2000–2009
「父がわたしを遣わされたので」
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「父がわたしを遣わされたので」

先週、わたしは混雑した空港にいました。大勢の人々が自分の乗る便に急ぎ足で向かっている中、ある父親が息子の傍らにひざまずいて、辛抱強くアイスクリームを食べさせている姿が目に留まりました。男の子はアイスクリームを自分で持てないほど小さかったのですが、その子が助けを必要としたのは彼のスノースーツのせいでもありました。それは、寒さをしのぐのには役立っていたのですが、かさばってしまって、腕を曲げることができなかったのです。わたしは何と立派な父親だろうと思いました。

わたしたちにとって「父」や「母」という言葉ほど大切な意味を持つ言葉はありません。わたしがお話ししたいのはその「父」という言葉についてです。単に善い父親になる方法に関することではありません。そうしたことについては多くのすばらしい助言が書物となっていますし、この大会でも多くの優れた勧告が語られました。わたしがお話ししたいのは善い父親になるよう決意することです。

アダムとエバから現在に至るまでのイエス・キリストの福音の歴史は父親、母親、家族と密接な関係を持っています。偉大な預言者ニーファイは、自分たちの受けた試練や祝福について詳しく述べる一方でモルモン書の導入となる部分を、自分の父親に対する賛辞から書き始めています。「わたしニーファイは善い両親から生まれたので、父が学んだすべてのことの中から幾らかの教えを受けた。わたしはこれまでの人生で多くの苦難に遭ったが、生まれてこのかた主の厚い恵みを受け、まことに神の慈いつくしみと奥義を深く知った。そこで、生まれてからこれまでの間に行ってきたことを記録する。」1

エノスも同様に父親からの指導によって備えられたことを真っ先に述べています。「さて見よ、わたしエノスは、父が正しい人であったことを知っている。父はわたしを父の言葉で、また主の薫陶と訓戒によって教えてくれたからである。神の御名みながほめたたえられるように。」2

預言者ジョセフ・スミスは最初に天使モロナイの示現を受けたときに、父親に告げるようにと言われました。ジョセフの父親はそれが真実であることを確認して、モロナイの指示に従うようにとジョセフに言いました。福音の回復に際しても、主は息子と義にかなったその父親を引き離そうとはされませんでした。

世の救い主は第三ニーファイ第27章で福音の意味を定義するに当たって、御自身が救いの計画を達成し、全人類に命を与えるために来られたのは、御父が遣わされたからであると簡潔に言われました。御父と御子の間に完全な愛があったので、救い主は死すべき世に来て、ゲツセマネの園と十字架上でわたしたちのために苦しみを受けられた第一の理由として、この愛を挙げられました。

福音は、わたしたちが父親や母親として何をなすべきかを教えることを目的としています。家族が正しく機能しているときに、わたしたちは善いことを申し分なく行うことができます。そして、なぜそのようにできたかといえば、「父がわたしを遣わされた」3こと、あるいは父親が道を示してくれたことを第一の理由として挙げるのです。

わたしは30年以上にわたって宣教師とともに働く栄誉を与えられてきました。宣教師は伝道地に着いてからの数分、数時間、あるいは数日間に、困難な時期を迎えますが、多くの宣教師が父親や母親のおかげでそれを克服していることを、わたしは知っています。牧場で生まれ育った…人の立派な若者の経験を思い出すことができます。その父親も、牧場で生まれ育ちました。若者が伝道地に到着してまず気づいたのは、あらゆるものがまったく違うということでした。町は人であふれており、野山を見渡せる場所がありません。彼はむしょうに家に帰りたくなりました。最終的に伝道部長は、父親に電話してみるように、とその若い宣教師に言いました。父親は辛抱強く、息子がどれほど家に帰りたがっているのかをじっと聞いていました。そして、息子が理解できる言葉で答えました。彼はきっぱりと、しかし愛を込めて、「息子よ、『カウボーイ魂』でぶつかればいいんだよ」と言ったのです。この話を聞いてわたしの顔は思わずほころびました。若者はその意味をはっきりと知っていました。そして宣教師生活になじむための困難に耐えたのでした。彼は父親が決して自分を見限ったりはしないことを知ったのでした。学校に通うために初めて家を離れた最初の数日間に、父母の良い影響を受けていたために、新しい生活を放棄して家に帰るのを思いとどまった若者は大勢います。

わたしがテビノド・0・マノケイ大管長の前に座って、現在の召しを受けたのは32年前のことです。どのような期待が寄せられているかを話してから、マッケイ大管長はわたしの父に喜ばれるような方法でこの召しを果たしなさいと言いました。それはわたしの生涯をかけて成し遂げるに十分なチャレンジでした。マッケイ大管長は20年間ステーク会長を務めたわたしの父を知っていました。わたし自身も父を最も偉大な人の一人だと考えていました。父にとってわたしがとても大切な存在であること、また救い主がまさに生きておられることを最初に理解したのは、家族の祈りで父がわたしたちのために祈った言葉を聞いたときでした。

さて、父親が亡くなるとか、そのほか重大な状況においては当てはまらないこともあるでしょうが、今日こんにち必要とされているのは父親が父親らしくあることを決意することです。その決意を実行するために何が求められようとも行動に移すことです。責任を引き受けて、それを実行することです。それは自分の後に続くしすべての者にとってあなたが錨いかりとなるためです。生活の中で模範が示されていなけれは、率先して、それを確立できるように努めてください。ほかにだれもいなければ、あなたが最初に模範を示すことを決意するのです。家庭の中で完壁かんぺきに行われていないところかあれは、あなたから実行し始めてください。

ハロルド・B・リー大管長は、子孫の心をその先祖に向け、先祖の心を子孫に向けるということは、死者のための業を行う責任を指しているだけでなく、現在生きている人のためのものでもあり、家族の関係をこの世の生活の中であるべき姿に保つことの大切さを明らかにするものであると言いました。4

父親であるごく普通の男性とその家族について書いた詩人エドガー・A・ゲストの言葉を引用して話を終えたいと思います。彼の詩の最後の一節にはこのように記されています。「もし彼に賛辞を贈る必要があるとすれば、彼が受ける賛辞は、父親として成功したことだ。」5父親として成功するには、一歩足を踏み出して、父親の責任を果たすと決意することです。家族のためにいつも愛を込めて祈り、できることを行い、決してあきらめないことです。

わたしたちの家庭で天の御父の聖なる御名みなが敬虔けいけんな雰囲気の中で語られますように。

御父の御名が、平安と希望と義にかなった決意をもたらす愛と信頼の言葉とともに語られますように願っています。

ここで、この業が真実であることについてのわたしの証あかしを、今大会でこの説教壇から語られた数々の証に付け加えたいと思います。聖なる森に御父と御子が御姿みすがたを現されたとき、わたしも預言者ジョセフ・スミスとともにその場にいたかのごとくに、わたしはそれが真実であると感じています。同様に、主の神殿が主に受け入れられ奉献されたとき、カートランドの聖徒たちとともにそこに座していたかのように感じています。また、ノーブーでは、聖約を交わし、ウィンタークォーターズでは、愛する人々が埋葬されるときに墓地でともにひざまずいたように感じています。ブリガム・ヤングを教会の大管長として支持する挙手をし、この盆地に到着した翌日、エンサインピークにブリガム兄弟とともに立って、広々とした景色を見渡したかのように感じています。ブリガム・ヤングは、啓示によってすでにその光景を見、その経験から神殿を建てるべき場所を知っていました。わたしはこの業が真実であることを知っています。神が生きておられることを知っています。主が生きておられることを知っています。イエス・キリストはわたしたちの贖あがない主、救い主であられること、預言者ジョセフ・スミスが語ったこと見たことが真実であること、ゴードン・B・ヒンクレー大管長は今日この偉大な業の鍵かぎを携えていること、これこそイエス・キリストの福音であることを、わたしは知っています。イエス・キリストの御名によって、アーメン。