「使徒16-21章」『聖文ヘルプ:新約聖書』
聖文ヘルプ
使徒16-21章
御霊に導かれて,パウロは2回目の伝道の旅に出発し,現在はトルコとギリシヤとして知られている地域を巡りました。大勢の人がイエス・キリストの福音を受け入れました。パウロはピリピ,テサロニケ,ベレヤ,コリントに教会を設立しました。また,アテネのマルスの丘で重要な説教をしました。パウロはエペソで3回目の伝道の旅を始め,そこに約3年間滞在しました。地元の商人や女神アルテミスの崇拝者たちは,パウロの成功に脅威を感じていました。3回目の伝道が終わりに近づいたとき,パウロはエペソの教会指導者たちに,教会に差し迫っている危険と背教について警告しました。
リソース
注:末日聖徒イエス・キリスト教会が発信したものではない情報源が引用されている場合,その情報源や著者が教会によって承認されている,あるいは教会の公式見解を表していることを意味するものではありません。
背景と文脈
パウロの2回目の伝道の旅について,どのようなことが分かっているか
パウロはシラスとともに2回目の伝道の旅に出ました。二人はまずデルベとルステラに行きました。ルステラにいる間,パウロはテモテに,自分とシラスの伝道活動に加わるよう招きました。彼らは短期間,テサロニケで福音を教えました。続けて,アテネでも伝道しました。アテネの後,パウロは少なくとも18か月をコリントで過ごしました。そして,コリントで安息日に会堂で教え,天幕職人として働きました。また,コリントにいる間にテサロニケ人への第一の手紙と第二の手紙を書いたと思われます。パウロがコリントを去った後,シラスとテモテはコリントに残ってその地の人々を教え続けました。パウロはエペソに短期間滞在した後,エルサレムに,その後アンテオケに戻りました。2回目の伝道中,パウロは福音を教え,教会を強め,エルサレム会議で下された決定についての知らせを広めました。この伝道は約3年半続きました(紀元約50-52年)。
なぜパウロはテモテに割礼を受けさせたか
エルサレム会議で下された決定は,異邦人の改宗者は救われるために割礼を受けたりモーセの律法を守ったりする必要はない,というものでした。しかし,多くの教会員はこの決定をよく思っていませんでした。割礼を受けていない宣教師は,神と神の律法に対する敬意に欠けていると思っていたのかもしれません。パウロは,テモテが教会員の中でより効果的に働けるように,伝道に先立ってテモテに割礼を受けさせました。
ルカはパウロの伝道の同僚だったのか
聖文は,ルカが使徒行伝の著者であることを示唆しています。使徒16:10に現れるわたしたちという代名詞は,ルカがこれらの出来事の目撃者であったことを示しているのかもしれません。恐らくルカはトロアスで,パウロとそのほかの宣教師たちに合流したと思われます。
ルデヤとはどのような人物だったのだろうか
ルデヤは,紫色の織物で有名なテアテラの町に住んでいました。最も上質な紫色の染料は,特定の種類の貝から抽出されたものでした。「非常に高価だったため,王族が着る服には紫色の染料が使われていました。」ルデヤは紫色の布の商人で,裕福だったと思われます。自分の家を持ち,召し使いもいました。
ルデヤは,パウロが改宗したヨーロッパ人として知られている最初の人であり,パウロの2回目の伝道中に教会に加わった人の中で最初に名前が記されている人です。後に,信者たちは礼拝や指導のために彼女の家に集まりました。
占いの霊とは何か
ある奴隷の少女は,予言者として未来を予言することで,主人に多くの富を得させていました。この行為は占いとしても知られており,モーセの律法の下では罪に定められていました。少女の中の悪霊が,パウロと同僚たちを神の僕として大声で支持したとき,パウロはその霊に,少女から出て行くように命じました。聖文には,悪霊が救い主について証し,救い主に叱責された別の出来事が記録されています。
パウロはアテネでどのような信条に遭遇したか
古代において,アテネは「世界の知的首都」でした。アテネは,ソクラテス,プラトン,アリストテレスなど,世界で最も偉大な哲学者たちを生み出しました。パウロがアテネに行ったとき,この都市は依然として哲学的な思想と討論会で評判でした。アテネでパウロは少なくとも二つの哲学グループ,エピクロス派とストア派に出会いました。
エピクロス派は神の存在を否定しませんでしたが,神は遠い存在であり,人間の営みには関与していないものと見なしていました。神がわたしたち一人一人をよく御存じで,人の生活にかかわりを持たれる,というパウロのメッセージは,エピクロス派の教えに反していたことでしょう。エピクロス派は唯物論者で,肉体と魂は物質で構成されていると主張しました。彼らの哲学によれば,魂は物質でできているので永続しません。したがって魂は不死不滅ではない,と説いていました。パウロが復活について語ったときに,一部のアテネ人がパウロをあざ笑ったのはこのためかもしれません。
ストア派も唯物論者でした。彼らは,神は活動し,あらゆる自然界に存在し,世界の一部であると信じていました。わたしたちの存在もこの世界の一部であるため,ストア派の人々は,復活に関するパウロの教えを,より受け入れやすかったのかもしれません。一部のアテネ人がパウロに再び耳を傾けようとしたのはこのためかもしれません。
ギリシヤ哲学に傾倒している人々に向けて話すとき,パウロはユダヤ人の聴衆を教えるときに通常行うように,ユダヤ人の歴史や聖文を暗唱したりはしませんでした。アテネ人との共通の土台を確立した後,重要なキリスト教の教義を教えたのです。
なぜアテネ人は,知られない神の祭壇を設けていたのだろうか
アテネ人は,いかなる神をも怒らせることを恐れていました。そのため,自分たちが知らない神を怒らせないように祭壇を築いたと思われます。パウロはこの祭壇を使ってイエス・キリストについて教え,イエスが彼らの知らない神であられると証しました。
わたしたちが「神の子孫」であるとはどういう意味か
パウロがギリシヤの詩人から引用した言葉には,「子孫」と訳されるギリシヤ語のgenosが使われています。この言葉は「種」または「家族」という意味です。家族の宣言では次のように教えています。「すべての人は,男性も女性も,神の形に創造されています。人は皆,天の両親から愛されている霊の息子,娘です。したがって,人は皆,神の属性と神聖な行く末とを受け継いでいます。」1909年,大管長会は次のような教義を声明として発表しました。「男と女はすべて,天の御父と御母にかたどられており,文字どおり神の息子,娘なのです。」
パウロが上着を振り払ったことにはどのような意味があったのか
コリントの会堂にいたユダヤ人たちがパウロの教えを拒んだとき,パウロは自分の上着を振り払い,「あなたがたの血は,あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない」と宣言しました。パウロは上着を振り払うことにより,自分が教えた人々の罪に対して責任を負わないことを示したのです。この慣習は,モルモン書でも言及されています。詳しくは,マタイ10:14,『足のちりを払い落しなさい』とは,どのような意味だったのだろうか」を参照してください。
パウロの3回目の伝道の旅について,どのようなことが分かっているか
パウロの3回目の伝道の旅は,期間と距離において最も長い伝道でした。パウロは,最初の2回の伝道の旅で設立した様々な集会所を訪れ,その後,エペソで約3年間を過ごしました。エペソは大都市で,重要な商業と文化の中心地であり,パウロが自分の宗教的なメッセージを「あまねく広める」のに理想的な環境でした。この伝道の間,パウロはコリント人への第一の手紙と第二の手紙,そしてローマ人への手紙に記録されている書簡をしたためました。ガラテヤ人への手紙もこの時期に書かれた可能性があります。
エペソ人のアルテミスとはだれのことだったのか
トルコ,イスタンブールのミニアチュルク公園にあるアルテミス神殿の模型
エペソ人は女神アルテミスを崇拝することを非常に重要視していました。アルテミスはローマの女神であり,ギリシヤ人にも知られていました。エペソの城壁の外に,アルテミスの名前を冠した神殿が建てられました。この神殿は,古代世界の七不思議の一つと見なされています。
神殿でアルテミスを礼拝するために,巡礼者たちがローマ帝国の方々からやって来ました。地元の商人たちは,食べ物や宿,ささげ物,土産物を売って生計を立てました。パウロが人々を救い主の教会に導くことに非常に成功したため,アルテミス神殿への訪問者に依存していた商人たちの収入に影響が及びました。女神アルテミスの像を作って売っていた銀細工師は,パウロとそのメッセージに対して公の場で暴動を引き起こしました。パウロはこの群衆に対処したいと思いましたが,パウロの安全を危惧した教会員と政府当局によって断念させられました。
パウロとほかの弟子たちが週の初めの日に聖餐を受けたのはなぜか
「マタイ28:1。救い主の復活は,安息日を守ることにどのような影響を与えただろうか」を参照してください。
エペソ人に対するパウロの警告は,どのようなことを意味していたのか
「狂暴なおおかみ」が彼らの中に入って来るという,教会の指導者に対するパウロの預言は,物理的な脅威ではなく,霊的な脅威について述べています。「パウロは,悪の力が教会の中に入り込み,聖徒を支配する力を得ることについて述べています。」パウロの預言は,2テサロニケ2:3にある「背教」についてのパウロの警告と似ています。
モーセの律法の儀式はもはや必要でなくなったのに,なぜパウロは儀式に参加したのだろうか
エルサレム会議の決定は,キリスト教徒に対してモーセの律法を明確に廃止するものではありませんでした。その布告には,教会に改宗した異邦人は救いを受けるために割礼を受ける必要はない,と述べられていましたが,ユダヤ人の会員が割礼をどう扱うべきかについては触れられていませんでした。この曖昧さのゆえに,「律法に熱心な」ユダヤ人キリスト教徒たちは,律法を守り続けました。
これらのユダヤ人キリスト教徒をなだめるために,ヤコブたちは神殿に入る前に,公に行われる儀式に参加するようパウロに助言したのです。パウロが神殿の儀式に参加したとき,アジヤから来たユダヤ人(ユダヤ人キリスト教徒ではない)が神殿でパウロと対峙し,パウロに対する暴動を引き起こしました。
ローマ人の船長がパウロと間違えたエジプト人はだれだったのか
パウロが捕らえられる約3年前,エジプトのあるユダヤ人が,自分は預言者であると主張し,荒れ野で多くの信者を集めていました。この男は従う者たちをオリブ山に連れて行き,エルサレムの城壁が崩れ,ローマ帝国が滅ぼされると約束しました。ローマの総督ペリクスは,自分の軍隊に,この男に従う者たちを打ち負かすよう命じました。しかし,このエジプトの指導者を捕らえることはできず,彼は逃亡したままになりました。
さらに学ぶ
神の子孫
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「トピックと質問」「神の子供」の項,「福音ライブラリー」
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Tad R. Callister, “Our Identity and Our Destiny” (Brigham Young University devotional, Aug. 14, 2012), speeches.byu.edu
メディア
ビデオ
「われわれは神の子孫なのである」(4:30)
画像
She Worketh Willingly with Her Hands(「手ずから望みのように仕上げる」),by Elspeth Young
イラスト/ダン・バー