2000–2009
主イエス・キリストへの信仰を見いだす
脚注
テーマ

主イエス・キリストへの信仰を見いだす

平安と希望を与え,理解を助けてくれるのは,主イエス・キリストとそのいに対する信仰だけです。

救い主とその使命に対する信仰は,福音の中核を成すものです。「主イエス・キリストを信じる信仰」1が福音の第一の原則であるのはこのためです。信仰とは何でしょうか。使徒パウロは,新約聖書にあるヘブル人への手紙の中で,「信仰とは望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することである」2と教えています。では,信仰を得るにはどうしたらよいのでしょうか。お会いしたこともないのに,救い主が実在されるという確信を得るには,どうすればよいのでしょうか。聖文はこのように教えています。

「ある人には,イエス・キリストが神の子であり,世の罪のために十字架につけられたことを知ることが,聖霊によって許される。

ほかの人には,続けて忠実であれば自分もまた永遠の命が得られるように,彼らの言葉を信じる ことが許される。」3

時の初めから,預言者たちはイエスが神の御子であること,使命を持ってこの世に来て,全人類を贖あがなわれることを知っていました。聖文を読むと,救い主の生誕だけでなく,確かに訪れる輝かしい再臨についても数千年にわたって預言されてきたことが分かります。

わたしたちが昔の預言者の時代に生きていたとしたら,その言葉を信じたでしょうか。救い主がお生まれになることを信じることができたでしょうか。

古代アメリカではレーマン人サムエルが,救い主がお生まれになる夜は「天に大いなる光があるために,……人にはまるで昼のように思われる」4と預言しました。

多くの人がサムエルの言葉を信じてニーファイのところへ行き,罪を告白し,悔い改めてバプテスマを受けました。「また,天使たちが〔彼らに〕現れ,胸躍る大いなる喜びのおとずれを……告げ知らせ」5ました。

しかし,ニーファイ人の大部分は「心をかたくなにし」6,当時見られた「しるしと不思議」を認めようとはしませんでした。これらのしるしが与えられたのは,「キリストが間もなく必ず来られることを民に知らせる」7ためでしたが,ニーファイ人たちはそれを心に留めず,「自分自身の……知恵に頼るようになって,こう言〔いまし〕た。『〔主を信じる者たちが〕うまく言い当てたことも幾らかある。しかし,……キリストのような者が来ることは道理に合わない。』」8

当時,反キリスト者と呼ばれた,神を信じない人の中には,救い主もその贖いも必要ないと人々に言い聞かせる者もいました。それは現代でも同じです。サムエルの預言がついに成就して「二昼一夜がまるで一日のようであ〔る〕」日が訪れました。9預言者の言葉を信じた人々の心は,どんなに大きな喜びで満たされたことでしょう。「預言者の言葉のとおりに,すべてのことがことごとく成就した。そして,一つの新しい星もその言葉のとおりに現れた。」 10

預言者の言葉を信じた人々は,救い主がお生まれになって教え導いておられる間,主を受け入れて従うことができました。しかし,非常に献身的な信者の信仰ですら試されることがありました。十字架上で亡くなった後,救い主が墓からよみがえられたと兄弟たちが証あかしするのを聞いても,トマスは信じることができずにこう言いました。「わたしは,……見……なければ決して信じない。」11後に救い主の御手みてしの釘跡くぎあとに触れる機会が与えられますが,この愛すべき弟子は,「わが主よ,わが神よ」と告白します。12救い主は,そんなトマスに,信仰を持つことの意味を優しく説かれました。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は,さいわいである。」13主はわたしたちすべてにも同様に教えておられます。

アメリカ大陸に住む信者たちも,同じような信仰の試しに遭いました。サムエルが預言したとおりに激しい「雷と稲妻」14があり,暗闇くらやみが「3日間,全地の面を覆〔い〕」15ました。このとき,「預言者たちを受け入れ……預言者たちに石を投げつけなかった」16人々は,恐れたり逃げまどったりしませんでした。それが「〔イエス・キリストの〕死にかかわるしるし」17だということが分かっていたからです。彼らが神殿に集まり,互いに驚いていると,救い主が御姿みすがたを現し,こう言われました。

「『見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である。

……わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。……』さて,イエスがこれらの御言葉みことばを語り終えられると,群衆は全員地に伏した。

彼らは,キリストが天に昇られた後,自分たちに御自身を現されることが預言されていたのを思い出したからである。」18

兄弟姉妹の皆さん,キリストが最初に降臨されたときの預言は「ことごとく」成就しました。その結果として,イエス・キリストが時の中間に来られた実在の人物だったと信じる人が世界中にたくさんいます。しかし,預言の中にはまだ成就していないものもたくさんあります。この大会で,生ける預言者たちがキリストの再臨について預言し,証します。ほかの大会でもそうです。現在身の回りで起こっているしるしと不思議についても彼らは証し,キリストは確かに再臨されると教えています。その言葉を信じるでしょうか。それとも,こうした証や警告に背を向けて,証拠が示されるのを待つでしょうか。「真昼に暗闇の中を歩いている」19のではありませんか。現代の預言に照らして見ることを拒み,世の光が再び来て統治なさることを否定してはいないでしょうか。

わたしはこれまでの人生で,キリスト教の標準を重んじる,善良で寛大な人に数多く出会ってきました。しかし,その中にはキリストが生ける世の救い主であられ,主の教会が地上に回復されているということを信じない人もいます。預言者の言葉を信じないために,この世で福音を学び,救いをもたらす儀式を受けるという喜びにあずかっていないのです。

先日,親しい友人と心置きなく語り合っているとき,このように尋ねられました。「ヘイルズ長老,わたしは信じたいんです。いつもそう願ってきました。でも,そのためにはどうしたらいいのですか。」今朝は,この質問にお答えいたします。

使徒パウロはローマ人への手紙にこう書いています。「したがって,信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである。」20皆さんがこの大会で行われていることを見たり聞いたり読んだりすること自体が,神の御言葉を聞くということです。主イエス・キリストへの信仰を見いだすための第一歩は,主の僕しもべである預言者の口から語られる主の御言葉を心に留めることです。しかし,心に留めるだけでは不十分です。それだけでは何も変わりません。わたしたちにできることを行わなければならないのです。救い主御自身が言われたように,「耳のある者は聞」21かなければなりません。言い換えれば,聞くためには能動的な努力が必要だということです。「行いのない信仰〔は〕死んだものなのである。」22つまり,教えを真剣に受け止めてよく考え,心の中で思い計らなければなりません。預言者エノスが経験したように,人から聞いた福音の証を「〔わたしたちの〕心に深くしみ込〔ませる〕」23のです。エノスが信仰を築いていった経験には,深い意味があります。その過程から,幾つかの要素を見ていきましょう。

まず,エノスは福音の真理を父親から聞きました。皆さんが家庭や今大会で聞いているのと同じです。次に,「永遠の命と聖徒たちの喜び」24に関する父親の教えを心に深くしみ込ませました。第3に,その教えが真実かどうか,自分が造り主の御前みまえに義とされるかどうかを自分自身で知りたいと思い,その願いを胸に満たしました。エノスは,「わたしの霊は飢えを感じた」25と言っています。エノスはこのように霊的な飢えを強く感じたため,救い主の次の約束を受けるにふさわしい者となりました。「義に飢え渇いている人々は皆,幸いである。彼らは聖霊に満たされるからである。」26第4に,エノスは神の戒めに従いました。そのことによって,聖霊の導きを受けやすくなりました。第5に,エノスは記録によると,「造り主の前にひざまずき,自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求め……,一日中造り主に叫び求め……,また夜になっても,声が天に届くように,まだ大きな声を上げて」いました。27簡単なことではありませんでした。すぐに信仰が得られたわけではありません。その証拠に,エノスはこの祈りの経験を「神の前で味わった苦闘」28と表現しています。しかし,ついに信仰は得られました。聖霊の力によって,自分自身の証を得たのです。

祈る際にこのような苦闘をしないかぎり,エノスのような信仰を見いだすことはできません。苦闘する価値があると証します。その順番を覚えてください。(1)主の僕が語った神の御言葉を読んだり聞いたりする。(2)その御言葉を心に深くしみ込ませる。(3)心から義に飢え渇く。(4)福音の律法と儀式,聖約に従順に従う。(5)イエス・キリストが救い主であられることが分かるよう,信仰をもって,声を上げて熱烈に祈り,懇願する。これらのことを真剣にたゆまず行うとき,キリストが弟子たちに語られた次の御言葉が成就することを約束します。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。29

イエスを信じる信仰の第一歩を踏み出すと,天の御父はその信仰を強める機会をお与えになります。これは逆境を経験するなど,様々な形で与えられます。最近知人からこんな手紙を受け取りました。

「2歳半の孫を白血病で亡くしました。……もう7年近く〔になる〕というのに,息子夫婦はまだベビーベッドを片付けることができません。信仰を持つというのは難しいことです。また,友人の一人を69歳で失いました。3か所の癌がんと10年間闘い,2度快方に向かった末の死でした。腎臓〔にできた〕癌は脳,肺〔へと転移していき,〕ついに力尽きたのです。人間の力でできることはすべてやりました。6年前には神を信じるようにもなりました。……でも,寿命は延びませんでした。信じるとは難しいことだと思います。」

信仰についてのこの訴えかけに,わたしは次のように答えました。「お孫さんを白血病で亡くされた話に,わたしも心を痛めました。願わくは,人生の目的を探し求めるときにあなたの心にも息子さん夫婦の心にも平安が訪れますように。信仰を得るには,神に近づきたいと心から願って祈り,重荷を代わりに負ってくださる神に頼らなければなりません。『わたしたちはどこから来たのか』『死すべき体を持ってこの世にいるのはなぜか』『地上での生活を終えた後,どこへ行くのか』という,人生の目的に関する不可解な疑問に答えてくださる神を信頼し,願い求めなければなりません。亡くなったお孫さんについては何の心配も要りません。責任を負えるようになる8歳という年齢に達する前に亡くなっているからです。お孫さんは今,神のみもとにいます。信仰を求めてください。神の祝福がありますように。」

興味深いことに,苦しんでいる当人はしばしば,苦難を通して信仰を得,「どうか,みこころが行われますように」30と主の御心みこころを受け入れている一方で,家族や介護者は痛ましい結果をなかなか受け入れられず,その経験を通して信仰を強められずにいることがあります。「寿命」が延びたかどうかで信仰を測ることはできないのです。

試練はすべてわたしたちのために与えられますが,人生で試練に遭うと,信仰を持つのは難しく,信じるのは難しいように思えるものです。そんなときに平安と希望を与え,理解を助けてくれるのは,主イエス・キリストとその贖いに対する信仰だけです。主がわたしたちに代わって苦しまれたことを信じるようになって初めて,最後まで堪え忍ぶ力が得られるのです。この信仰を得ると,心の中に大きな変化が起こります。そしてエノスのように強くなり,兄弟姉妹の幸福を願うようになります。彼らにも救い主イエス・キリストの贖いを信じる信仰によって高められ,力を得てほしいと願い,祈るようになるのです。

わたしたちの生活に及ぼす贖いの効力について,幾人かの預言者の証から見ていきましょう。これらを心に深くしみ込ませ,皆さんの心の飢えと渇きを満たしてください。

「その日,御父と御子のことを証する聖霊がアダムに降くだり,そして言った。『わたしは初めから,……父の独り子である。あなたは堕落したので,贖いを受けることができる。』」31

「主は〔ヤレドの兄弟〕に御自身を現して言われた。『……見よ,わたしは,自分の民を贖うために世の初めから備えられた者である。……わたしによって全人類は命を得る。すなわち,わたしの名を信じる者は永遠に命を得る。』」32

アビナダイはこう証しています。「わたしはあなたがたに,神御自身が人の子らの中に降って来て,御自分の民を贖われるということを理解してほしいと思う。……まことにこの御方は連れて行かれて,十字架につけられ,殺され,……人の子らのために執り成しをする力を……授けられ,……彼らを贖い,正義の要求を満たされる。」33

そして最後に,ジョセフ・スミスです。ジョセフは,14歳のときに揺るぎない信仰をもって「神に,願い求めるがよい」34というヤコブの勧めに従いました。ジョセフは将来預言者になる器であったため,父なる神とその御子イエス・キリストが御姿を現し,指示をお与えになりました。最後の神権時代において最初に召された預言者が見た最初の示現です。何と輝かしい出来事でしょう。16年後,ジョセフはカートランド神殿で救い主の再訪を受けてこう証しました。「わたしたちは,主……を見た。……その声,すなわちエホバの声は大水の奔流のとどろきのようで,このように言われた。『わたしは最初であり,最後である。わたしは生きている者であり,殺された者である。わたしは父に対するあなたがたの弁護者である。』」35

愛する友人と,信仰に飢え渇いているすべての方にお勧めします。「預言者たちと使徒たちが書き記してきたイエスを求め」てください。36救い主は皆さんのために命をささげられました。この預言者の証を心に深くしみ込ませてください。これが真実だという証が聖霊を通して得られるように,祈り求めてください。人生の試練に喜んで立ち向かい,永遠の命を得る備えをするのです。これを行うとき,信仰は強められます。

イエス・キリストは確かにこの地上に来られました。実在されたのです。そして,再び来られます。このことをわたしは知っており,イエスが再臨されるという特別な証をイエス・キリストの聖なる御名みなによって申し上げます。アーメン。