2000–2009
自制の力
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自制の力

自制は……わたしたちの人格を最終的に試すものです。

兄弟の皆さん、今晩わたしたちは歴史的な機会に参加しています。いかなる神権時代にも開かれたことのない最も大規模な神権会に集っているのです。わたしたちはこのすばらしいカンファレンスセンター以外の場所に集っておられる数え切れない人々すべての出席をうれしく思います。この新しく、壮大な建物で初めて集会を持つことは、人類の歴史にあってすばらしい出来事と言えます。わたしたちは、ゴードン・B・ヒンクレー大管長に霊感を与え、預言者としてのビジョンをもって導かれた主に深く感謝しています。このビジョンにより、カンファレンスセンターの建設が計画され、完成に必要なすべての事柄が可能となりました。わたしたちはH・デビッド・バートン監督、そしてリチゼード・C・エッジリー、キース・B・マクマリンの両副監督、そのほかこの建物の建設に携わったすべての人々に感謝しています。この建物が完成した今、わたしたちは民の信仰を強めるためにこの施設を利用しなけれなりません。

兄弟の皆さん、今晩、わたしは自制の力について広い意味でお話ししたいと思います。自制は神の神権の力を行使するうえで不可欠な要素です。なぜなら、この偉大で神聖な力は義に基づいてのみ行使できるものだからです。自制には自己の決断力と人格的な強さが求められます。自制にはわたしたち自身の賜物たまものや才能を驚くべき方法で強める働きがあります。それは高潔な男らしさという力です。

すべての人、特に神権者には、自分の思い、欲求、言葉、怒り、願望といったものを抑制するチャレンジが与えられています。このようなチャレンジの中に短気な性格が挙げられるかもしれません。子どものころ、わたしは赤毛でした。母からは時々、わたしの短気な性格が髪の毛の色によく表れているとしかられたものです。わたしはよく友達から「赤毛」と呼ばれましたが、それはけんかを売る文句でした。わたしは短気を抑えることができるようになったと思います。始末に負えない短気を抑えなければならないのは赤毛の人たちだけではありません。いらだちがわたしたちの感情を支配しないようにするためには意志の力が必要です。 

ある地方紙で最近交通量の増大に伴う現象を採り上げていました。「クラクションの音、前方の車の直後に張りつくように走る行為、卑わいな身振り、これらは交通ラッシュ時によく見られるひとこまである。また、法を無視した運転時の暴力さえ増加の一途をたどっている。」 時として、怒りは抑制が利かなくなることがあります、わたしたちはそれを「道路の嵐あらし」と呼んでいます。わたしは、車のハンドルを握り、窓ガラスと鋼鉄の車体に守られると人格が変わってしまう男性がいるのはなぜかとよく不思議に思います。ある意味で、このような環境に置かれたことが粗暴な行為の言い訳となっているようです。しかし道路の嵐は交通渋滞ではなくわたしたちの態度によって生じるものです。短気を起こし過度に攻撃的になった運転手が、自分をコントロールできなくなり、高速道路で相手に重傷を負わせたり、死に至らしめたりすることさえあるのです。

自制はすべての人にとってチャレンジと言えます。自らの欲求と感情を抑制できるのは自分以外にありません。お金や名声によって得ることのできないものです。それはわたしたちの人格を最終的に試すものです。自制には、人生の深い谷を這い上がり、自らのエベレスト山を登るような努力が要求されるのです。

専任宣教師として働くときに、わたしたちは自制について偉大な教訓を学びます。起床すべきときに起床し、働くべきときに働き、床に就くべきときに床に就くことを学びます。専任宣教師が伝えるメッセージはわたしたちの望むほどには受け入れられていませんが、彼らは多くの人々から称賛され、尊敬されています。大管長会やそのほかの中央幹部は州の多くの指導者や、大使、世界中から訪問する閣僚と会う機会があります。宣教師の話題になると、大きな力と影響力を持つこれらの入々はしきりに、母国で見た宣教師について称賛と尊敬の念をもって語ってくれます。

教会の若い長老たちは、若い男性の模範です。畢老たちが訪問すると、彼らが上品な身なりを保ち、髪の手入れも行き届いているため、独善的であると批判する人々がいます。主の代表者として自分の召された土地で、人々に教えた標準と原則に従って生活しようと努力している帰還宣教師がどうして独善的と見なされるのかわたしには理解できません。もちろん帰還宣教師はいつでも白いシャツとネクタイを身に着けるよう期待されているわけではありません。しかし、流行に乗っていると思われるようなだらしない服装や変わった髪型は、神権の神聖な召しを受けている男性にはふさわしくありません。帰還宣教師は、将来宣教師となるアロン神権の若い男性にとって模範となる存在です。アロン神権者にとって、見ることは、聞くことよりも影響力があり説得力があるのです。

人はよく、受け入れられたいグループから注目され、認めてもらおうとします。このような仲間からの圧力によって、ほかの状況下ではまずしないようなことを行うことがあります。仲間から注目され認られようとする行為は、強さではなく弱さから生じるものです。主はモロナイを通して次のように語られました。「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜けんそんにするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」1

最も簡潔に表現すれば、自制とはすべきことを行い、すべきでないことを行わないということです。自制には強さ、意志の力、そして正直さが求められます。インターネットによる情報の流出が激しさを増す中で、わたしたちは善と悪を区別するためにもっと自らの道徳的フィルターに頼らなければなりません。

多くの点で驚くべき機能を持ってはいますが、インターネットの使用には人をとりこにしてしまうところがあります。具体的には、インターネットのチャットルームで際限なく時間を過ごしたり、ポルノグラフィーのサイトを開いたりする行為が該当します。

では、個人的な思いを抑制するという点に触れてみましょう。この領域で、抑制が利かなくなったときに警告の笛を鳴らす唯一の審判は良心です。抑制がなければ、わたしたちの思いは暴走することでしょう。心は、真に訓練とコントロールを要するわたしたちの体の一部分です。わたしは聖文を読むことこそ、抑制できない不浄な思いを洗い流す最も優れた機械だと信じています。資格があり、ふさわしい人々は、聖なる神殿の聖きよさにあずかることで、自らの思いをこの世的な次元から引き上げることができます。

わたしは運動競技に参加し、また軍隊で働いていたときに、聞くと罪悪感を覚えるような表現を耳にしたことがあります。サミュエル・ジョンソンが語ったように、「言葉は思いの表れである」2 ならば、わたしたちがテレビや映画、あるいはまた学校で聞いている言葉は、今日こんにちの思いを反映する低俗な記録と言えるでしょう。わたしは若者たちがこのような俗悪な言葉を四六時中聞かされ使っているうちに感覚が鈍ってきているのを懸念しています。立派な人格を備えた若者は下品な話し方などしないと信じています。神の聖なる神権を持つ人々は、決して品位に欠ける言葉を用いたり卑わいな身振りをしたりしないはずです。

わたしはこれから、肉体のあらゆる欲望を制することが絶対に必要であることについて話したいと思います。これらの欲求はある意味で「肉体のとげ」3 と呼んで差し支えないかもしれません。ハリー・エマーソン・フォスディックは、自制に関して大切な言葉を残しています。「自制とは、よくわたしたちが首を横に振って否定するたぐいの、消極的で排他的なものではない。ある意味で、自制というものは存在しない。なぜなら、一般に自制と呼ぶものは、わたしたちが求める事柄に払う必要な代価を指すからである。」4

個人的な力の堅固な基の一つは清さです。アルフレッド・ロード・テニソンはこの真理を理解して次のように記しました。「わたしの強さは十人力。それは心に汚れがないからだ。」5わたしは心から、すばらしい若人の皆さんにお勧めします。どうぞ悔い改めていない罪を背負ったまま結婚しないでください。そのような罪は決して忘れることができないからです。汚れのない良心が生み出す力を受けて人生を送り、いつの日か造り主の前に立って「わたしの霊に汚れはありません」と言えるようにしてください。自制はわたしたちを束縛するものではなく、解き放つものです。自制は自由へと続く道、力そして、清さに不可欠な要素です。シェークスピアは自制について、作品中の登場人物ハムレソトを通して次のように巧みに表現しています。

「今晩、我優なさい。そうすれば、この次にな耐えるのがいくらか楽になる、その次にはもっと楽になります。習慣はわたしどもの天性まで変えてしまうものです。悪魔を押さえることもほうりだすこともできる不思議な力を持っています」6

ヒーバー・J・グラントは、わたしが会う特権にあずかった最初の大管長です。グラント大管長はほんとうに偉大な人物でした。グラント大管長は、自制に対する揺るぎない決心を抱き、それが彼の強さの一つでした。そのため、わたしたちは彼を称賛しました。グラント大管長はわずか1歳で父親を亡くし、夫を亡くした母親の大変な苦労により育ちました。グラント大管長は誠意をもって母親を助け、心を尽くして世話をしました。

「彼は成長して野球チームに入りたいと思いましたが、…・ほかの子どもたちから弱虫と呼ばれ、笑い者にされました。というのは、ボールを投げても一つの塁から他の塁まで届かなかったからです。チームの仲間からさんざんばかにされた彼は、… いつかユタ準州で優勝できるようなチームの選手になると決心しました。彼は野球のボールを買い、近所の古い納屋に向けてそのボールを投け、何時間も練習しました。そのために腕がひどく痛み、… 夜眠れないこともしはしばでした。彼は練習に練習を重ね、…上達して上位のチームに昇格し、ついには、後に準州で優勝するチームの選手になったのです。」7

彼の自制を物語るもう一つの例は、彼が字を上手に書けるようになりたいと決心したことです。彼は字を書くのがとても苦手で、あるとき友達の二人が彼の字を見るなり、「ひよこの足跡みたいだ」と一人が言い、「そうじゃないよ、インク瓶に雷が落ちたような字だ」ともう一人がからかうほどでした。もちろん、このような言葉に若いビーバー・クラントのプライドは傷つきました。しかし彼は、まだ10代の若さで、HRマン株式会社(H.R. Mann and Co.)で保険証券書記として働きました。「また3倍の賃金を提示され、筆記者としてサンフランシスコに来るよう誘いを受けたほどです。後に彼は〔ユタ〕大学で、習字と簿記を教えました。実際、彼は17歳になる前に、自分の書いた作品が、準州の習字博覧会で4人の筆記専門家の作品を破り1位の栄冠を得ました。」8

歌うことはグラント大管長の挑戦したもう一つの分野でした。子どものころ、彼は正しい音程を取ることができませんでした。10歳のとき、ある音楽の先生は彼に最も簡単な歌を教えようとしましたが、結局断念しました。26歳のとき、十二使徒の召しを受けていた彼は、シムズ教授に歌い方を教わろうと頼みました。彼の歌を聞いた教授はこう答えました。「そうですね、歌えるようになりますよ。でもあなたが歌っている間、わたしは40マイル(約60キロ)ほど離れた場所にいようと思います。」この経験によって、彼はさらに努力しようという気になりました。9

グラント大管長はあるときこう言いました。「わたしはある賛美歌10 を300回から400回練習しました。歌詞はわずか4行なのに、まだその賛美歌が歌えません。」11 ある記録によると、グラント大管長は、ラドガー・クラウソン長老、J・ゴールデン・キンボール長老とアリゾナへの旅行中、「彼らに、旅の途中で賛美歌を100曲歌ってもかまわないかと尋ねました。二人はその言葉を冗談だと思い、大いに結構だと答えました。最初の40曲を歌ったところで、二人は、グラント大管長が残りの60曲を歌うなら神経衰弱になってしまうと訴えました。しかしグラント大管長は残りの60曲を歌いました。」12

彼は生涯を通じて練習し、歌が少し上手に歌えるようになりました。しかし、習得した野球や習字ほどの腕前にはなりませんでした。グラント大管長には、好んで引用し、座右の銘にしていたラルフ・ウォルド・エマソンの言葉があります。「継続して行う事柄は、容易に行えるようになる。それは物事の性質が変わるからではなく、わたしたちの力が増すからである。」

神権者として、わたしたちは自制心を失うことに関して言い訳を探すべきではありません。わたしたちは皆、たとえ試練に満ちた環境下にあっても、自制するよう全力を尽くせます。それによって、個人的な達成感という偉大な祝福がも.たらされるのです。自制は、この現世で探求すべき中心である霊性と関係があります。かつてデビッド・O・マッケイ大管長が語ったように、「霊性とは、自己を制する能力、神と深く交わる能力を意識的に会得することである。霊性は人に困難を克服させ、より大きな力をもたらす。自己の能力が増し、真理によって心が広がると感じるのは、人生で最も価値ある経験である。」13治る見込みのない障害を持ったウィリァム・アーネスト・ヘンリーは、勇気を奮い起こして肉体上の外見を超えたところで自らを見詰め直し、心と思いにおいて勝利を得、「征服されない者(lnvictus)」という詩を書きました。

わたしを取り巻く闇やみの中から、

地獄のように隅々まで暗い闇の中から、

どのような神々であろうとわたしは感謝をささげる

征服されない霊を授けていただいたことに。

残酷なまでの境遇に打ちひしがれながらも、

わたしぱ決してひるまずまた泣き言を言わなかった。

望みもしない試練に打ちのめされ

傷つきながらも、わたしは屈しなかった。

いかに門が狭くとも、

罰が記録されていようともかまわない。

わたしの運命の主人はわたしなのだ。

わたしの魂の支配者はわたしなのだ。14

兄弟の皆さん、わたしは全身全霊で証あかしします。自制の力によって、わたしたちは忠実な息子たちに天父が備えられた祝福を受け継ぐことができます。イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。