2000–2009
与えられたもので満足する
脚注

Hide Footnotes

テーマ

与えられたもので満足する

人生の決定的瞬間はわたしたちが置かれた場所で起こり[ます。]問題はどう対処するかです。それはだれもが試されれることなのです。

兄弟姉妹の皆さん、わたしは皆さんとともに、このカンファレンスセンターに象徴されるような、たゆみなく教会の将来を形作るヒンクレー大管長の姿勢に感謝したいと思います。

アルマの短い言葉が、まじめな人々や彼を通して改宗した人々の心を開きました。「わたしは主から与えられたもので満足すべきだからである。」(アルマ29:3)けれども、その直前までアルマは「神のラッパ」となり「地を震わせる」ことを切に望んでいたのでした(アルマ29:1)。もちろん利己心から望んだのではなく、アルマは全人類に悔い改めと贖あがないの計画を告げ知らせて、地に悲しみがなくなるようにしたかったのです(アルマ29:2参照)。しかしアルマは、最終的には神が人の望むままになさるということに満足を覚えます(アルマ29:4参照)。これ以上に公平なことがあるでしょうか。

こうして召しに満足を覚えたアルマは、人を救う器となることを謙虚に望みます(アルマ29:9参照)。この重要な霊の旅路がわずか9節の独白の中に込められています。

わたしたちも自分の望みをよく吟味して神の御心みこころに合わせれば、これと同じ満足が得られます。

例えばある人は、貧困のために非常に限られた機会にしか恵まれない状況に置かれています。「そして民は、彼らの富と学問の機会の多少に応じて階級に区別され始めた。まことに、貧しいために無学な者もいれば、富んでいたので大いに教育を受けた者もいた。」(3ニーファイ6:12)

さらに、邪悪な社会制度は、過去に奴隷制度や強制収容所のような悲劇を生んできました。

しかしながら、わたしたちは与えられた環境で最善を尽くし、同時に「限界」を広げていかなければなりません。わたしたちは与えられたものの中で霊的な満足を得ることができます。パウロはこの状態を「信心があって足ることを知る」というように表現し、愛、希望、柔和さ、忍耐、従順などの資質が十分ある状態と示しています(1テモテ6:6)。

しかし、人生には明確な限界があります。例えば地理的な限界や心的あるいは身体的な限界を味わっている人います。自分に落ち度がないのに伴侶はんりょに恵まれない人や、心から望んでも子どもが授からない夫婦もいます。また、「独り立ち」して親の忠告を拒む子や孫などといった(3ニーファイ1:29)、家族の中でのいつまでも和解できない人間関係の問題に直面している人もいます。こうした胸の痛む状況は枚挙にいとまがないのです。

満足とは自己憐憫じこれんびんなしに受け入れることです。しかし従順に堪え忍ぶならば、このような欠乏は、大きく高められた魂で埋めることができる穴のようなものにすぎないと言えるようになるでしょう。

中には、この世での安定した生活を突然打ち破られるような経験をする人もいます。ある人々は「一時的な」試練に襲われるだけですが、与えられたものを「受け入れる」しかない人もいます。パウロは自分の「肉体に一つのとげ」があることを「受け入れて」いました(2コリント12:7)。

そうした現世での配分は、来たるべき世で一変すると言えば十分でしょう。来世でのわたしたちの状態を決定する、悔い改めていない罪だけが例外です。

したがって、与えられた制限や機会の中で満足感を育てることはわたしたちに与えられた課題です。これがうまくいかないと、使ってもらえない、期待されていない、感謝されていないといった気持ちになりますが、皮肉にも周りには用いられていない奉仕の機会が身近にあるのです。ですから、力強い天使の声のような、神が授けてくださった以上のものを求めるべきではありません。授けられた中でできることがたくさんあるからです(アルマ29:3-4参照)。さらに、与えられた環境がどうあれ、神の戒めを守ることはできるでしょう。

わたしたちは「〔わたしたちに〕与えられたもの」をもとに構成される個々の人間というサンプルを、臨床体としてお互いに提供し合っています。そのサンプルは大きくなったり小さくなったりしますが、最も大切なのはそれぞれが与えられたものや「〔自分たちが〕召された務め」の範囲内でどう振る舞い、どう行動するかです(アルマ29:6)。

したがって「神聖な今という時」にあって、わたしたちが弟子として仕える範囲は決まっています。自分の救いを全うするために、高い地位や人の称賛は必要ないのです。

しかし対照的に、行動を改善するうえで、そう望むすべての人に越えられない国境や発給されない査証はないのです。

したがって、改善は日々の出来事であり、わたしたちが努力して必要なことを学ぼうとするときには、いつも主に忍耐していただく必要があります。

自分自身について、また将来の出来事について驚くべきことを耳にしたマリヤは、「これらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらして」いました(ルカ2:19)。満足はしばしば思索の後に来ます。

大切なのは演技で、舞台の大きさではありません。わずか長さ13マイル(約21キロ)幅7マイル(約11キロ)のガリラヤの海は、信仰をもって海の上を歩くという経験を弟子たちに得させるに十分な広さでした(マタイ14:22-23参照)。風は恐ろしいほど強く吹いていたとあります。それでも、ガリラヤの波の高さは、ニーファイとその一行が大海で耐え抜かねばならなかった嵐あらしとは比べものになりません(1ニーファイ18:13-21参照)。しかしどちらも、心ある人には必要な教訓を与えてくれます。もちろん、波の比較については気をつけなければなりません。ノアという大御所が控えていますから。

いずれにせよ、あたかも目立たない善人が「よく働」くように、それほど派手ではない出来事といえども、物事を成し遂げるには十分効果的なのです(アルマ48:19)。

より大きな例で言えば、例えば預言者モルモンは最初、民が悔い改めに至る悲しみを抱いていると考えていました(モルモン2:12-13参照)。しかし彼はすぐに、それが悔い改めに至る悲しみではなく「罰の定めを受ける者の悲しみ」であり民を「中途半端な状況」に置くものだということに気づきます。これを放蕩ほうとう息子の孤独な悔い改めの過程と比較してください。彼の悲しみは本物で、彼は心から「本心に立ちかえっ〔た〕」のです(ルカ15:17)。わたしたちは「悲しむべき経験」から学ぶこともありますが、学ばないこともあります(教義と聖約121:39)。

人生の決定的瞬間はわたしたちが置かれた場所で起こり、そこでわたしたちは「永遠にまで影響の及ぶ」選択をします。問題はどう対処するかです。それはだれもが試されることなのです(マタイ6:34参照)。

中には全世界よりもかなり安い値でいつも魂を売っている人がいます。ロバート・ボールトの『わが命つきるとも』(A Man for All Seasons)では、トーマス・モァ卿が、地元の役人に買収された友人のリッチの裏切りで殉教することになります。モアは「リッチの顔をのぞき込み、痛みとからかいの入り混じった声で語りかけた。『鯨のためだって?たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。1 それが鯨のためたとは!』」と鋭く問いかけます(A Man for All Seasons〔1960年〕92)。これと同じ言葉を霊的な事柄から遠さけるあらゆることに向けて発しようではありませんか。

イエスは過去も現在も宇宙の主であられます(教義と聖約451;7624;モーセ1 。33;21参照)。けれともよく知られているように、主の業か行われたのは、地理的に非常に限られた場所でした。イエスの伝道の旅は小規模なものでした。しかしその中で、全人類への贖あがないの業か完成したのです。コルコタよりも有名な丘があったでしょう。ケツセマネよりもきらびやかな園があったでしょう。でも、人類史の中心を成す出来事の場所として、そこは十分だったのです。

わたしたちは悔い改めにより栄光の贖罪しょくざいにあずかることができます。また、家族や友人といった限られた範囲の人間のサンプルの中で、仕え、赦ゆるすことを学ぶことができます。

神の正義と憐あわれみは完全ですから、最後の裁きのときには、かつては神の正義や憐れみに、また現世で与えられた環境に疑問を差し挟んた人からも、不平はまったく聞こえません(2ニーファイ9:14-15;アルマ5:15-19;12:3-14;42:23-26;30参照)。

このようにわたしたちは、環境については「与えられたもので満足すべき」ではあっても、自己満足に甘んじたり、振る舞いにおいて消極的であってはならないのです(3ニーファイ12:48、2727;マタイ5:48参照)。

この満足は肩を落とした消極的なものではありません。無関心ではなく積極的な参加を反映したものです。

主はわたしたちの置かれた環境や心の思いを御存じで、才能や賜物たまものを与えてくださっています。そして、与えられた環境の中でどう行動したかを完壁かんぺきに測ってくださいます。それには、多くの垂れた腕を挙げることも含まれます。ですから身近なことに手を差し伸べずにいながらもっと大きな機会を求めるのは、霊的に芳しくありません。

わたしたちが与えられた場所で何ができたか、何をしてきたかは、ぶどう園の主がよく御存じです。

主がその業に弱き者を用いられる一つの埋由は、その柔和さと霊的な満足度の大きさからかもしれません(教義と聖約1:19、23;35:13;133:58-59;1コリント1:27参照)。いずれにしても、この世的な人は主の目立たない業にはあまり関心を示しません。

重要なことは、主もわたしたちに御心みこころを行わせるために天の軍勢を遣わして脅かすようなことはなさらないということです(マタイ26:47-53参照)。主の御心は強いられてではなく、「御言葉みことば」によって行われるのです(アルマ36:26)。規則は常に変わりません。「それでも、あなたは自分で選ぶことができる。」(モーセ3:工7)主はわたしたちが臆おくすることなく変わることを望んでおられるのです。

この変化の時代にあって主が望んでおられる変化はただ一つ、自分の意志で罪に背を向け、主に立ち返ることです。主がわたしたちを圧倒するのではなく、わたしたちが自分で世に打ち勝てるように助けようとなさるのは、そのためです(教義と聖約64:2;黙小3:21参照)。

わたしたちは信仰の強い人々が、あたかも有刺鉄線で囲まれたような環境の中で思いやりを示すのを目にします。そうかと思うと、裕福でもとげのある行動を取る人もいます。一方で、満足しない人々は、自己憐欄というオリンピックサイズのプールを作るのです。

わたしたちはアルマの霊感に満ちた示唆的な物語に別のものを見ます。アルマは、主はすべての国に主の言葉を説き教えることのできる人を置かれることを認めています(アルマ29:8参照)。したがって、自分の分担を広げようと何度も強く求めると、実際にほかの人々が働く場を狭めてしまいます。さらに、わたしたちが満たされた気持ちで信頼を示せば、聖霊が貴重な時間を特別な働きに費やすことがおできになるのです。

霊的な波長が合うと、「すべてのことの意味」を知らなくとも(1ニーファイ11:17)、霊的な確信が生まれます。この満たされた確信から生じるのは、高慢ではなく静かな悟りです。「熱心に… … 携わり」ますが、鐘や太鼓で触れ回ることはしません(教義と聖約58:27。28節も参照)。

この霊的な満足が得られるのはイエスの贖罪を受け入れるときです。なぜなら「神の慈いつくしみと神のたぐいない力、神の知恵、神の忍耐、人の子らへの神の寛容を知るようになり、また… … 世の初めから贖罪が備えられてきたことをも知るように」なるからです(モーサヤ4:6参照)。兄弟姉妹の皆さん、もう一度考えてみてください。「ラッパ」からへりくだった「器」へ、「地を震わせる」ことから「幾人かでも悔い改めに導」くことへのアルマの望みの変化は驚きです。さらに言い添えれば、わたしたちが成長する機会が与えられていることは何と驚くべきことでしょうか。それがわずか9節で表現されようと、一生かかろうと。

妻のコリーンとわたしには特別な孫娘アンナ・ジョセフィンがいます。彼女には生まれつき左手がありません。先日、もうすぐ5歳のアンナ・ジョセフィンと3歳になるいとこのタルメージが話しているのを聞いていました。一緒に遊んでいたタルメージが自信たっぷりに言いました。「アンナ・ジョセフィン、君は大きくなると指が5本になるよ。」アンナ・ジョセフィンが言いました。「違うわよ、タルメージ。大きくなっても指は5本にならないけど、天国に行ったらわたしは手を頂けるのよ。」

もしもアンナ・ジョセフィンがこれからの困難な日々にも与えられたものにしっかりつかまって生活すれば、たくさんの人々にとって大いなる祝福となるでしょう。

アルマの言葉がわたしたちの時代まで取っておかれたのは大きな祝福です。アルマの言葉を自分たちに当てはめることができますように(1ニーファイ19:23参照)。

わたしはこれを、すべてのすずめの数を数え、すべての指の数を数えておられながらも、宇宙の主である御方、イエス・キリストの御名みなにより申し上げます。アーメン。