2000–2009
「わたしは戸の外に立って,たたいている」
脚注
テーマ

「わたしは戸の外に立って,たたいている」

どうか……真理を熱心に求め,永遠の父なる神とその御子イエス・キリストを知るために求められることは何でも行ってください。

数週間前,わたしは古くからの友人とともに,ある社交の場にいました。定年になったばかりのその友人は,高い教育を受け,立派に成功していました。祖国では,その分野において第一人者と認められている人です。隣り合って夕食を取っていたとき,友人は教会のことを尋ねてきました。これには少し驚きました。今日こんにちの多くの人と同様に,彼も神はいないと決めつけていることを知っていたからです。問いかけは真剣で,どうやら以前からあれこれ考えていたようです。それまでの会話に端を発したものではなかったからです。

わたしは質問に答えて,回復について話しました。永遠の父なる神と御子イエス・キリストがジョセフ・スミスに御姿みすがたを現されたこと,またジョセフを通して神権と神の権能が地上に回復されたことを話しました。そして,話した事柄が真実であることを確かに知っていると証あかししました。友人は長い間何も言わず,今聞いたことを深く考えているようでした。真摯しんしに受け止めようとしているのが見て取れたので,わたしは身を乗り出して言いました。「あなたもわたしと同じように,今証したことが真実かどうかをはっきりと知ることができます。『永遠の父なる神に……キリストを信じながら,〔真心から〕問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなた……に明らかにしてくださ〔り〕……そして聖霊の力によって,あなた……はすべてのことの真実を知る』1ことができると約束しますよ。」

友人はそれからも深く考えていました。残念ながら,ほかの人たちが話しかけてきたため,その貴重な時間は終わりましたが,彼が引き続き心の中で,自分が聞き,感じたことを会得しようとしているのが分かりました。そのような機会が再び訪れることを願っています。伝えたいことがもっとあるからです。この友人も含めて,この世の無数の人々が,今の生活に満足していることを知っています。ニーファイが述べたように,彼らはなだめられ,欺かれ,「現世での安全を確信させ」られるのです。2自分たちの考え方にどっぷりと浸り,人の訓戒によって教えを受けています。

そのときのことを思い出しながら,わたしは次のように自問しました。「人の哲学に従って得られる報いとは何だろうか。」答えは明白だと思われます。哲学はその時代の文明とともに滅び,永遠の報いを得られる希望もないまま,過去のちりにまみれて廃れます。主の御霊みたまが友人の心に触れたのだと感じました。天の御父は決してわたしたちをお見捨てにはなりません。救い主は言われました。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう。」3

しかし,扉を開ける望みを持たなければなりません。たとえそれがこれまでの信条や生き方の土台を揺り動かすことになってもです。これは,あまり活発でない会員や,まだ教会員ではない人についても同じです。ある賛美歌の歌詞が思い浮かびます。

「人生で何を選び,どう生きるか

すべての魂は自由であることを覚えなさい

神は天への道を強いられることはない

それは永遠の真理である

神は呼び,勧め,正義に導き

知恵と愛と光をもって祝福される

あらゆる善と思いやりとに満ち

強いることは決してなさらない」4

天の御父が選択の自由を取り去られることはありません。わたしたちは御父と御子を求め,御二方のことを知りたいと望まなければならないのです。イエス・キリストの教えが真実かどうかを知る方法がすべての人に与えられています。イエスは仮庵かりいおの祭りのとき,疑う者たちに答えて次のように言われました。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教おしえが神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」5

デビッド・O・マッケイ大管長はこのように言っています。「〔これは,〕人が考える中で最も簡単な見分け方です。自分自身で行って,自分のものとするとき,それが良いものかどうか,確信が得られます。生活の中で実際に行ったうえで知ったというのでなければ,だれもわたしを納得させることはできません。”6

御父の御心みこころとは何でしょうか。「末日聖徒イエス・キリスト教会は,この神権時代に神の『御心』が明らかにされたことを世に証しています。すなわち,人生の根幹となる福音の原則が啓示され,それは時の中間にキリストが教えられた原則と一致したものであること」7,そして「キリストの贖罪しょくざいにより,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得る」8ことを証しています。

わたしたちは物事を理性的に考える時代に生きています。人々は霊的な経験を軽んじ,啓示を拒みます。真理と知識を求める人の探求心,偏見のない心,尋ね求める心はどこに行ってしまったのでしょうか。わたしたちは自分の理性に頼る傾向があります。主はわたしたちが霊的な事柄に敏感になるように願い,従うべき規範をお与えになりました。

「さらにまた,あなたがたが欺かれないために,わたしはすべてのことに関して規範を与えよう。サタンは地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わすからである。

祈り,また悔いる霊を持っている者は,わたしの定めに従うならば,わたしに受け入れられる。

語り,悔いる霊を持ち,その言葉が柔和で人を教化する者は,わたしの定めに従うならば,神から出ているのである。」9

真理を知るために探し求めることはなぜ大切なのでしょうか。

贖あがない主イエスは,ケデロンの谷を通ってユダの裏切りを受ける直前,栄光に満ちた執り成しの祈りをささげられました。主はわたしたちのために御父に祈って言われました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」10

永遠の命とは,神とその御子を知ることです。主を求めず,主の御心を行おうとしないで,どのように神を知ることができるでしょうか。永遠の命は,わたしたちがこの世のいかなるものにも勝って願い求めるべきものです。

イエス・キリストとその教えを学びながら,その影響を受けて良い変化を遂げない人などいません。救い主への証を持つとき,わたしたちは主のようになり,主に従いたいと望みます。そしてバプテスマの水に入り,主と神聖な聖約を交わすのです。

救い主はわたしたち一人一人を心にかけておられます。:

「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。

見よ,主なるあなたがたの贖い主は,肉体において死を受けた。それによって,すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることができるように,主はすべての人の苦を引き受けた。

そして,悔い改めを条件として,すべての人を自分のもとに導くことができるように,主は再び死者の中からよみがえったのである。

人が悔い改めるとき,主の喜びはいかに大きいことか。」11

主はその大いなる神の愛によって,御自身が経験されたと同じ喜びをわたしたちにも味わってほしいと願っておられます。主はおっしゃいました。「わたしがこれらのことを話したのは,わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため,また,あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」12主は,精神的,情緒的,肉体的,霊的,また経済的にも,真の平安をわたしたちに与えてくださいます。それは「世が与えるようなものとは異なる」13,「人知ではとうてい測り知ることのできない……平安」14です。

天の御父の御心に従うとき,人は霊的にも,知的にも,情緒的にも成長し,約束の聖なる御霊を通して確信を得ます。その確信と喜びはやがて,完全な知識となります。救い主は言われました。「あなたは求めれば,啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受けて,数々の奥義と平和をもたらす事柄,すなわち喜びをもたらし永遠の命をもたらすものを知ることができるようになるであろう。」15

教会から気持ちが遠のいている人たち,正直な人たち,またわたしの友人とこの世のすばらしい人たちにお願いします。どうか,独り善がりな自己満足から目覚め,キリストのみもとに来てください。真理を熱心に求め,永遠の父なる神とその御子イエス・キリストを知るために求められることは何でも行ってください。なぜなら「これが道であ〔り〕……このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない」からです。16

神の御心を行うなら,神を身近に感じ,永遠の喜びがどのようなものかが分かるようになると証します。そして永遠の命が手の届くものであることを理解するようになるでしょう。また神が確かに生きていて,わたしたちの父なる神であられること,深い愛をもって,贖いや復活,そしてこの偉大な業が神の業であることを示してくださることを知るでしょう。イエス・キリストの御名みなによってへりくだり証します。アーメン。