2000–2009
安全な港を見いだす
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安全な港を見いだす

人生でのの渦中、救い主はわたしたちの慰めであり、聖所であられます。平安を求めるならば、主のもとに来なくてはなりません。

この歴史的な大会に皆さんとともに集えることを特権に感じ」ています。わたしにとって、耐久性のある花崗かこう岩の壁に覆われたこの壮大なカンファレンスセンターは、末日の偉大な業、すなわちダニエルが見た、「人手によらず山から切り出され」た石1 が神の王国として永遠に確立されることの象徴に思えます。皆さんの中には、この会場に出席している方もいらっしゃれば別の場所で参加している方もいらっしゃいますが、場所を問わず、この歴史的な総大会に参加する選択をされた皆さんをたたえ、その忠実さによって主から祝福を受けられるようお祈りします。

60年以上も前に、わたしはオーストリアとスイスで宣教師として働きました。試練の多い、しかしすばらしい時期でした。地元の人々を愛するようになり、その地を後にするのをつらく思いました。しかし1939年の8月下旬に任期が終わり、船で帰還する準備をしました。

当時は戦争中で、太西洋を横断する長い航海は危険を伴いましたが、航海を終え、自由と民主主義のすばらしい象徴である自由の女神像が見えたときは、大きな喜びを感じました。航海の末、安全な港にたどり着いたときに得た平安は、言葉では表現できません。

そのときわたしは、イエス・キリストの弟子が、救い主とともにいた日の心境を幾らか感じたような気がします。彼らはガリラヤの海で舟に乗っていました。聖典には次のようなことが記されています。イエスはとても疲れ、舟の艫ともに行き、枕まくらをして眠っておられました。2 しばらくすると、空が暗くなり、「海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうにな」りました。3 嵐は猛威を振るい、弟子たちは恐怖に陥りました。しかし舟が波にさらわれそうになっても、救い主は眠ったままでおられました。とうとう弟子たちは待ち切れなくなり、イエスを起こしました。「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と懇願した弟子たちの声から、その苦しみと絶望の様子がうかがえます。4

今日こんにち、多くの人が心に悩みや苦しみを抱えています。また、人生において今にも舟が波にさらわれ、または沈もうとしていると感じる人も数多くいます。今日きょうわたしは、次のような入に対してお話ししたいと思います。それは、平安を求めている人、心に傷を負っている人、恐怖におびえている人、罪の嘆きや重荷にさいなまれている人、自分の叫びはだれにも聞いてもらえないと感じている人、または心の中で「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と訴えている人です。わたしはこのような人々に、慰めと助言の言葉を少しお伝えしたいと思います。

安全な港は存在します。それを確信してください。嵐が襲うさなかにあっても、皆さんは平安を見いだせます。すずめが地に落ちる時を知っておられる天の御父は、皆さんの心の痛みや苦難も御存じです。御父は皆さんを愛しておられ、皆さんが自分自身の可能性を十分に引き出すことを望んでおられます。決してそれを疑ってはなりません。御父は、わたしたち各々に、必ずしも自分やほかの人の益にならなくとも自ら選択することを許しておられ、また、必ずしもその過程で間に入られるわけではありません。しかし試練や苦難のさなかにあっても確かな平安を約束しておられます。

預言者アルマはこのように述べています。「そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉みことばが成就するためである。」5

イエスはこのような言葉でわたしたちを慰めておられます。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」。6

主イエス・キリストに近づいてください。主は苦しむ人々に特別な愛を抱かれます。主は神の御子、永遠の王であられます。現世での務めにおいて、主はそのように苦しむ人々を愛し、祝福されたのです。

柔和で落胆した人にとって、主の御言葉はすべて憐あわれみと励ましを与えるものです。病に伏している人に対して、主は癒いやしの慰めをもたらされます。希望や温かく差し伸べられる手を切に求める人は、王の王、海と地と空の創造主であるこの御方の御手みてにより助けを与えられるでしょう。

今日、救い主イエスは天の御父の右に立っておられます。あなたは、苦しむ人、病に伏している人、助けを心から求めて御父に祈る人に、主がもはや助けを与えてはくださらないと思うでしょうか。

元気を出してください。ガリラヤ人で創造主、生ける神の御子である御方は、主に心を寄せている人を忘れたり見捨てたりはされません。わたしは証あかしします。全人類のために苦しみを受け、自らの生活をささけて病にある人々を癒し、落胆した人々に慰めをもたらされたこの御方は皆さんの苦難、疑い、心痛を心にかけておられます。

世の人々はこう尋ねるかもしれません。「ではなぜ主は嵐がわたしの周りを吹き荒れているときに眠っておられるのですか。なぜ、嵐を静めず、わたしが苦しむのを黙って見ておられるのですか」と。

このような疑問への答えは、蝶ちょうについて考えると見いだせるかもしれません。繭まゆにしっかりと包まれた状態で成長する蝶のさなぎは、その殻を破ろうと全力で臨まなくてはなりません。そのとき蝶は、「なせわたしはこのような目に遭わなければならないだろうか、なぜ一瞬にして蝶になれないのだろうか」と考えるかもしれません。

このような思いは、創造主の計画とは相反するものです。繭を破ろうとする懸命な努力により蝶は成長し、その過程を経て空へ羽ばたくことができます。このような逆境を経験しなけれは、蝶は決して自らの宿命をまっとうする力を得られません。並外れた存在となるための力を培うことは決してできないのです。

シェームズ・E・ファウスト副管長はこのように説明しています。「人生には、心痛む絶望的な逆境の日々か付きものです。熱心に善を求める人、信仰深くあろうとする人々を含め、すべての人には大きな悩み、苦痛、時には胸が張り裂けるほどの悲しみかあります。」7そしてファウスト副管長は、わたしたちが経験するこのような逆境により、心が主の御手にある粘土のようになると述べ、次のように教えました。「試練と逆境は、わたしたちに新たに生まれ変わる備えをさせてくれます。」8

逆境により、わたしたちは強められ、情錬されます。蝶と同しように、人格を築くうえでも逆境は必要です。まるで嵐の侮を渡るような召しを受けるときでも、わたしたちが神々となる可能性を成就するうえで、逆境がどのような助けとなるかを知らなくてはなりません。

現在の苦難より高い視点から物事を見据えるだけで、わたしたちの苦労は一時的なさなぎのようなものにすぎないことが分かります。わたしたちの人生がさなぎとどのように共通するか理解するため天の御父に信仰を持ち信頼するだけで、つかの間の時を経て、わたしたちは自らの試練から、より精錬された輝かしい存在となって立ち上がることができます。

親は子どもに、次のように言うかもしれません。「歩く練習は苦しくて難しいことで、つまずくこともあるし、けかもしやすく、転んで泣くことだって何度もある。だからそんな苦労をしなくて済むようにしてあげるよ。」わたしは、いちばん幼い孫のセツが歩行練習をするのを見てきました。練習の過程を通して、彼は今では自信をもって歩いています。「あなたを愛しているから、そんなつらい練習から守ってあげるよ」と言えたでしょうか。彼が転ぶのは見るに忍びないからといってそんなことをすれば、決して歩くことはできなかったでしょう。愛ある親や祖父、祖母にとって、それは考えられないことです。

子どもがこれから歩けるようになるには、転んだり、しばしば痛みも伴ったりする経験をくぐらなくてはなりません。セツにも経験を通して学ぶように励ましました。そうです、たとえこの過程は困難なものだと分かっていても、歩くことにより得る自由と喜びは、一時的に味わういかなる痛みや逆境にも勝るものなのです。

兄弟姉妹の皆さん、歩行練習のような長い成長過程がなければ、現世が存在する理由は何でしょうか。わたしたちは主の道を歩むことを学ばなければなりません。

皆さんは、自分が思うよりも強い存在です。天の御父であり、主、そしてこの宇宙の主でもある御方は皆さんの創造主です。これについて考えると、わたしの心は歓喜に満ちあふれます。わたしたちの霊は永遠であり、永遠の霊には無限の可能性があるのです。

天の御父は、わたしたちが恐れたり、いつまでも悲しみに暮れたりするのを望んではおられません。胸を張り、腕をまくり、試練を克服することを期待しておられます。

人生において安全な港にたどり着くことを願うなら、わたしたちは信仰と熱心な働きを兼ね備えた霊を養うよう努めていかなければなりません。

兄弟姉妹、皆さんは独りではありません。今日、末日聖徒イエス・キリスト教会では、数え切れないほどの人々が皆さんのそばにいます。救い主の教えと模範に従う人々は、「重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望み、また、悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰めることを望み」ます。9

カインは主に向かい、「わたしは弟の番人でしょうか」10という質問を投げかけましたが、この間いに対し、末日の預言者はこう答えています。「そうです、わたしたちは兄弟の番人です。」トーマス・S・モンソン副管長はこのように述べています。わたしたちは助けの必要な人の力になるようともに働くとき、「孤独にある人の弱さを取り去り、ともに奉仕する多くの人々の強さを代わりにもたらします。すべてを行うことはできないかもしれませんが、何かができます。しなければならないのです。」11

監督、ホームティーチャー、訪問教師、神権定員会、扶助協会、そのほかの補助組織の会員は皆、助けようとしています。わたしたちの最も安全な港、すなわち「嵐……の避け所」12は救い主の教えと教会によって築かれています。

もちろん、教会の兄弟姉妹は皆さんのために、皆さ!シの問題そのものを解決すべきではありません。これまでの経験によると、聞題を胞える人ができること、す惑魯ζ.とを代わって行うと、相手を強めるどころかむしろ弱めてしまいます。しかし、兄弟姉妹は皆さんのそばにいて、皆さんを強め、励まし、助けてくれることでしょう。

人生での逆境を克服するにつれ、皆さんは強くなります。そして今度は、激しい嵐に遭って、安全な港を探そうと努めている人々に、より大きな助けをもたらすことができるようになります。

皆さんが人生において、嵐に揺さぶられ、波が高まり風がうなるように感じるようなとき、心の中で「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と叫んだとしても無理からぬことかもしれません。そのようなときは、救い主が舟の艦で目を覚まし、起き上がって嵐を叱責しっせきされた日のことを思い出してください。主は「静まれ、黙れ」と言われました。13

時に、わたしたちはこう考えがちです。救い主は自分の試練など気にかけてはくださらない、と。しかしほんとうはまったく逆です。目を覚まし、救い主の教えに心を向ける必要があるのはわたしたちなのです。

試練を克服するため、自らの創意、勢力、力を用いてください。できることはすべて行い、それ以上は主にゆだねてください。ハワード・W・ハンター大管長はこのように述べています。「わたしたちの生活と信仰が、イエス・キリストと回復された主の福音を中心とするものであれば、たとえ道からそれることがあっても、いずれ正しい道へと導かれます。しかし反対に、わたしたちの生活と信仰が、イエス・キリストとその教えを中心とするものでなければ、一時的な成功をどれほど得ても、いつか道を誤ります。」14

福音に従って生活しても、人生での嵐を避けられるわけではありませんが、より良くそのような嵐に冷静に対処する備えができます。主はこのように勧告しておられます。「熱心に探し、常に祈り、そして信じていなさい。あなたがたがまっすぐに歩〔む〕ならば、万事があなたがたの益となるようにともに働くであろう。」15

主イエス・キリストに近づいてください。元気を出しましょう。信仰を保ってください。疑ってはなりません。嵐はいつか静まります。愛する預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長は、このように述べています。「わたしたちには恐れるべきものは何もありません。神が導いておられます。……〔そして〕主は戒めに忠実に歩む人々に祝福を注いでくださいます。」16

人生での嵐の渦中、救い主はわたしたちの慰めであり、聖所であられます。平安を求めるならば、主のもとに来なくてはなりません。主御自身は、次のような言葉でこの永遠の真理を語られました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」17 わたしたちの霊が救い主という安全な港に錨いかりを下ろしていれば、かつてのパウロと同様、次のように宣言できます。「わたしたちは、四方から患難かんなんを受けても窮しない。途方にくれても行ゆき詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」18

人生の嵐を非常によく知っていた預言者ジョセフ・スミスは、最も苦難に満ちたある時期、苦しみからこのように叫びました。「おお、神よ、あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか。」19ジョセフが声を張り上げたそのとき、主から穏やかな慰めがもたらされました。「あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は、つかの間にすぎない。その後、あなたがそれをよく堪え忍ぶならば、神はあなたを高い所に上げるであろう。あなたはすべての敵に打ち勝つであろう。」20

福音により、わたしたちはいつまでも安全な港を得ます。今日の生ける預言者と使徒は嵐の中にあって灯台のような存在です。回復された福音の光と、地上において主を代表する人々の霊感された教えを目指し、船を進めてください。

わたしは厳粛に証します。イエスは生けるキリスト、わたしたちの救い主、贖あがない主であられます。そして生ける預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長を通して御自身の教会を導き、指導しておられます。わたしたちが救い主の教えに従って生活するなら、この人生において、そして来たるべき永遠の世界において、安全な港を確かに見いだせるのです。イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。