2021
日々の回復
2021年11月


日々の回復

常に毎日,天の光を浴びなければならないのです。わたしたちには「慰めの時」,つまり個人的な回復の時が必要です。

このすばらしい安息日の朝にわたしたちはともに集い,キリストについて話し,キリストの福音に喜びを感じ,支え合い,助け会って救い主の「道」を歩みます。1

末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるわたしたちは,この目的のために,年間を通して安息日ごとに集まります。会員でない方も,どうぞいらしてください。心の底から歓迎します。一緒に救い主を礼拝し,救い主について学んでくださることに感謝します。不完全な者ではありますが,皆さんのようにわたしたちも良い友人,良い隣人,そして良い人になれるよう努めており2,模範であられるイエス・キリストに従ってそのような人になろうとしています。

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救い主イエス・キリスト

わたしたちの真摯な証を皆さんに感じていただければ幸いです。イエス・キリストは生きておられます!イエス・キリストは生ける神の御子であり,今日この地上にいる預言者に指示を与えておられます。神の言葉を聞き,神の慈しみにあずかるよう,すべての人をお招きします。神がわたしたちの中におられ,神に近づくすべての人に確かに近づいてくださることを,個人的に証します。3

主の弟子の歩むべき細くて狭い道を皆さんとともに歩めることを,誇りに思います。

まっすぐに歩く技術

道に迷った人は円を描いて歩くと,よく言われます。最近,マックス・プランク生物サイバネティックス研究所の科学者たちが,この言葉を検証する実験を行いました。木がうっそうと茂る森に被験者たちを連れて行き,「まっすぐに歩いてください」という簡単な指示を与えたのです。目印は何もありません。被験者たちは,自分たちの方向感覚だけに頼らなければなりませんでした。

どうなったと思いますか。

科学者たちの出した結論はこうです。「人は歩く方向の決め手となる手がかりがない場合には,実際に円を描いて歩く。」4後で質問すると,自分は寸分たがわずまっすぐに歩いたと自信を持って言う被験者が何人かいました。どんなに自信があるにせよ,彼らが直径20メートルほどの小さな円を描いて歩いていたことは,GPSのデータから明らかでした。

まっすぐに歩くことが,なぜそんなに難しいのでしょうか。地面の一見分からない小さなでこぼこが感覚を狂わせるという仮説を立てた研究者もいれば,だれにでも利き足というものがあるという事実を指摘した研究者もいました。しかし,まっすぐ前に進めない理由として「より説得力があるのは,まっすぐな道筋がだんだんと分からなくなってくる」ということだったのです。5

理由はともあれ,人には,目印がないと道から外れる,という習性があります。

道からそれる

小さくて見たところ分からない要因が人の人生を大きく変えることがあるのは,興味深いことではないでしょうか。

わたしは,パイロットとしての経験からこれを知っています。空港への着陸態勢に入るときはいつも,自分がなすべき仕事はほぼ常に小さな軌道修正をしながら,飛行機を滑走路に無事着陸させることであると分かっていました。

皆さんも,車を運転するときに,似たようなことを経験しているかもしれません。ほかの車の動きはもちろん,風や道路のでこぼこ,ホイールアライメントの不備,不注意などがすべて,進みたい道から外れてしまう要因になり得ます。このような要因に注意することを怠ると,ひどい目に遭うかもしれません。6

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プールの中にある車

これはわたしたちの肉体にも,

霊にも当てはまります。

良きにつけ悪しきにつけ,霊的な生活面での変化は一歩ずつ徐々に起こります。マックス・プランク研究所の被験者たちのように,いつ道を外れたのか,本人には分からない場合もあるのです。まっすぐに歩いているという強い自信があったとしても,目印になるものがなければ,道をそれることは避けられません。そして,思ってもみなかった場所に行ってしまうのです。

これは,個人も,社会も,そして国家もそうです。聖文には,このような例がたくさん出てきます。

士師記には,ヨシュアの死後「ほかの時代が起ったが,これは主を知らず,また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった」と書かれています。7

イスラエルの子らはモーセやヨシュアが生きていたころに驚くべき天の力の介在や訪れ,助け,奇跡的な勝利を見てきたにもかかわらず,人々は次の世代に移る前に「道」を捨てて自分たちの望む道を歩み始めたのです。当然,自分たちの行いの代価を払う時は間もなくやって来ました。

このような背教は,数世代かかって起こることもあれば,ほんの数年または数か月で起こることもあります。8しかし,背教の可能性はだれにでもあります。過去にどんなに強烈な霊的経験をしていようとも,人間であるわたしたちは道をそれることがあるのです。アダムの時代から今に至るまで,そうでした。

良い知らせ

しかし,すべてが失われるわけではありません。さまよい歩いてしまった被験者たちと違い,わたしたちには頼りになる目印があり,それを使って進路を確認することができるのです。

では,その目印とは何でしょうか。

もちろんこれには,日々の祈りや聖文について深く考えること,『わたしに従ってきなさい』のような霊感されたツールの活用が含まれます。わたしたちは謙虚で正直な気持ちになって,神の御座に日々近づくことができるのです。自分のしたことについて深く考え,一日を振り返ることができます。自分の意志と願いを,神のそれと照らし合わせるのです。もし道を外れていたら,神に願って元に戻れるよう助けていただき,さらに良くなろうと決意します。

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羊を導いておられる救い主

この内省の時は,再調整の機会です。それは,主とともに歩いて,聖文の言葉と御霊によって啓示された天の御父の言葉から教えを受け,教化され,清められる,反省の庭です。愛にあふれるキリストに従うという厳粛な聖約を思い起こす時であり,自分の成長を評価して,神が御自分の子供たちにお与えになった霊的な目印に従っているかどうか確認する時です。

それを,あなた個人の日々の回復の時と考えてください。栄光への道の巡礼の旅の途中で,人はどれほどたやすく道をそれてしまうかをわたしたちは知っています。しかし,ごく小さな逸脱に救い主の道から引き離す力があるように,小さくて簡単な再調整にも,人を道に戻す力があるのです。わたしたちの生活に闇が入り込むことがよくありますが,そんなときには,日々の回復が天の光に向けて心を開いてくれます。その光はわたしたちの心を照らし,闇や恐れ,疑いを払いのけてくれます。

小さな舵,大きな船

わたしたちが求めるならば,確かに「神はその聖なる御霊によって,すなわち聖霊の言い尽くせない賜物によって,……知識を,あなたがたに与えてくださるであろう。」9わたしたちが求める度に,神は「道」を教え,それに従えるよう助けてくださいます。

もちろん,そのためには揺るがぬ努力が必要です。過去の霊的な経験で満足してはいけません。よどみなく進む必要があるのです。

ほかの人の証に永遠に頼ることはできません。自分の証を築かなければならないのです。

常に毎日,天の光を浴びなければならないのです。

わたしたちには「慰めの時」10,つまり個人的な回復の時が必要です。

「流水​は」いつまでも「濁った​まま​」でいることはできません11。思いと行いを清く保つためには行動し続けなければならないのです。

結局のところ,福音と教会の回復とは,一度すればそれで終わりというものではありません。それは,一日ずつ,一人ずつ,常に行っていくプロセスなのです。

日々の積み重ねが人生を形造ります。ある作家はこれをこんな言葉で言っています。「一日は一生のようだ。最初何かを始めるが,最後にはほかのことをしている。用事を済ませることにしたのに,その用事を済ませることはない。……そして人生の最期も,やはり自分の存在そのものが同じように雑然としているのである。人生全体は,一日と同じ姿をしている。」12

あなたは自分の人生を変えたいと思いますか。

それなら,あなたの一日を変えてください。

あなたは自分の一日を変えたいと思いますか。

それなら,今の1時間を変えてください。

今この瞬間に考え,感じ,行うことを変えるのです。

大きな船も小さな舵で操縦できます。13

小さなレンガは積み重なって見事な家になります。

小さな種から,そびえ立つセコイアの木になります。

1分,1時間を上手に使えば,それが積み重なって良き人生になるのです。その時間の積み重ねが慈しみを生み,不完全に捕らわれているわたしたちを解放し,贖いの赦しと聖めの道へとわたしたちを導くのです。

新たな始まりの神

皆さんとともに,わたしは新たな機会と新しい人生,新たな希望というすばらしい賜物があることに,晴れやかな気持ちで感謝しています。

慈悲深い赦しの神を,わたしたちは声高らかに賛美します。確かに神は,新たな始まりの神であられます。神の働きの究極の目的は,御自分の子供であるわたしたちの不死不滅と永遠の命を求める努力が実を結ぶよう助けることです。14

わたしたちはキリストにあって新しく造られた者になることができます。なぜなら,神がこう約束してくださっているからです。「​わたし​は,民​が​​悔い改める​​度​に,わたし​に​対する​彼ら​の​過ち​を​赦〔し,〕」15「​もう​それ​を​思い起こさない。」16

愛する兄弟姉妹の皆さん,愛する友人の皆さん,だれでも道をそれることがあります。

しかし,また正しい道に戻ることができます。御父が与えてくださった霊的な目印を探してそれを受け入れ,個人の啓示を大切にし,日々の回復を行うならば,人生の暗闇と試練を生き抜いて天の御父のもとに帰る道を見いだすことができます。これが,愛する救い主イエス・キリストのまことの弟子になる方法です。

それを行うならば,神はほほえみかけてくださるでしょう。「主は……あなたの神,主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。……主は……あなたを立てて,その聖なる民とされるであろう。」17

日々の回復を行い,イエス・キリストの「道」を常に歩き続けることができるようにと祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. イエスはこう教えられました。「わたしは道であり,真理であり,命である。」(ヨハネ14:16)The NIV First-Century Study Bible (新国際版1世紀学習聖書)には,次の説明が記載されています。「ヘブライ語の聖書で『道』とは,戒めや神の言葉を守るという意味を表すことが多いのです〔詩篇1:116:1186:11参照〕。」これらの言葉は,積極的に一連の信条や教えを信じ,礼拝行事を行うことを勧める,昔の人によく知られていた比喩的な言い方です。死海文書教団は自分たちを「道に従う者」と称していました。これは,神を喜ばせる道と自分たちが解釈している道に自分たちは従っているという意味でした。パウロと書記のキリスト教徒たちは,自分たちのことを「道にしたが〔う〕」者と呼んでいます〔使徒24:14参照〕(in “What the Bible Says about the Way, the Truth, and the Life,” Bible Gateway, biblegateway.com/topics/the-way-the-truth-and-the-life)

    1873年に,Didacheという書名の古文書が,コンスタンチノープルにあるエルサレム総主教図書館で見つかりました。多くの学者は,この本は紀元1世紀(AD 80-100年)の後半に書かれ,使われていたと考えています。Didacheは次の言葉で始まります。「道は二つある。命の道と死の道である。しかし,この二つには大きな違いがある。さて,命の道とはこれである。第一に,あなたを造られた神を愛し,第二に,自分自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」(Teaching of the Twelve Apostles, trans. Roswell D. Hitchcock and Francis Brown [1884], 3)

    The Expositor’s Bible Commentaryなどその他の資料では,こう指摘しています。「初期の教会が存続していたころ,キリストが救い主であると信じていた人たちは,自分たちを『道』に従う者であると主張していた。」〔使徒19:9,2322:424:14,22参照〕。(ed. Frank E. Gaebelein and others [1981], 9:370)

  2. モーサヤ2:17参照

  3. 教義と聖約88:63参照

  4. “Walking in Circles,” Aug. 20, 2009, Max-Planck-Gesellschaft, mpg.de.

  5. “Walking in Circles,” mpg.de.この画像は,この研究に参加した4人の被験者のGPS上の軌跡を示しています。このうち3人は,曇りの日に歩きました。もう一人(SM)は,太陽が雲に隠れているときに歩き始めましたが,15分後に雲が晴れて,木漏れ日の中を歩きました。太陽が見えるときの方がまっすぐに歩く能力がずっと高くなることに注目してください。

  6. わずか2度の進路変更が原因で旅客ジェッ ト機が南極のエレバス山に衝突して257人が死亡した悲劇については,ディーター・F・ウークトドルフ「わずかな誤差『リアホナ』2008年5月号,57-60を参照。

  7. 士師2:10

  8. キリストがアメリカ大陸を訪れた後,人々は心から自分の罪を悔い改めてバプテスマを受け,聖霊を受けました。争いを好む高慢だった民が,「​まったく​争い​が​なく,論争​も​なく,皆,互いに​公正​に​振る舞〔う〕」ようになったのです(4ニーファイ1:2)。この義の時期は200年ほど続きましたが,その後人々は高慢のために道をそれるようになりました。しかし,霊的な退廃がもっと急速に起こることもあります。その数十年前に起こった例ですが,モルモン書でさばきつかさの統治第50年には,民の中に「引き続き平和があり,大きな喜び」がありました。しかし,教会員の中に入り込んできた高慢のために,わずか4年のうちに,「教会​内​に​多く​の​不和​が​あった。また,民​の​中​に​も​​争い​が​あり,多く​の​流血​が​あった」のです。(ヒラマン3:32-4:1参照)

  9. 教義と聖約121:26

  10. 使徒3:20

  11. 教義と聖約121:33

  12. Michael Crichton, Jurassic Park (2015), 190.

  13. 「船を例として挙げよう。船はとても大きく,強い風が動力になるが,非常に小さな舵で,操縦者の思いのままに操縦される。」(ヤコブの手紙3:4。新国際版〔英文〕から和訳)

  14. モーセ1:39参照

  15. モーサヤ26:30

  16. 教義と聖約58:42

  17. 申命28:8-91-7節も参照