2000–2009
わたしの証
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わたしの証あかし

わたしが感謝の気持ちを感じているすべてのことの中で、とりわけ繍謝していることがあります。それはイエス・キリスト……に対して生きた証を得たことです。

少しお話しできる機会が巡って参りました。兄弟姉妹の皆さん、わたしの心は今朝、感謝に満ちあふれています。主から豊かに祝福されていることを感じています。新しく完成したこの美しい会場に集われた何千何万の人々のお顔を拝見し、また、この大会の模様に耳を傾けるために世界各地に集まっておられる数十万の人々のことを心に浮かべるとき、わたしたちの間に偉大な一致の精神がみなぎっていることを感じます。それは圧倒するほどの感謝の念でわたしの胸を満たしてくれます。少し個人的なことをお話しさせていただくと、わたしほど豊かに祝福を受けてきた者はほかにいないと思います。それがなぜなのかは分かりません。皆さんが至る所で示してくださる思いやりと愛にとても感謝しています。

人々の優しい思いに助けられて、わたしはこの教会で奉仕するために世界中を旅してきました。メディアの厚意によって全世界に向かって話をするというすばらしい機会を得てきました。ニューヨークのマジソンスクウェアガーデンやヒューストンのアストロドームなど、この国にある巨大なホールで証を述べてきました。高い地位にある人々がわたしを受け入れ、この業について丁重な態度で応対してくださいました。

これらとは対照的に、わたしたちを批判する人々が用いる悪意に満ちた軽蔑けいべつ的な手段にも出遭ってきました。主が次のように言われたのは、これらのことを心に抱いておられたからではないかと思います。

「わたしの油注がれた者に向かってかかとを上げる者は皆のろわれる、と主は言う。わたしの油注がれた者がわたしの前に罪を犯すことなく、わたしの目にかなうことと、わたしから命じられたことを行ったのに、彼らは罪を犯したと叫ぶ者は皆のろわれる……。

……戒めに背いたと叫ぶ者は、彼ら自身が罪の僕しもべであり、不従順の子らであるからそう叫ぶのである。… …

彼らは災いである。… …

彼らのかごは満ちることなく、彼らの家と倉は朽ち果て、彼ら自身は彼らにへつらった者たちに見下されるであろう。」(教義と聖約121:16-17、19-20)

主の御業みわざに反対する人々に下される裁きについて、わたしたちはその権利を持っておられる主にゆだねます。

もう一度感謝の言葉に戻りたいと思います。兄弟姉妹、皆さんの祈りに感謝しています。わたしたちが皆で成し遂げようと努力している大いなる業を支援してめに対する皆さんの従順な姿勢に感謝しています。神は皆さんを喜んでおられ、愛しておられます。偉大な責任を忠実に果たしてくださることを感謝しています。与えられるあらゆる召しを皆さんが快く引き受けてくださることを感謝しています。子どもたちを光と真理の中で育てておられることに感謝しています。永遠の父なる神とその愛する御子、主イエス・キリストについて皆さんが心の中に揺るぎない証を持っておられることに感謝します。

わたしは教会の青少年にとても感謝しています。あらゆる場所が邪悪に満ちています。様々な刺激を手段として誘惑しようとする力があらゆるところにあふれています。悲しいことに、一部の青少年はこれらの破壊的な力に屈しています。だれであっても失うことにわたしたちは悲しみを覚えます。彼らを助け、救い出すために手を差し伸べていますが、多くの場合、わたしたちの願いはにべもなく拒絶されています。彼らのたどる道の先で待っているのは悲劇です。それは滅亡に誘い込む道です。

けれども、忠実であり、真実であって、自分で描いた道を矢のごとくまっすぐに、海の大波のごとく力強く突き進んでいる若人が大勢おり、その数は数十万人に上っています。彼らが歩んでいるのは義と善の道であり、達成への道です。彼らはそれぞれの生活で何かを成し遂げています。世界は彼らのおかげで改善へと向かうことでしょう。

歴史全体から見ても、すばらしいこの時期に生きているこどを特に感謝しています。過去にこのような時代はありませんでした。かつてこの地上を歩いた人々の中でわたしたちほど豊かに恵まれた人々はいません。

今朝、わたしが感謝の気持ちを感じているすべてのことの中で、とりわけ感謝していることがあります。それはイエス・キリスト、全能なる神の御子、平和の君、聖なる御方に対して生きた証を得たことです。

あるとき、ヨーロッパで宣教師の集会が開かれたときに、一人の長老が手を挙げてこう言いました。「あなたの証を聞かせてください。そしてその証をどのようにして得たかを話してください。」

ここで少しの時間、わたしの証がどのように培われてきたかについてお話ししてみたいと思います。もちろん、これは私的な領域の話ですので、それを考慮に入れてお聞きくださるようお願いします。

記憶をたどると、わたしが最初に霊的なものを感じたのはまだ幼い5歳くらいのときでした。わたしは耳が痛くて泣いていました。当時は特効薬のようなものはありませんでした。85年も昔のことです。母は食塩を袋に入れ、それをかまどにかざして温めました。父はわたしの頭にそっと手を置いて、聖なる神権の権能とイエス・キリストの御名みなによって祝福を与え、痛みと病を叱責しっせきしました。それから父はわたしを両腕に抱いて、温かい塩の袋を耳の上に置いてくれました。痛みは収まり、去っていきました。わたしは父にしっかりと抱かれながらまどろんでいました。眠りに入ろうとしたときに、癒いやししの祝福で言われた言葉が心の中でこだましていました。主の御名によって神権の権能が行使されたことについて、これが記憶に残っている最も古い経験です。

10代の半ばごろまで、わたしは兄弟と一緒の寝室を使っていました。その部屋は冬でも暖房かありませんでした。その方が健康的だと考えられていたからでした。暖かいベソドに入る前に、わたしたちはひざまずいてお祈りをしました。簡単に感謝の気持ちを述べるだけでした。そしてイエスの御名によって終えました。当時の祈りでは、キリストの称号をはっきりと言葉に出して使うことがあまりありませんでした。

アーメンと言ってから急いでベッドに飛び込むと、首まで毛布を引き上けて、御子の御名によって天父に話したことを思い巡らしたものでした。福音について大した知識があったわけではありませんでしたが、主イエスを通して天と交わりを持ったことについて平安と安心感が心に残るのを感していました。

イギリス諸島に伝道に行ってからその証は急速に強められました。わたしは最初の同僚とともに毎朝、ヨハネによる福音書を読んで、一つ一つの節について意見を交換しました。それはすばらしくまた啓発される経験でした。ヨハネによるこのすばらしい信仰の表明は神の御子の神性に関する宣言で始まります。このように記されています。

「初めに言ことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は初めに神と共にあった。

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。… …

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」ヨハネ1:l-3、14)

そのときにわたしはこの宣言についてよく考えました。それ以来、この聖句をしばしば思い巡らすようになりました。ここには御父と御子が別個の御方であることについて疑問を挟む余地がありません。御父は御子に対して地球を創造するという大きな責任をお与えになりました。そして、「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」のです。

わたしはこの世の多くの醜いものを見てきました。ほとんどは人類が造り出したものです。けれどもそれ以上に美しいものを見てきたと思います。創造主の壮大な業に心を奪われます。それらは何と崇高なことでしょうか。すべては神の御子か行われた業です。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」御父の御子であるその御方は地上に来られました。そして、王子として、御父の長子として君臨しておられた天上の住まいを離れて、自ら死すべき体をまとい、何よりも粗末なかいばおけの中に寝かされ、ローマの千卒長によって支配される隷属の状態に身を置くことに同意されたのでした。

主は、これ以上に御自身を低くされることがおできになったでしょうか。

イエスは「すべての正しいことを成就する」ためにヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました(マタイ3:15)。イエスは地上での働きを始める前こうかつに、悪魔の狡猜こうかつな誘惑をお受けになりました。しかし、「サタンよ、引きさがれ」と言って、その誘惑を退けられました(マタイ16:23参照)。

イエスはガリラヤ、サマリヤ、ユタヤを巡って、救いの福音を宣のべ伝え、盲人を見えるようにし、手や足が不自由だった人を癒いやし、死人に再び命を与えられました。その後に、子らに幸福をもたらす御父の計画を成就するため、わたしたち一人一人の罪の代価として自らの命をささげられたのでした。

宣教師時代に読んだ新約聖書から、またキリストについてさらに証するモルモン書から得たその証は心の中で強くなりました。その知識はわたしの人生の基礎となりました。この基礎は少年時代にごたえられた祈りに根ざしていました。

それ以降、わたしの信仰はさらに篤あつくなりました。やがて、キリストの御心みこころを行い、キリストの言葉を教える使徒に任じられました。世の人々に対してキリストを証する者となりました。わたしはこの安息日の朝、わたしの声を聞いておられる皆さんとすべての人にその信仰の証を繰り返して申し上げます。

イエスはわたしの友です。イエスはだれよりも多くのものを与えてくださいました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)イエスはわたしのために命を捨ててくださいました。永遠の命に至る道を開いてくださいました。これができるのは神をおいてほかにいません。わたしは、イエスの友としてふさわしいと思われる人物でありたいと願っています。

イエスはわたしの模範です。イエスの生き方、まったく利己心のない行い、助けを必要とする人々に手を差し伸べること、そして最後の犠牲、すべてがわたしにとって模範です。とてもイエスのように完全な模範を示すことはできませんが、努力することはできます。

「光と生命いのちの道を示し

主は神のもとへ導きます」

(「高きに満ちたる」「賛美歌』112番)

イエスはわたしの教師です。至福の教えで用いられた言葉ほどすばらしい言葉はありません。

「イエスはこの群衆を見て、……口を開き、彼らに教えて言われた。

『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』」(マタイ5:1-10)

山に登った群衆に向かって与えられたこれらの勧告に比肩する教えを述べた教師はほかにいません。

イエスはわたしを癒してくださる御方です。わたしは主が行われた奇跡に畏敬いけいの念を覚えます。わたしはそれらが起きたことを知っています。わたしはイエスが生と死を治める主であられることを知っているので、それらを真実として受け入れています。イエスがその務めの中で行われた奇跡は思いやりと愛、人がそれに接してすばらしいと思う気持ちを与えます。

イエスはわたしの指導者です。わたしはイエスの誕生以来2、000年の間、イエスを愛し、イエスに従ってきた人々の長い行進に加われたことを光栄に思います。

「戦い進めつわものよ

十字架負い進み行け

主は導ぐ敵あだにむかい

み旗に従い進めよや」

(「戦い進め」『賛美歌』155番)

イエスはわたしの救い主であり、わたしの贖あがない主です。イエスは痛みと筆舌に尽くし難い苦しみを経験した後に自らの命をお与えになることにより、死後の永遠の闇やみの深みからわたしと皆さん一人一人と、神のすべての息子と娘を引き上げてくださいました。イエスはさらに、もっとよいものを用意してくださいました。それはわたしたちが永遠の命に通じる道を進むための光と理解の世界、成長と美の世界です。わたしの感謝はとどまるところを知りません。主に対するわたしの感謝は尽きることがないのです。

イエスはわたしの神、わたしの王です。イエスは永遠から永遠にわたって、王の王、主の主として治め、支配されます。主の主権に限界はありません。主の栄光に闇が訪れることはないのです。

いかなる人もイエスが行われたことを代わりに行うことはできません。それはだれにも永久にできないことです。イエスは傷のない、いかなる欠点もない神の小羊です。わたしはイエスに頭を垂れ、イエスを通して天におられる永遠の御父に近づくのです。

イザヤはイエスの降臨を預言してこう言いました。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生うまれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ9:6)

パレスチナでイエスとともに歩いた人々はイエスが神の御子であられることを証しました。イエスの死を目撃した百卒長は厳かにこう宣言しました。「まことに、この人は神の子であった。」(マタイ27:54)

イエスの復活体を見たトマスは驚いてこう叫びました。「わが主よ、わが神よ。」(ヨハネ20:28)

イエスが訪れられたこの東半球の人々は、次のように御子を紹介される御父の声を聞きました。「わたしの愛する子を見なさい。わたしの心にかなう者である。わたしは彼によって、わたしの名に栄光を加えた。」(3ニーファイ11:7)

そして預言者ジョセフ・スミスは、現在の神権時代にこう宣言しました。

「そして今、小羊についてなされてきた多くの証の後、わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち、「小羊は生きておられる。』わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また、わたしたちは証する声を聞いた。すなわち、『彼は御父の独り子であ〔る。〕』」(教義と聖約76:22-23)

わたし自身の証を付け加えたいと思います。すなわち、イエスは「道であり、真理であり、命である。」だれでもイエスによらないでは、「父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

感謝と、心からの愛をもって、これらのことを主の聖なる御名、すなわちイエス・キリストの御名によって証します。アーメン。