2010–2019
忠実さから生まれる従順
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忠実さから生まれる従順

従順とは最高の権威者である神の知恵や力を信じる信仰の現れにほかなりません。

ペリー姉妹とわたしは長年毎週月曜日の夜に家庭の夕べを開いてきましたが,突然,その規模が拡大することになりました。わたしの弟とその娘,妻のバーバラの弟,それに姪とその夫が,同じアパートに引っ越して来たのです。わたしにとって,子供の頃を除いて,自分の身内がこんなに近くに住むという祝福にあずかるのは,初めての経験です。その当時,わたしの家族が住む同じ区画の中に,母の親族が何人も住んでいました。ソニーおじいさんの家は北隣,エマおばさんの家は南隣,同じ区画の南側にはジョセフィーンおばさんが住んでいましたし,東側にはアルマおじさんが住んでいました。

子供子供の頃,わたしたちは毎日のように自分の親族と顔を合わせ,ともに働き,ともに遊び,ともに訪ね合って時間を過ごしました。いたずらをするとあっという間に母親の耳に入るという環境でした。現代の世界はそれとは異なっています。大部分の家族は散らばっています。たとえ比較的近くに住むことがあったとしても,隣り同士ということはほとんどありません。それを考えると,自分の子供時代や現在の状況は,愛する家族が互いに身近に住んでいて,ある意味で天国のように思えます。こうした関係は,家族が永遠の本質を持つものであることを,常に思い起こさせてくれます。 

わたしは,少年時代には,祖父と特別な関係にありました。わたしは家族の長男でしたので,自分の家と祖父の家と二人のおばの家のために,冬の間は通路の除雪をし,夏の間は芝生の手入れをしたものでした。祖父は,わたしが芝を刈っている間,いつも玄関のポーチに座っていました。わたしも芝を刈り終わると,玄関前のステップに腰を下ろし,祖父とおしゃべりに興じたものでした。そうした時間はわたしにとってかけがえのない思い出となっています。

ある日のこと,わたしは祖父に,人生には実に数多くの選択肢があるので,どうしたら自分がいつも正しいことをしているのかどうか分かるのか尋ねたことがあります。祖父はいつものように,農場生活の体験談を使って,答えてくれました。

祖父はわたしに,2頭の馬を操るのには,馬をどのように調教したらよいか,教えてくれました。祖父の説明によれば,馬は,まず,誰が命令しているのかを知る必要があります。馬を確実にコントロールし,操るための鍵の一つは,馬の引き具とくつわです。2頭のうちの1頭でも,御者に従う必要はないと思いこんだら,2頭一緒に引くことも,2頭の力を最大現に引き出すこともできません。

それでは,祖父がこのたとえを使ってわたしに教えようとしたことを吟味してみましょう。この2頭の馬を操る御者は誰でしょうか。祖父はそれは主であると教えてくれました。主が目的と計画をお持ちだからです。また,主はこの2頭にチームワークを教え,1頭ずつ個別の訓練もなさいます。この御者は,何が最善かを知っているので,馬にとって,自分が正しく動いていると知るためには,御者の指示に従順に従うしかないのです。

では,祖父は何を引き具とくつわにたとえたのでしょうか。当時も,そして今もそう思っていますが,祖父はわたしに聖霊の促しに従うようにと教えていたのです。祖父の心の目には,その引き具とくつわは霊的なものでした。良く調教された2頭の従順な馬は,御者が手綱で優しく合図すれば,御者の望みどおりに動きます。この優しい手綱は,静かな細い声のようなもので,主がわたしたちに語りかけるときにお使いになる方法です。主は選択の自由を尊重されるので,主の手綱は決して強制的なものではありません。

御霊の優しい促しを無視する人々は,あの放蕩息子が学んだように,不従順と放蕩な生活から当然生じる結果から学ぶことになります。あの放蕩息子は,不従順から生じる当然の結果を経験してからやっと謙遜になり,「本心に立ちかえって」,父の家へ帰るようにという御霊のささやきを聞くことができたのです(ルカ15:11-32 参照)。

祖父の教えは,御霊の優しい手綱を常に受け止める用意をしておくようにというものでした。わたしがもし間違った方向へ進むと,必ずその促しを受けることができると,祖父は教えてくれました。そして,もし御霊の導きを受けて決定をするならば,何か重大な間違いを犯す恐れもなくなるということを教えてくれました。

ヤコブの手紙3章3節 にはこう述べられています。「馬を御するために,その口にくつわをはめるなら,その全身を引きまわすことができる。」

自分の霊のくつわに対して敏感になる必要があります。主の手綱のかすかな促しにも,喜んで進路を完全に変える必要があります。人生で成功を収めるためには,自分の霊と肉体の両方が一致して,主の戒めに従順に従って生活できるように訓練する必要があります。もし聖霊の優しいささやきに耳を傾ければ,聖霊の助けにより,天の御父と住むことができるよう,わたしたちの永遠のふるさとへ戻れるよう導くという目的において,自分の霊と肉体を一致させることができるのです。

信仰箇条の第3条は,従順の大切さについて教えています。「わたしたちは,キリストの贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。」

祖父が教えてくれた2頭の馬のたとえのように,従順になるためには,特別な信頼が必要です。それはすなわち,御者に対する絶対的な信仰です。ですから,祖父の教えは,福音の第一の原則であるイエス・キリストを信じる信仰とも関わりがあるのです。

使徒パウロは,「さて,信仰とは,望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1 )と教え,アベル,エノク,ノア,そしてアブラハムの例を用いて,信仰について教えています。パウロは忠実な者の父アブラハムの例を強調してこう述べています。

「信仰によって,アブラハムは,受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時,それに従い,行く先を知らないで出て行った。

信仰によって,他国にいるようにして約束の地に宿り,……

信仰によって,サラもまた,年老いていたが,種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると,信じていたからである。」(ヘブル11:8-9,11 )

わたしたちは,アブラハムとサラの息子のイサクを通じて,一つの約束がアブラハムとサラに与えられたことを知っています。それは,「天の星のように,海べの数えがたい砂のように」繁栄するという約束でした(12 節参照;創世 17:15‐16 も参照)。そして,アブラハムの信仰は,わたしたちが想像もできないような方法で試されたのです。

わたしはこれまで多くの機会にアブラハムとイサクの物語について熟考してきましたが,アブラハムの忠実さと従順さについて完全に理解できてはいません。恐らく,アブラハムがある日の朝早く,信仰深く荷造りをして家を出る光景を想像はできるかもしれません。しかし,どうやって,息子のイサクを従えて,3日の行程を,モリヤの山のふもとまで行くことができたのでしょうか。どうやって燔祭のための薪を山の上まで運んだのでしょうか。どうやって祭壇を築いたのでしょうか。どうやってイサクを縛り,祭壇に横たえたのでしょうか。イサクに自分がささげものなのだということをどう説明したのでしょうか。そして,息子を殺すために刃物を上げる力をどうやって得たのでしょうか。アブラハムはその信仰によって,あの奇跡の瞬間まで神の導きに厳密に従う力が与えられていました。そしてその時,御使いが天からアブラハムを呼び,つらいい試験に合格したことをアブラハムに告げたのです。そして,主の天使はアブラハムの聖約に伴う約束をもう一度繰り返しました。

わたしはイエス・キリストを信じる信仰を持つに当たって様々なチャレンジがあり,従順になることが難しい人もいることも承知しています。わたしは長年の経験から,馬も一頭一頭それぞれ違う個性を持っていて,調教しやすい馬もいれば,難しい馬もいることを知っています。人の多様性ははるかに大きいです。わたしたち一人一人は神の息子娘であり,前世でも現世でも一人一人異なった経験をしています。従って,万人向きの解決策などはほとんどありません。ですから,わたしは人生というものが試行錯誤の連続であり,最も大切なことは,福音の第二の原則,すなわち悔い改めが絶えず必要であるということを十分に認識しています。

また,わたしの祖父が生きていた時代は,善悪の選択に関しては,もっと単純な時代でした。極めて知性が高く,洞察力に優れた人々の中には,もっと複雑になった現代は,もっと複雑な解決策が必要であると考えている人々がいるかもしれませんが,わたしにはその主張が正しいとは思えません。わたしが考えるに,むしろ,今日の複雑さを解くには,善悪の違いを知るためにはどうしたらよいかと尋ねた素朴な質問に祖父が答えてくれたようにもっと単純さが必要であるということです。わたしが今日お伝えしているのが単純な公式であると分かっています。しかし,その公式は,わたしにとって非常にうまく機能していることを証します。ですから,わたしは皆さんにお勧めします。むしろ,わたしの言葉を試してみるよう皆さんにチャレンジします。皆さんがそうするならば,わたしの言葉は,様々な選択肢がありすぎるときに,何を選択すべきかを明確に示し,学識ある人々や自分は賢い人間だと思っている人々を混乱させている問題に対して,単純な答えを示してくれることを約束します。

従順とは,受け身的であり,よく考えずに権威者の指示や命令に従うことであると考えることが往々にしてあります。実際は,従順とは最高の権威者である神の知恵や力を信じる信仰が現れたものに他なりません。たとえ息子を犠牲にささげるよう命じられても,アブラハムが神を信じる揺るぎない信仰と従順さを行動で示したとき,神はアブラハムを救われました。同様に,わたしたちが従順によってわたしたちの信仰を行動で示すときに,神は最終的にはわたしたちを救ってくださるのです。

ひたすら自分自身にのみ頼り,自分自身の欲望や性向にのみ従おうとする人々は,神に従い神の知恵と力と賜物に依り頼む人々と比較して,大きな制限を受けます。「己というものだけで包まれている人は小さな包みにしかならない」という言葉があります。力強く,積極的な従順というものは,弱さや受け身とは無縁です。それは,神を信じるわたしたちの信仰を宣言する手段であり,わたしたちが天の力を受けるための資格です。従順は一つの選択です。それは,自分の限られた知識や力に頼るのか,それとも,神の無限の知恵や力に頼るのかの選択です。祖父の教えに従えば,それはわたしたちの口に霊のくつわがはめられていることを感じ,御者の導きに従う選択をすることなのです。

わたしたちがその忠実さと,回復された福音の儀式を受けることにより,アブラハムの聖約を受け継ぐ者となり,その子孫となることができますように願っています。皆さんに約束します。主に忠実で従順な者は皆,永遠の命の祝福にあずかることができるのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。