸せは至る所にあります。今すぐ手に入れられるほど身近なものです。ある子どもたちは、「幸せという言葉は花に囲まれています」と言いました。ほかの子は「虹みたい」「太陽のようなものです」と言いました。人生のいかなる試練に直面しているとしても、幸福になれるときは今である、ということを忘れないでください。

何か月か前、わたしは4人の孫たちと朝の山道を散歩しました。わたしたちは自然の中で見つけた宝物を集められるよう、一つずつ袋を持って行きました。自分たちの収集物に加えるものを探すうちに、わたしたちはたくさんの異なる色や形、手触りの葉や石を見つけました。選ぶのが大変でした。わたしはすぐに子どもたちの袋がいっぱいになりつつあることに気づきました。子どもたちが選んだ葉は一枚一枚が独特のものでしたが、晩秋だったので、そのほとんどには風雨にさらされてできた黒っぽい斑点はんてんがあったり、形が崩れていたり、しおれたり色あせたりした部分がありました。そのため、わたしは自分の袋に葉を入れかねていました。わたしは色がいちばん鮮やかで欠陥がない葉を探していました。完壁かんぺきな葉でなければ取っておかないつもりでした。しかしそのおかげでわたしの袋にはほんの少ししか入っていませんでした。

その後この経験について考え、わたしは自分のものになっていたかもしれない喜びと幸せの多くを自分から取り上げていたことに気づきました。わたしには物事の独特のすばらしさが分かりませんでした。自分が完壁だと考えるものを探していたからです。孫たちの方が賢明でした。葉の変わった形や、斑点を存分に楽しんでいました。枯れかけた葉が砕けやすく、ぱりぱりしているのを見て、くすくす笑い、楽しんでいました。また、柔らかい、薄れた色を見て喜んでいました。そして家に持ち帰るすてきな宝物で袋をいっぱいにしました。主が計画してくださったことではなく、自分の望みに関心を向けすぎると、わたしたちは日ごとのまたとない幸福や美しさを見落とし、楽しめないことがあります。

幸福とはイエス・キリストの福音の知識です。ある子どもは、「幸せとはイエス様や天のお父様のように平安なものです」と言いました。

最近、初等協会に出席し、1歳2か月の子どもをひざの上に乗せていると、その子が顔を上げて、壁にかかっていた救い主の絵を見ました。その子はにっこりして、「イエス様」と覚えたばかりの言葉を言いました。恐らく、この小さな子どもは救い主を知る喜びを理解しているのでしょう。

わたしたちの心に無上の喜びをもたらすのは、キリストの純粋な愛を知り、感じることです。自分の過ちは赦ゆるされ得る、と知ることです。正義の要求を満たし、わたしたちを憐あわれんでくださる救い主の贖あがないにより、希望と喜びがもたらされるのです。救い主に近づくとき、わたしたちは疑いや混乱から自由になります。

リチャード・G・スコット長老は次のように言っています。「人生で喜びが得られるかどうかは、皆さんが天父と御子をどれだけ信頼しているかにかかっています。また、神の幸福の計画が喜びをもたらすことを、どれだけ確信しているかにかかっています、」(「人生に喜びを見いだす」「聖徒の道』1996年7月号、30)

救い主によって、わたしたちは神のみもとへ戻る道を見いだすことができます。わたしたちはこの世で平安と幸福を見いだし、次の世では永遠の喜びを見いだすことができます。このことを考えただけで、心が温まり、わたしはほほえまずにはいられなくなります。

偉大な幸福の計画を理解するにつれ、わたしたちは喜びの心と楽しげな表情を表に現すようになり、この世のすべての人々がそれに気づくようになります。わたしたちはイエス・キリストの福音が簡単で、現世と永遠にわたって得られる真の幸福の源として変わらず存在し続けるものであることを人々に示すようになります。イエス・キリストの福音に従って生活することこそ、「いつまでも幸せに暮らす」秘訣ひけつなのです。イエス・キリストの御名みなによって証あかしします。アーメン。