2000–2009
個人の証
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個人の証あかし

聖霊にはわたしたちの生活に光と理解をもたらす力がおありになるが、それを求めて得るには代価を払わなければならない。

これから神権者の皆さんと、個人の証に関する架空の会話を交わしたい思います。今日きょうは日常会話のような形で話を進めます。そうすることで、わたしのメッセージが伝わるよう願っています。今日の話の目的上、わたしは孫の名前で呼びかけることにします。その名前を自分の名前だと仮定し、わたしが若人の皆さん一人一人に直接話しかけていると思ってください。

愛するジェームズ、君は少年のころ、このように証したね。「ぼくは、福音が真実だと知っています。イエス・キリストは神の御子です。ジョセフ・スミスは真の預言者です。」周りの人がそう言ったので、君は信じていたわけだ。君は、親や、監督、周りの人を信頼していたので、自分の知っている事柄を決して疑わなかった。今や、君はもっと自立して、短時間にあまりにも多くの出来事で彩られるすばらしい人生にあって、その出来事一つ一つの知識、理解、そして感じ取る力が増し、しばしば、君はすべての人が同じ証、すなわち「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」を感じていないことに気がついているね(ピリピ4:7)。

ジョナサン、もしかしたら君は、こんな大人がいることにもう気づいているかもしれないね。彼らは蹟いや復活、永遠の命というすばらしい概念をあざ笑い、そのような概念について君に話そうともしない。その代わり、彼らは君に、「明日は死ぬ身なのだから、飲み食いし、楽しみなさい」と言うだろう。手探りで答えを求めてはいるものの見つけられないでいる人も目にするだろうね。彼らは得てもいない知識を君にひけらかそうともするよ。また、このように言う人もいると思うよ。「ひょっとしたら真実かもしれないし、そうでないかもしれない。でも、わたしたちの最善策は環境に順応することだ。この世の人生を終えた後に来世というものが存在するなら、何が起こるかはそのときに分かる。」

さて、アンドリュー。わたしは君の考えと感情を理解できるよ。君は、このような異なったメッセージを聞くとき、何が正しくて、何が間違いなのか自分に問いかけるね。

君の心にはきっとたくさんの疑問が浮かんだと思うよ。でも実は、答えを得るために誠心誠意を尽くすならば、迷ったり疑問に思ったりすることで罰を受けることはないんだ。わたしたちの知能は使うために与えられているんだよ。個人の祈り、研究、従順を基にした信仰は、盲目的な信仰よりも長続きし、報いが大きく、堅固であることが確かなんだ。

ポール、救い主のこの言葉を覚えているかい。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう』この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18:3-4)わたしたちは、幼子おさなごのような謙遜けんそんさと素直さから得るものもあるけれど、絶えず成長しなければならないし、子どものような限られた福音の知識と理解力に満足していてはいけないんだ。ポール、君と同じ名前の使徒〔注英文はPaul、聖書ではパウロと訳出〕がコリント人へ話したことを覚えているかい。「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。」(1コリント14:20)

では、ラッセル、「そういう場合、自分で答えを見つけなければならない」と考えるかい。「このような証を持つことは可能なのか、少数の人にのみ与えられている賜物たまものなのか。また、知っていると言う人は、ただ知っていると思っているだけなのか、それとも心理的な錯覚を起こして信じ込んでいるのだろうか。」

君の質問に答え、さらに詳しい説明を加えるために、ジョン・A・ウイッツォー長老の言葉を引用しよう。福音に対する真の証がある人は「最も高いレベルの知識を有する。真理を知り、それに従うと、その知識は啓示という形でもたらされる。……それはまさに、人間の最も大切な所有物である。」("What Does It Mean to Have a Testimony? "Improvement Era、1945年5月号、273、強調付加)ここで、証は「最も高いレベルの知識」、そして「人間の最も大切な所有物」と定義されていることが分かるかい。またこれについて、救い主は教義と聖約で、「心の中にとどまる」知識であると説明しておられるんだ(教義と聖約8:2)。

君の年齢で、このことを理解するのは難しいかもしれないけれど、証は来世にも残るものなんだ。わたしたちは死ぬとき、この世のものをすべて後に残すけど、心で確信している証は消えることはない。ジョセフ・スミスのことを考えてごらん。彼の命を奪った者でも、彼の証、すなわち最も大切な所有物を奪うことはできなかった。預言者ジョセフは死の幕を越えて永遠にわたり、証というかけがえのないものを所有しているんだ。主はショセフに「父の王国に・・…王座を用意している」と約束しておられた(教義と聖約132:49)。また同時に、「覆されることのあり得ない誉れと名声を残した」その証は、わたしたちの心にとどまっている(教義と聖約1353)。確かな神の証人である預言者の証を思い出そう。「『〔キリスト〕は生きておられる。』わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また、わたしたちは証する声を聞いた。『彼は御父の独り子であ〔る。〕』」(教義と聖約76:22-23)

マシュー、君は証が永遠のものであると分かったね。では続けて、証を得るのに必要なことを行えば君もまた証を得られることについて話そう。

忠実で献身的な若いニーファイは、兄たちの反抗的な態度に困っていたある時期に、次の方法で証を得られると兄たちに思い起こさせた。主の次のような言葉だよ。「もしあなたがたが心をかたくなにせず、わたしの戒めを熱心に守りながら、答えを与えられると信じて信仰をもってわたしに求めれば、これらのことは必ずあなたがたに明らかにされる。」(1ニーファイ15、11)では、ここでニーファイが説明した方法を復習してみよう。

まず第1に、心をかたくなにしないこと。知ろうとすること。言い換えれば、熱心に知ろうと努力することだ。種を植え付ける場所を心に持ちなさい。するとどうなるか分かるかい。アルマはこう言っているよ。「心をかたくなにしない者は、・神の奥義を知ることが許される。」(アルマ12:10)

第2に、信仰をもっτ尋ねること。聖文を学ぶとき、祈りなさい、求めなさいという戒めが、何度も何度も「与えられると信じて」という言葉と一緒に出てくるか気づいているかい。知識を得ようとする過程で信仰を行使すること、つまり、知識を得る前に信じることが必要なんだ。これについて説明するため、アルマがどのように自分の証を得たか考えてみよう。

「見よ、……わたしは自分でこれらのことを知ることができるように、幾日もの間、断食をして祈ってきた。そして、これらのことが真実であるのを、わたしは今、自分自身で知っている。主なる神が神の聖なる御霊みたまによってこれらのことをわたしに明らかにされたからである。わたしの内にある啓示の霊によって知らされたのである。」(アルマ5:46)

第3は、戒めを守ること。モルモン書には、わたしたちが善い行いをたくさんするときに得られる祝福が記されているんだ。ベニヤミン王は民に向かってこう宣言したよ。「これらのことをすべて信じるならば、必ずそれを実行しなさい。」(モーサヤ4:10)また、偉大な宣教師アンモンはこう言っている。「まことに、悔い改めて信仰を働かせ、善い行いをし、絶えず祈り続ける入には、神の奥義を知ることが許され〔る。〕」(アルマ26:22)

コール、証を得るときに通らなければならないいろいろな段階について検討してみたね。でも、わたしたちに確証と絶対的な確信を与えてくれる最も大切なものが残っているんだ。それは、君がふさわしければ聖霊を伴侶はんりょとする権利があることだ。モロナイ書での約束を覚えてほしい。「そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:5)わたしが聖霊を伴侶とすると言ったことに注目してほしい。聖霊にはわたしたちの生活に光と理解をもたらす力がおありになるが、それを求めて得るには代価を払わなければならない。

マリオン・G・ロムニー長老はこう記している。「聖霊の使命は受ける資格のある人に天の真理を現すことである。わたしたちは皆、努力すればその資格が得られる。しかし、心に留めておかなければならないのは、聖霊は汚れた所にはとどまることがおできにならないことである。聖霊は神の共同体に属し、御父と御子と働きを共にされる御方である。聖霊の賜物を受けるとき、わたしたちが聖霊を受けるように戒められており、聖霊がわたしたちのもとへ来るよう戒められることはない。しかし、心を尽くして聖霊を求めるならば、聖霊は、人生でのいかなる重大時にも正しく決断できるよう、わたしたちを訪れ導いてくださる。」("Revelation in Our Personal Affairs、"Relief Society Magazine1955年10月号、647)聖霊はまた、次のようなことを証してくださる。御父と御子の実在しておられること。イエス・キリストが蹟い主であられること。末日聖徒イエス・キリスト教会という、救い主の御名みなを冠した真の教会を管理する預言者が地上に存在すること。神の業と約束はすべて主の定められたときに主の方法によって成就すること。

最も幼い孫のテート、最後に証とは何かについて話して終わることにしよう。それを定義するのに最善の方法は、恐らく証が生活にどう反映しているかを見れば分かるかもしれない。つまり、証とは「〔その結果を承知しているので、自分で〕行って、主が命じられたことを行います」と言い(1ニーファイ3:7)、それから実行に移すことだ。また、できることをすべて行い、すべての才能を最大限に用いたと分かった後にもたらされる平安を得ることも含まれる。さらに、主がヨシュアに与えられた次の戒めに従うことでもあるんだ。「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」(ヨシュア1:9)また、「苦難の中で忍耐強くあり」(教義と聖約31:9)、決してあきらめずに、周囲の人に模範となるよう行動することでもあり、「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をする」ことでもある(1ペテロ3:15)。そして、この世の人に「イエス・キリスト〔は〕神の御子、天地の父、時の初めからの万物の創造主〔である〕」と宣言することなんだ(モーサヤ3=8)。このように、またこれ以外にも、数多くの特質や行動によって証は培われていく。これが君に対する証だよ。イエス・キリストの御名により、アーメン。