2000–2009
証 あかし を積み重ねる
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証 あかし を積み重ねる

天使の訪れよりも「静かな細い声」という証拠の方が,わたしたちの証に大きな影響を与えることがあります。

数年前,ブラジルで地域七十人として奉仕していたとき,休暇を使って家族でフロリアノポリスという美しい町を訪れました。日曜日はいつものように最寄りの教会を探し,出席しました。妻と長女とともに参加した日曜学校のクラスでは,福音に対する生徒各自の証について話し合っていました。

レッスンの途中で,教師はクラスの生徒たちに,教会についての証をはぐくんでいる際に得た特別で霊的な経験を紹介するよう言いました。何人かの兄弟や姉妹が自身の経験を話している間,わたしは何か話せることはないかと,改宗者である自分の経験を心の中で振り返ってみました。しかし,証を得る過程で特筆すべきものは何も思いつきませんでした。

いろいろと考えながら,ほかの人たちの経験談に耳を傾けていると,教師の姉妹がわたしの発言を期待しているのが分かりました。彼女はほかの会員たちの話を聞いていましたが,同時にわたしのすばらしい経験談を待っていることをわたしに伝えました。確かにわたしは地域七十人であり,何か感動的なことを語るべきだったのでしょう。時間が過ぎていき,彼女が待っているのを感じながら,力強い出来事と呼べるような経験談を何とか見つけようとしました。しかし,残念ながら何も思いつきませんでした。役に立てればと思いながらも,教師の期待にこたえることはできませんでした。

幸いなことに,その日は断食安息日でした。聖せい餐さん会で,わたしは会員に向けて,特に教師の姉妹と日曜学校のクラスの生徒たちに向けて証をしました。驚くような経験談ではありませんでしたが,回復された福音が真実であることへの心からの証を述べました。

時としてわたしたちは,教会についての証を得るには,偉大で力強い経験,あるいは,あらゆる疑いを一掃するほどの答えや確信を与えてくれる特別な出来事が必要だと考えてしまいます。

ボイド・K・パッカー会長はこう教えました。「聖文には,御み霊たまの声は『大き〔く〕』も『耳障り』でもなく,また,『雷のような声ではなく,大きな騒々しい音でもな〔い〕』と書かれています。むしろそれは『まるでささやきのような,まったく優しい静かな声』であり,『心の底までも貫〔き〕』,『心を燃え上がらせ〔る〕』ものです(3ニーファイ11:3ヒラマン5:30教義と聖約85:6-7)。エリヤが,主の声は風の中にも,地震の中にも,火の中にもなく,『静かな細い声』であると認めたときのことを思い起こしてください(列王上19:12)。」

パッカー会長はさらにこう話しています。「御霊は,叫んだり,大きな手で揺すったりはしません。ささやきかけるのです。そのささやき方は,非常に静かで,ほかのことに気を取られていると,まったく気がつかないかもしれません。……

時には強い訴え方をして,気づかせることもあります。しかし,ほとんどの場合,その静かな気持ちに心を傾けないと御霊は離れ去り,わたしたちが自ら熱心に求め,聞く耳を持ち,自分自身の言葉で,昔のサムエルのように,『しもべは聞きます。〔主よ〕」お話し下さい』と言うまで訪れなくなります(サムエル上3:10)。」(ボイド・K・パッカー「主のともしび」『聖徒の道』1983年10月号,38-40参照)

偉大な出来事を経験しても,証が強まるという保証にはなりません。レーマンとレムエルがその良い例です。彼らは天使の訪れを受けても,その直後に主の御み心こころに疑いを抱いていました。一部の末日の偉大な指導者からも,この原則について学ぶことができます。彼らは回復の初期の時代に天より教えを受けましたが,それでも最後まで堪え忍ぶだけの強さがありませんでした。このような人たちの経験から,天使の訪れよりも「静かな細い声」という証拠の方が,わたしたちの証に大きな影響を与えることがあるということが分かります。

若いころ,わたしはブラジルのポルトアレグレで二人の姉妹宣教師から教会について教わりました。自分の祈りに対する答えを求めていたのを覚えています。特別で疑う余地のない答えを求めていましたが,そのような答えは得られませんでした。しかし,それは回復された教会に加わるのに十分な確信が得られなかったということではありません。

証を養うという過程についてアルマはこう教えています。「しかし見よ,もしあなたがたが目を覚まし,能力を尽くしてわたしの言葉を試し,ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば,たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい(これは求道者のころのわたしに当てはまるでしょう)。わたしの言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで,その望みを育ててゆけ。」(アルマ32:27

そのとき以来,一つ一つは小さいものでも,教会の求道者として,後に宣教師として,さらに父親や指導者としての経験が積み重なり,この種が「良い種である」と疑いなく知るようになったのです(アルマ32:30)。

証を養うという過程を,アルマは引き続きこう教えています。「さて,御み言こと葉ばを一つの種にたとえてみよう。さて,もしあなたがたが心の中に場所を設けて,種をそこに植えるようにするならば,見よ,それがほんとうの種,すなわち良い種であり,またあなたがたが主の御霊に逆らおうとする不信仰によってそれを捨てるようなことがなければ,見よ,その種はあなたがたの心の中でふくらみ始めるであろう。そして,あなたがたは種がふくらみつつあるのを感じると,心の中で次のように思うであろう。『これは良い種,すなわち御言葉は良いものに違いない。これは……わたしの理解力に光を注ぎ,まことに,それはわたしに良い気持ちを与え始めている。』」(アルマ32:28

ある人々にとって,証は,特別であらがう余地のない出来事を通してもたらされることがあります。しかしほかの人にとって,証は,恐らくはそれほど華々しくもない経験の繰り返しによってもたらされるかもしれません。しかしそれらの経験が積み重なると,これまで学び実践してきたことが真実であるという確実な証となるのです。

末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になって何年もたった今,わたしは,自分の証を築いてくれた経験のほとんどを思い出せないかもしれません。それでも,あらゆる経験が,回復された教会に対する自分の証に影響を与え,役立っているのです。今日きょう,わたしにはイエス・キリストの福音に対する絶対的な確信があります。

最後に,わたしはこの証を,あの日曜学校の教師だけではなく皆さんにも伝えます。わたしは天の御父が生きておられることを知っています。御父がわたしたちを愛しておられることを知っています。わたしたちは御父の子供です。御父はわたしたちの祈りを聞いてくださいます。イエス・キリストが救い主であられることを知っています。イエスは亡くなられ,復活され,わたしたちの罪を贖あがなってくださいました。主の贖いは日々,わたしに祝福を与えてくれます。

イエス・キリストの教会が,末日に預言者ジョセフ・スミスを通して回復されたことを証します。ジョセフ・スミスは神の預言者でした。今日わたしたちが,生ける預言者トーマス・S・モンソン大管長によって導かれていることを知っています。モーセ,アブラハム,イザヤがそれぞれの時代において預言者であったように,モンソン大管長が現代における預言者であることを知っています。

モルモン書は聖書と同様に神の御言葉であり,救い主についてのもう一つの証です。わたしは神権の力が回復され,世界中の多くの聖徒たちを祝福していることを知っています。このことをイエス・キリストの聖なる御み名なにより証します。アーメン。