2010–2019
何を思っているのですか
戻る 次へ

何を思っているのですか

相手の経験を優しく考慮しながら,次のように質問するようにしてください。「何を思っているのですか。」

41年前のある日,わたしは18輪トレーラーの運転席に乗り込みました。隣には美しい妻のジャンと幼い息子スコッティーを乗せていました。わたしたちは幾つかの州を横断して大量の建築資材を運ぶことになっていました。

当時はシートベルトやチャイルドシートを義務付ける法律がなかったので,妻は大事な息子を腕に抱き抱えていました。「地面から随分高いわね」と妻が言ったとき,わたしは彼女の不安を察するべきでした。

幹線道路の勾配が急な,歴史に残るドナー峠を下っていると,予想外のことが突然起こりました。トレーラーの運転席に煙が充満したのです。前が見えなくなり,わたしたちは息が詰まりそうになりました。

これほど大きな車両だと,ブレーキだけでは急激に速度を落とせません。わたしはエンジンブレーキを使いギアを下げて,何とか止めようとしました。

まさにわたしがトレーラーを路肩に寄せていた瞬間,しかしまだ完全に停車する前に,妻は助手席側のドアを開けて赤ん坊を抱いたまま飛び降りました。二人が地面の上で転がる姿を,わたしはなすすべなく見詰めていました。

わたしはトレーラーを止めるとすぐに,煙でいっぱいの運転席を飛び出しました。取り乱しながら岩や雑草の間を駆け抜け,二人を抱き締めました。ジャンの前腕とひじが傷だらけで出血していましたが,幸いなことに,彼女も息子も無事でした。幹線道路の脇で砂ぼこりが静まっていく中,わたしはしばらくの間二人をきつく抱き締めていました。

心が落ち着いて,息ができるようになったとき,わたしは思わずこう口走ってしまいました。「一体何を考えているんだ。今したことがどんなに危険か分かっているのか。死んだかもしれないんだぞ!」

妻はすすで汚れた頬を涙でぬらしながら振り返り,わたしの心を刺し貫く一言を言いました。今でも鮮明に覚えています。「息子を救おうとしていただけよ。」

その瞬間,わたしは妻の思いを悟りました。エンジンが燃えていると思った彼女は,トレーラーが爆発して皆死んでしまうと恐れたのです。一方,わたしは煙が電気系統の故障によるもので,危険はあるものの命に関わるわけではないことが分かっていました。わたしは,愛する妻が幼い息子の頭を優しくなでている姿を見て,これほど度胸の要ることをするなんて何という女性だろう思いました。

この事態は,文字どおりのエンジン故障と同じように,わたしたちの気持ちに危機を招きかけました。互いに相手が悪いと思って,口を利かない期間がしばらく続いたものの,最後には,何が原因で感情的になってしまったのか説明し合いました。互いへの愛と相手の安否を気遣う心を二人とも持っていたおかげで,危険な出来事が大事な結婚生活を台なしにすることはありませんでした。

パウロは次のように警告しています。「悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。……人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。」(エペソ4:29 )パウロの言葉は心に清らかに響きます。

皆さんにとって,「悪い言葉」とは何を意味するでしょうか。わたしたちは皆,自分や他の人の激しい怒りの感情を味わうことがよくあります。人前で怒りを爆発させる人を見たこともあります。スポーツの試合や政治の場で,あるいは自分の家でも,一種の感情の「電気ショート」を経験したことがあります。

子供が刃物のように鋭い言葉で,愛する親を傷つけることがあります。人生の最も豊かで愛に満ちた経験を共にしてきた夫婦が方向性を失い,互いに忍耐を持てなくなり,声を荒らげることがあります。わたしたちは皆愛ある天の御父の聖約の子供ですが,誰しも早とちりをして後悔したことがあります。相手の視点から状況を把握する前に,角の立つようなことを言ってしまうことがあります。破壊的な言葉がどのようにしてきわどい状況を致命的な状況に変えてしまうか,誰もが学ぶ機会があったことでしょう。

大管長会が最近出した手紙には,次のように明記されています。「イエス・キリストの福音は全ての人を愛し,親切と礼儀正しさをもって接するように教えています。互いの意見が違うときも同様です。」(大管長会の手紙,2014年1月10日付)わたしたちが引き続き礼儀正しく対話できること,またそうするべきことを,何と巧みに思い出させる言葉でしょう。異なる視点から世界を見るときは特にそうするべきです。

箴言の作者は,次のように勧告しています。「柔らかい答は憤りをとどめ,激しい言葉は怒りをひきおこす。」(箴言15:1 )「柔らかい答」とは,熟考したうえで応答すること,すなわち謙虚な心で抑制の利いた言葉を語ることです。だからといって,決して率直に話さないわけでも,教義上の真理を曲げるわけでもありません。端的な言葉でも,柔らかく語ることができます。

モルモン書にも,夫婦の意見が食い違ったときに肯定的な言葉を語ったすばらしい例があります。サライアとリーハイの息子たちは真鍮の版を手に入れるためにエルサレムに戻りましたが,なかなか帰って来ませんでした。サライアは息子たちが危険な目に遭っていると思い込んでいました。怒りが込み上げてきた彼女は,それをぶつける相手が必要でした。

息子ニーファイの視点から,この話を聞いてください。「母は,わたしたちが荒れ野で死んでしまったと思ったからである。母はまた,父のことを幻を見る人だと言って父に不平を言い,『あなたがわたしたちを受け継ぎの地から連れ出したので,息子たちはいなくなってしまい,わたしたちも荒れ野で死んでしまいます』と言っていた。」(1ニーファイ5:2

サライアがどのような思いでいたか,考えてみましょう。衝突しがちな息子たちが,夫の命が脅かされていた地に戻ることを心配していました。まだ子供をもうけられる若さでいながら,心地よい我が家と友達を捨てて,辺境の荒れ野で天幕に住んでいました。不安の限界に追い込まれ,サライアは,理性的ではないにしても,まるで突進するトラックの高さから家族を守るために勇敢に飛び降りたかのようでした。もっともな不安を,怒りと疑いと非難の言葉を使って夫にぶつけたのです。これは全人類が驚くほど堪能な言語に思えます。

預言者リーハイは妻の怒りの原因となった不安に耳を傾けました。そして,思いやりという言語で抑制の利いた対応をしました。まず,妻の視点から物事を見た場合の真実を認めました。「そこで父は母に言った。『わたしは自分が幻を見る者であることを知っている。もしわたしが……エルサレムにとどまって〔いたら〕,同胞とともに滅びてしまったであろう。』」(1ニーファイ5:4

次に,これは聖霊が夫リーハイに明かされたに違いありませんが,息子たちの福利に関する彼女の不安について語りました。

「『しかし見よ,わたしは約束の地を頂いており,そのことについて喜ばしく思う。またわたしは,主が息子たちをラバンの手から救い出し〔て〕くださることを知っている。』

父リーハイはこのような言葉で,わたしたちのことについて母サライアを慰めたのであった。」(1ニーファイ5:5-6

今日,男性と女性が互いへの敬意を育むことが大いに必要とされています。信じることや行動が非常に異なっていても,動機がまったく違っていても,それらを超えて敬意を表すのです。自分の思いと心に告げられることを全て知ることも,それぞれが直面する試練や選択の裏にある事情を完全に理解することも不可能です。

しかしながら,相手の経験に対する共感が,わたしたちの姿勢にまず見て取れるなら,パウロが語った「悪い言葉」はどうなるでしょうか。わたしは自分の不完全さや未熟さの限界を重々承知しながら,皆さんにお願いします。相手の経験を優しく考慮しながら,次のように質問するようにしてください。「何を思っているのですか。」

主が,幼い羊飼いの少年であったベツレヘムのダビデをイスラエルの王に選び,サムエルとサウルを驚かせられたことを覚えていますか。主の預言者はこのように言われました。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見,主は心を見る。」(サムエル上16:7 )

トレーラーの運転席に煙が充満したとき,妻は息子を守るために,思いつく中で最も勇気ある行動を取りました。わたしが妻の選択を問いただしたことも,家族を守るためでした。驚いたことに,誰の方がより正しいかは重要ではありませんでした。重要なのは,互いの言葉に耳を傾け,相手の見方を理解することでした。

快く相手の視点で見ようとする気持ちは,「悪い言葉」を「益になる」ように変えてくれます。使徒パウロはこのことを理解していました。わたしたち一人一人もある程度経験することができます。これは問題を変えたり,解決したりしないかもしれませんが,より重要なのは,益になることで自分たちが変われるかどうかということなのです。

培われた聖霊の賜物が,相手の気持ちや状況に共感する思いでわたしたちの心の奥まで照らすときに,思いやりのある言葉を使うことで,わたしたちが「益になる」ことができるとへりくだって証します。それにより,わたしたちは危害を及ぼしそうな状況を聖なる場所に変えられるのです。愛にあふれる救い主が,「〔わたしたちの〕心を見」ておられ,わたしたちが何を思っているのかを心にかけておられることを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。