2010–2019
贖い主キリスト
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贖い主キリスト

〔贖い主〕の犠牲は最初の人であるアダムから全人類の最後の人に至るまで,あらゆる人に祝福をもたらしました。

神の御子イエス・キリストは独特の環境に誕生し,死を迎えられました。物質的にはつましい境遇に暮らし, 成長されました。イエスは御自身についてこう語られました。「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある。しかし,人の子にはまくらする所がない。」(ルカ9:58 )

イエスは当時の世の指導者や宗教指導者から栄誉に浴することも,特別扱いされたり正当な評価を受けたりすることも,重んじられることもありませんでした。会堂の上席に迎えられることもありませんでした。

イエスの説教は素朴でしたが,大勢の人が主に従いました。主の働きはいつも一人一人にとって祝福となるものでした。主を神から遣わされた御方として受け入れた人々の間で,数え切れないほどの奇跡を行われました。

イエスは使徒たちに対して,奇跡を行い,御自身が行われた業よりも「もっと大きいわざ」を行う権能と力を与えましたが(ヨハネ14:12 ),罪を赦す特権をお与えになることはありませんでした。敵対する者たちはイエスの次のような言葉に腹を立てました。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」(ヨハネ8:11 )「あなたの罪はゆるされた。」(ルカ7:48 )罪を赦す権利はイエスだけのものでした。イエスは神の御子であり,御自身の贖罪によって罪の代価をお支払いになるからでした。

死に打ち勝つ力

死に打ち勝つ力もイエスが神から受け継がれた属性でした。会堂づかさのヤイロは「自分の家においでくださるようにと」懇願しました。「彼に……ひとり娘があったが,死にかけていた」ためでした(ルカ8:41-42 )。主がヤイロの願いを聞き入れて彼の家に向かっておられたとき,一人の僕がヤイロのもとへ来て言いました。「お嬢さんはなくなられました。この上,先生を煩わすには及びません。」(ルカ8:49 )イエスは家に入ると,皆に出て行くように言い,直ちに娘の手を取って,「起きなさい」と呼びかけられました(ルカ8:54)。

別の折に,イエスはナインという町に向かって旅をしていたとき,葬列に出会い,一人息子を亡くして泣いているやもめに目を留められました。イエスは憐れんで,ひつぎに手を掛けて言われました。「若者よ,さあ,起きなさい。」(ルカ7:14 )奇跡を目にした人々はこう叫びました。「大預言者がわたしたちの間に現れた。……神はその民を顧みてくださった。」(ルカ7:16 )この奇跡は特に注目に値します。なぜなら,若者は既に死が確かに宣告され,葬られるところだったからです。二人の若者の蘇生は,イエスが死を従わせる権能と力を持っておられることの証拠となりました。このことは信者を驚かせ,イエスを嫌う者に恐怖を与えました。

記録に残る第3の出来事はさらに衝撃を与えました。イエスはマルタ,マリヤ,ラザロのきょうだいをしばしば訪ねておられました。ラザロが病気であることを知らされたイエスは,それから2日間,そのおられた所に滞在されたてから,家族のもとへ赴かれました。マルタを慰める言葉の中でイエスははっきりとこう証しておられます。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。」(ヨハネ11:25 )

救い主が悲しんでいる人たちに墓から石を取りのけるようお求めになると,マルタはおずおずとイエスに低い声で言いました。「主よ,もう臭くなっております。四日もたっていますから。」(ヨハネ11:39 )

イエスは彼女に「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと,あなたに言ったではないか」と言うと(ヨハネ11:40 ),大声でこう呼ばわれました。

「ラザロよ,出てきなさい。」

「すると,死人は……出てきた」のです(ヨハネ11:43-44 )。

それはラザロが4日間墓に置かれた後のことであり,神の御子に敵対する者は,反論する余地のない証拠を突きつけられました。それは無視することも,受け流すことも,歪曲することもできないものでした。しかし,彼らは無分別にも,悪意をもって「この日からイエスを殺そうと相談した」のです(ヨハネ11:53 )。

新しい戒め

その後,生けるキリストはエルサレムで使徒たちとともに最後の過越の祭りを祝い,聖餐の儀式を定め,真心から仕えることによって互いに愛し合うようにとの戒めをお与えになりました。

ゲツセマネでの苦悩

それからイエスは全人類に対する至高の愛を表し,まったく自らの意志に基づいて,最も困難な試練への道を,勇敢に,また決然と歩まれたのでした。ゲツセマネの園では,独りきりでこの上ない苦悩を受け,あらゆる毛穴から血を流されました。イエスは全て御父の御心のままに,わたしたちの罪を贖われ,わたしたちをどのように救うかを知るためにわたしたちの病と苦痛を引き受けられたのでした(アルマ7:11-13参照)。

わたしたちは救い主と天の御父に恩義を受けています。なぜなら,主の犠牲は最初の人であるアダムから全人類の最後の人に至るまで,あらゆる人に祝福をもたらしたからです。

救い主が受けられた罪の宣告と十字架の刑

ゲツセマネでの苦悶が終わると,イエスは進んで御自身を敵の手に渡されました。御自身の弟子の一人に裏切られたイエスは,ゆがめられた不完全な裁判において不義で不法な方法により,性急な有罪判決を受けられました。その夜イエスは神を汚した罪で告発され,死刑を宣告されました。御自分は神の御子であると証されたことによって憎しみと恨みを募らせていた敵は,ピラトにイエスの有罪判決を下させる策略を巡らせました。そして,十字架の刑による死を科すために,告訴を神に対する不敬罪から反乱罪に切り替えました。

イエスに対するローマ人の糾弾は一層残酷でした。イエスの霊的な王国に対する嘲笑と軽蔑,屈辱的ないばらの冠の戴冠,むち打ちの刑,公開処刑での長時間に及ぶ苦痛。全てはイエスの弟子であることを公言してはばからないあらゆる者への警告であることは明らかでした。

世の贖い主は苦痛を受ける度にこの上ない自制を示されました。人々に祝福を与えることを常に考えておられました。愛と思いやりの気持ちから,御自分の母マリヤの世話をヨハネに頼み,また御自分をはりつけにした人々を赦してくださるよう天の御父に願い求められたのでした。地上での業が果たされたとき,主は御自分の霊を神に委ね,息を引き取られました。キリストの遺体は墓に納められて,3日間腐敗することなくそこに置かれました。

死者の間における贖い主の業

弟子たちが悲しみ,落胆し,不安に駆られていた間,救い主は御父のすばらしい計画のもう一つの側面において,教導の業を新たに展開しておられました。3日という短い間に,死者の間における壮大な救いの業を組織するためにたゆまず働かれました。それは神の家族全員にとって最も希望にあふれた日々となりました。霊界を訪れている間に主は忠実な僕たちを組織して,栄光あふれる計画をこの世で知る機会のなかった者や拒んだ者たちのもとに贖いの喜ばしいおとずれを携えて行けるようにされました。そのような人々は束縛から解放され,生者と死者の神によって贖われる機会を得ることとなりました(教義と聖約138:19,30-31参照)。

復活の初穂

救い主は霊界における働きを終えると,御自分の霊と体を永遠に結び合わせるために地上に戻って来られました。主は死を支配する力を持っていることを既にはっきりと示しておられましたが,主の復活以前に蘇生させられた人々についての聖典の記述は,彼らが生き返って奇跡的に命が延ばされたということを示すにすぎず,彼らはいずれ死を迎えることになります。

キリストは決して再び死ぬことがなく,完全で永遠の体をとこしえに得る復活の初穂となられました。復活した主はマリヤに御姿を現されました。彼女は間もなくそれが主であることに気づき,主を拝し始めました。贖い主は御自分の新しく栄光に満ちた状態について,「わたしにさわってはいけない。わたしは,まだ父のみもとに上っていないのだから」と優しく警告して(ヨハネ20:17 ),霊界での主の働きが実際に行われ,また完了したことを告げる証を付け加えられました。そして,「わたしは,わたしの父またあなたがたの父であって,わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」と述べて(ヨハネ20:17 ),御自分がまさに復活したことを立証されました。主は御父のみもとへ行かれた後,再び戻って使徒たちに現れ,「手とわきとを,彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20 )

贖い主は戻って来られる

キリストは最初においでになったときとは大いに異なる方法で戻って来られることを証します。あらゆる義人と忠実な聖徒たちとともに力と栄光とをもっておいでになります。主は王の王,主の主,平和の君,約束されたメシヤ,救い主,贖い主として来て,生者と死者を裁かれます。わたしは心を尽くして主を愛し,主に仕えます。わたしたちが,喜んで献身的に仕え,最後まで主に忠実でいられますよう,心から願っています。イエス・キリストの御名により,アーメン。