2000–2009
希望という無限の力
2008年10月


希望という無限の力

神と,神の慈しみ,神の力に対して希望を持つなら,難しい状況の中で勇気を得,気持ちを新たにすることができます。

愛する兄弟姉妹,友人の皆さん。今日は何と栄光ある日でしょう。敬愛する預言者が5つの神殿の建設を発表しましたが,わたしたちはその証人となりました。今日は実にすばらしい日です。

第二次世界大戦の終わりごろ,父がドイツ軍に徴兵されて西部戦線に送られたため,母が独りで家族の世話をすることになりました。わたしはまだ3歳でしたが,恐怖と空腹の日々を今でも覚えています。当時チェコスロバキアに住んでいましたが,戦線は日に日に近づき,危険が高まっていました。

第二次世界大戦の終わりごろ,父がドイツ軍に徴兵されて西部戦線に送られたため,母が独りで家族の世話をすることになりました。わたしはまだ3歳でしたが,恐怖と空腹の日々を今でも覚えています。当時チェコスロバキアに住んでいましたが,戦線は日に日に近づき,危険が高まっていました。

第二次世界大戦の終わりごろ,父がドイツ軍に徴兵されて西部戦線に送られたため,母が独りで家族の世話をすることになりました。わたしはまだ3歳でしたが,恐怖と空腹の日々を今でも覚えています。当時チェコスロバキアに住んでいましたが,戦線は日に日に近づき,危険が高まっていました。

不安に押しつぶされそうになりながら,母は心の中で必死に祈りました。広くて暗い駅の構内を懸命に探し,列車がまだ出発していないようにとひたすら望みながら,何本もの線路の間をしきりに行ったり来たりしました。

あの真っ暗な夜,ぞっとするような駅の端から端まで,母がどんな気持ちでいなくなった子供たちを探したかを察するのは,わたしには恐らく不可能です。母は間違いなく恐れでいっぱいだったでしょう。列車が見つからなければ,二度と子供たちには会えないという思いが胸をよぎったに違いありません。それでも,わたしは次のことも確信しています。母の信仰が恐怖に打ち勝ち,希望が絶望を追い払ったということです。母は座り込んで悲嘆に暮れるような女性ではありませんでした。母はできることをしました。信仰と希望を行いで示したのです。

母は線路から線路へと走り回り,列車を一つ一つ調べ,離れた場所に移されていたわたしたちの列車をついに見つけました。そしてようやく子供たちと再会したのです。

あの夜,母がどんな気持ちだったかをよく考えます。時をさかのぼって彼女の隣に座ることができたら,どうすれば恐怖の中で希望を失わずにいることができたかを尋ねるでしょう。信仰や希望について,また母がどのように絶望に打ち勝ったかを尋ねるでしょう。

あの夜,母がどんな気持ちだったかをよく考えます。時をさかのぼって彼女の隣に座ることができたら,どうすれば恐怖の中で希望を失わずにいることができたかを尋ねるでしょう。信仰や希望について,また母がどのように絶望に打ち勝ったかを尋ねるでしょう。

希望の大切さ

希望は三脚いすの脚の一つです。信仰と慈愛とともに,この3つはわたしたちの生活を安定させます。困難や試練に遭遇しても倒れることはありません。聖文には希望の大切さが明確に書かれています。使徒パウロは,聖文が書かれた目的はわたしたちに「望みをいだかせるため」11であると記しています。

希望は生活を幸福で満たす力を持っています。2しかし希望がないと,つまり望みをなかなか持てないでいると,「心を悩ます」3ことがあります。

希望は御み霊たまの賜たま物ものです。4それはキリストの贖いと復活の力を通して,また救い主を信じる信仰により,わたしたちが永遠の命へ引き上げられるという希望です。5このような希望は約束の原則であると同時に,戒めでもあります。6ほかのあらゆる戒めと同じように,責任が伴うのです。わたしたちは希望を生活の一部とし,希望を失わせようとする誘惑に打ち勝たなければなりません。天の御父の憐あわれみに満ちた幸福の計画に対する希望は,平安7,憐れみ8,喜び910を生みます。救いへの希望はわたしたちの守りのかぶとであり11,信仰の土台であり12,心の錨いかりなのです。13

たった独りになったモロナイは,自分の民が完全に滅びるのを目まの当たりにした後でさえも希望の大切さを信じていました。モロナイは,ニーファイの民が滅びる直前にも,希望がなければ神の王国で受け継ぎを得られないと記しています。14

では,なぜ絶望があるのでしょうか

聖文には,「すべての事物には反対のもの」があると書いてあります。15信仰,希望,慈愛についても同じことが言えます。疑いを抱いたり,絶望したり,同はら胞からを助けなかったりすると,貴い最上の祝福に背を向けさせるような誘惑を受けることになるでしょう。

敵対する者は,人の思いや思考を深い暗くら闇に縛りつけるために絶望を使います。絶望は,人に明るさや喜びをもたらすものをすべて奪い,人生を意味のない,むなしいものだと思い込ませます。絶望は向上心をそぎ,病を進め,人を汚し,心を鈍らせます。絶望は,永遠に下り続けるだけの階段と言ってもいいでしょう。

一方,希望は地平線から昇る太陽の光のようです。美しい夜明けとともに暗闇を貫き,高い所からわたしたちを照らしてくれます。希望は,永遠の御父の愛ある守りに信頼を置くように勧め,そのための霊感を与えてくれます。御父は,絶対的なものは存在しないと叫ぶ,混乱と恐れの世の中にあって,永遠の真理を求める人々に道を用意されました。

では希望とは何でしょうか

言語は複雑で,希望という一つの言葉にも,形や強さに幾らか幅があるものです。例えば,幼い子供はおもちゃの電話を望み,若い人は大切な友人が電話をかけてくるよう望んでいるかもしれません。大人は,いっそのこと電話は鳴らない方がいいと望んでいるかもしれません。

今日は,そうしたささいな事柄をはるかに超越する希望,つまりイスラエルの望み16,人類の大いなる希望,すなわちわたしたちの贖い主,イエス・キリストを中心とした希望について話します。

希望は知識ではありません。17希望は,主がわたしたちへの約束を果たしてくださるという,変わることのない信頼です。神の律法と預言者の言葉に従って今行動すれば,望んでいる祝福を将来受けられるという確信です。18 祈りはこたえられると信じて待ち望むことです。希望は,自信,楽観,熱意,粘り強く忍耐するといった特質に表れます。

福音の言葉で言えば,この希望は堅固であり,揺らぐことなく,積極的です。古代の預言者は「確固とした望み」19や「生ける望み」20について語りました。これは,善い行いを通して神をあがめることができるという希望です。希望があれば,喜びや幸福が訪れます。21希望があれば,わたしたちは「忍耐し,……〔わたしたちの〕苦難に耐える」2222

待ち望み(hopefor),希望を持つ(hope in

わたしたちが待ち望む(訳注――英語ではhopefor)ことはたいてい,将来の出来事です。現世という地平線の先を眺め,次の世で何が待っているのかを知ることさえできればと思います。天の御父がわたしたちのために用意された将来以上に,栄えある将来を想像できるでしょうか。イエス・キリストの犠牲のおかげで,わたしたちに恐れる必要はありません。永遠に生き続け,二度と死を味わうことがないからです。23主の無限の贖しょく罪ざいのおかげで,わたしたちは罪から清められ,裁きの法廷で清く聖なる状態で立てるのです。24救い主は救いの源であられます。25

わたしたちはどのような生活を待ち望めるのでしょうか。キリストのみもとに来て,罪を悔い改め,信仰をもって生活する人は永遠に平安の中に住みます。この永遠の賜物の価値について考えてください。愛する人たちに囲まれ,知識を増し,さらに幸せになり,究極の喜びの意味を知るのです。現在の人生の1ページがどんなにわびしく感じられても,イエス・キリストの生涯と犠牲のおかげで,人生という書物が,自分の最大限の期待を超える結末を迎えるということを望み,確信することができます。「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮うかびもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。26

希望を持つ(訳注――英語ではhopein)ことは,日々の生活で助けを与えてくれます。希望を持つなら,それらの事柄は試練,誘惑,悲しみの中でわたしたちを支えてくれるのです。だれでも落胆や困難を経験したことがあります。耐えられないような暗闇もあるでしょう。このようなときこそ,回復された福音の神聖な原則に希望を持てば,再び光の中を歩めるようになるまで,希望を持った事柄はわたしたちを支え,助けてくれるのです。

わたしたちはキリストであるイエスに希望を持っています。神の慈しみに,聖なる御霊の現れに,そして祈りが聞かれ,こたえられるという知識に希望を持っています。神が御自身の御み言こと葉ばのとおりに約束を果たしてこられたので,今も将来も神が約束を守ってくださることを確信をもって望めるのです。苦難の中で神の預言者の勧告に従うなら,物事が「〔わたしたちの〕益となるようにともに働く」27という希望を確固として持つことができます。このような希望を,神と,神の慈しみ,神の力に対して持つなら,難しい状況の中で勇気を得,気持ちを新たにし,迫り来る恐れ,疑い,絶望に対して力を得ることができます。

希望は善い行いに導く

わたしたちは,歩くのを学ぶと同じ方法で,つまり一歩ずつ,希望をはぐくむことを学びます。聖文を研究し,日々天の御父と語るとき,また,知恵の言葉を守り,什じゅう分ぶんの一を完全に納めるなど,神の戒めを守る決意をするときに,わたしたちは希望を得るのです。28「さらに完全に」福音を実践するとき,「聖霊の力によって,……望みにあふれ〔る〕」29能力を伸ばしていくのです。

希望をくじくようなことばかりが起こっていても希望を持つ,という勇気ある決断をすべきときがあるかもしれません。父アブラハムのように,わたしたちは「望み得ないのに,なおも望みつつ信じ」30,あるいは,ある作家が表現したように,「冬のただ中にあって,〔自身〕の内に,燃えるような夏を〔見いだす〕」のです。31

信仰,希望,慈愛は互いを支え合います。どれか一つが強くなると,ほかの二つも強くなります。希望は信仰から生じます。32信仰がなければ希望もないからです。33 同様に,信仰も希望から生じます。信仰は「望んでいる事がらを確信……すること」3434

希望は信仰と慈愛の両方に不可欠です。不従順,落胆,引き延ばしによって信仰が弱くなるとき,希望が信仰を支えてくれます。挫ざ折せつや焦りのせいでなかなか慈愛を持てないとき,希望があれば決意を貫くことができ,報いを期待せずに同胞を助けたいと思うようになります。希望が明るいほど,信仰はより強くなります。希望が強いほど,慈愛はより清らかになるのです。

わたしたちが待ち望むなら信仰が生まれ,希望を持つなら慈愛が生じます。信仰,希望,慈愛35という3つの特質が,回復されたイエス・キリストの真理と光を土台として互いに影響しながら作用するとき,わたしたちは多くの善い行いをするようになります。36

個人的な経験のもたらす希望

一つの希望が成就するたびに確信が増し,さらに大きな希望へとつながります。これまでの人生で,希望の力を肌で感じた経験が少なからずありました。世界大戦の恐怖と絶望に囲まれていた幼少時代,教育の機会を得るための苦労,命をも危うくした青少年時代の健康問題,難民としての経済的困難と落胆に満ちた経験をよく覚えています。母が示してくれた,最悪のときでもできることを行い,不安になって希望的観測に甘んじることなく,信仰と希望を行いで示すという模範は,家族とわたしを支え,直面している状況が将来は祝福となるという確信を与えてくれました。

これらの経験から,イエス・キリストの福音こそ,そして末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であることこそが,信仰を強め,明るい希望を持ち,慈愛を抱くことにつながるのだと知るようになりました。

希望は絶望の中でわたしたちを支えてくれます。希望は,周囲のすべてが暗闇に思えても喜ぶべき理由があるということを教えてくれるのです。

わたしはエレミヤとともに宣言します。「主を頼みとする人はさいわいである。」37

ヨエルとともに証します。「主はその民の望み,イスラエルの人々のとりでである。」38

ニーファイとともに宣言します。「これからもキリストを確固として信じ、完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして,キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は,『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。」39

このような希望を,わたしたちは大切にし,はぐくむべきです。このような成熟した希望は救い主イエス・キリストによって,また主を通じて生じます。なぜなら,「〔救い主〕についてこの望みをいだいている者は皆,〔救い主〕がきよくあられるように,自らをきよくする」40からです。

主は,心安らぐ希望のメッセージを与えてくださいました。「小さい群れよ,恐れてはならない。」41 G神は,罪を捨て,信仰,希望,慈愛をもって進み続ける人々を「両腕を広げて……受け入れようと」42待っていてくださいます。

苦しんでいるすべての人,落胆,心痛,孤独にさいなまれているすべての人に,愛と心からの関心をもって伝えます。決してあきらめないでください。

決して負けないでください。

絶望が,皆さんの霊を決して打ち負かすことのないようにしてください。

イスラエルの望みである主を喜んで受け入れ,頼ってください。神の御子の愛はすべての暗黒を貫き,すべての悲しみを和らげ,すべての心に喜びを与えるからです。

これらのことを証し,皆さんに祝福を残します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。