「ローマ1-6章」『聖文ヘルプ:新約聖書』
聖文ヘルプ
ローマ1-6章
使徒パウロは,ローマの聖徒たちにあてた書簡の中で,すべての人が救われるためにはイエス・キリストの贖罪が必要であることを強調しました。責任能力のあるすべての人々は罪を犯し,神の前に罪があります。モーセの律法を守ったとしても,だれも義とされることはありません。イエス・キリストを信じる信仰と主の贖罪への信頼によってのみ,わたしたちは義とされます。例えば,アブラハムはモーセの律法の行いによってではなく,その強い信仰によって義とされました。イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるすべての人々に祝福がもたらされます。イエス・キリストの贖罪という無償の賜物は,神の恵みの現れです。救い主の恵みは罪を容認するのではなく,わたしたちが罪を克服するのを助けてくれます。バプテスマを通して福音の聖約に入ることは,わたしたちの罪の死と,キリストにおける新しい命の始まりを象徴しています。
リソース
注:末日聖徒イエス・キリスト教会が発信したものではない情報源が引用されている場合,その情報源や著者が教会によって承認されている,あるいは教会の公式見解を表していることを意味するものではありません。
背景と文脈
ローマ人への手紙の対象読者とその理由
ローマ人への手紙は,ローマの教会の会員に対して書かれました。ローマにおけるキリスト教の起源についてはあまり知られていません。パウロはこの手紙を,3回目の伝道の旅の終わり近く,紀元57年ごろに書きました。パウロはまだローマの聖徒たちのもとを訪れていませんでした。
パウロがこの手紙を送ったおもな理由は,少なくとも3つあるように見受けられます。
将来自分がローマに到着するときのための準備をする。パウロは何年もの間,ローマで福音を宣べ伝えたいと思っていました。またパウロは,ローマの教会が彼に援助を提供し,スペインに伝道に行くための拠点としての役割を果たしてくれることも望んでいました。
自分の教えを明確にし,擁護する。パウロは,モーセの律法とキリストを信じる信仰に関する教えを誤解したり,ゆがめたりする人々からの反対に繰り返し直面しました。パウロはそのような懸念に対処するために,到着する前に手紙を書きました。
教会のユダヤ人会員と異邦人会員との間の一致を促す。ユダヤ人は,紀元49年ごろ,クラウデオ帝によってローマから追放されていました。ユダヤ人は,紀元54年のクラウデオ帝の死後,ローマに戻ったと考えられています。ユダヤ人のキリスト教徒は,ローマの異邦人が大半を占めるキリスト教の会衆に戻ったと思われます。そのわずか数年後に手紙を書きながら,パウロは異邦人とユダヤ人の両方の改宗者に,主の教会に属していると感じてほしいと思いました。パウロは,福音の教義がどのようにすべての聖徒に当てはまるかを教えることによって,教会の一致を促しました。
なぜパウロはユダヤ人とギリシヤ人について言及したのか
ユダヤ人は,神の聖約の民,すなわちイスラエルの家の生き残った者たちでした。パウロは,イスラエルの家に生まれなかった人を指すために「ギリシヤ人」と「異邦人」という両方の言葉を使いました。この節のパウロの教えは,イエス・キリストの福音がまずユダヤ人にもたらされ,その後異邦人に伝わるという考えを暗示しています。地上での務めの間,救い主はおもにイスラエルの家の人々に福音を宣べ伝えることに焦点を当てられました。復活後,イエス・キリストは使徒たちに,ユダヤ人と異邦人の両方を含むすべての国民に福音のメッセージを伝えるように指示されました。
ローマ人への手紙のテーマは何か
パウロは,「ローマにいるあなたがたに福音を宣べ伝える用意ができている」と宣言しました。その後,多くの人がローマ人への手紙のテーマと呼んでいるものを紹介してきました。それは,イエス・キリストの福音は,イエス・キリストを信じる信仰によって生きるすべての人に救いをもたらすということです。この手紙の残りの内容のほとんどは,16-17節にある重要な言葉と考えに関するものです:
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福音。パウロは福音のメッセージを宣べ伝えました。「『福音』という言葉は『良い知らせ』を意味します。」良い知らせとは,「イエス・キリストの贖罪によって可能になった神の救いの計画」です。
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信じることと信仰。「believeth(信じる)」(16節)と「faith(信仰)」(17節)は,ギリシヤ語の動詞pisteuōとそれに関連する名詞pistisの訳です。これらの用語は,「信仰」と「忠実さ」の両方の意味を持ち得ます。パウロにとって,イエス・キリストを信じる信仰とは,単なる精神的な同意ではありませんでした。それは「個人の決意と行動をもたらす深いレベルの信仰」を暗示していました。この深い信頼は,罪を悔い改め,バプテスマを受け,イエス・キリストが教えられたとおりに生きることによって示される,忠実な生活につながります。
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義と義認。「義」と訳されたギリシヤ語はdikaiosunēです。これは,「正当」と「義とされる」と翻訳された単語の語根であるdikaioōと密接に関連しています。この語根は,「〔法廷において〕義人であると宣言されたり,判断されたりする」ことを指しています。人は救い主を信じる信仰を通して,救い主の恵みにより義とされます。
ローマ1:18-32
「神の怒り」とはどのようなものか
聖文は,神が御自分のすべての子供たちを愛しておられることをはっきりと教えています。神の怒りとは人類に対する敵意というよりも,むしろ罪への拒絶です。神は完全に義にかなっておられるので,いかなる罪も容認することがおできになりません。パウロは,神の怒りは「真理を愛さず,不義にとどまる」者に向けられると言いました。次にパウロは,不義の行いや態度を挙げ,悔い改めなければ個人に神の裁きを招くと伝えました。
パウロはだれに呼びかけているのか
これらの節は,古代の文章や会話のスタイルであり,著者が理論上(現実ではない)の対立者を想定して議論する痛烈な非難の例です。このスタイルでは,著者は主張を行い,だれかが持つ可能性のある反論を述べ,その反論に応答します。
「神は人をかたよりみないかた」とは,どういう意味か
「義とされる」とはどういう意味か
「義とされた」(dikaioō)と訳されたギリシヤ語は,「義と宣言された」という意味です。D・トッド・クリストファーソン長老は次のように教えています。「『偉大な贖いの犠牲が無限の力を有すること』により,イエス・キリストはわたしたちに代わって『律法の目的を達する』あるいは満たすことがおできになります。……主は,律法を排除することなく,わたしたちに対する罪の宣告を取り除いてくださり,わたしたちは赦され,主とともに義なる状態に置かれます。主のように,罪のない状態になるのです。わたしたちは律法により,正義により,支えられ守られています。つまり,わたしたちは 義と認められるのです。」
パウロが「律法によって罪の自覚が生じる」と言ったのは,どういう意味か
パウロはローマ3章で,すべての人が罪人であることを明らかにしました。ある聖書学者は言っています。「律法の主要な機能の一つは……あらゆる道徳的要求に完全に従って完全に生きる能力が人間にないことを実証することでした。ローマ3:20の翻訳の一つは,次のようなものでした。『実際,律法の厳格な基準こそが,わたしたちがいかに曲がった存在であるかを示している。』(フィリップス訳)モーセの律法が与えられたのは,『犯罪を明示するため』(エルサレム聖書)つまり,善悪を確立するためだけでなく,人間の限界を線引きし,神の助けの必要性を指摘するためでもありました。」自分には至らない点があると気づくことで,イエス・キリストを通して贖いを求めるよう自らを鼓舞することができます。
恵みとは何か
「恵みは,イエス・キリストの救いの業を説明するためにパウロが用いたもう一つの言葉です。恵みという言葉は,もともと宗教用語ではありませんでした。パウロの時代,後援者とクライアントの関係を説明するために恵み(ギリシヤ語ではcharis)という言葉が一般的に使われていました。後援者は,クライアントが自分で稼ぐことも,返済することもできない贈り物を与える力や権力,金銭的手段を持っていました。」
当時大管長会の一員であったディーター・F・ウークトドルフ管長は次のように教えています。「救い主の犠牲は,すべての人に救いの扉を開き,神に立ち返ることを可能にしました。……主の恵みは人に能力を与える力であり,神の王国で救いを得るための道を開きます。……
しかし,救い主の恵みによりもっと多くのことが可能になります。末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるわたしたちは,想像をはるかに超えたことを熱望しています。それは,日の栄えの王国で昇栄することで……す。……
今いる場所から御父のみもとという栄えある目的地までの旅路の間,主の恵みによってわたしたちが高められ,導かれますように。」
贖いとは何か
贖うとは,「代価を払って人を束縛の境遇から自由にするよう,人を解放したり,買い取ったり,人のために賠償したりすること」です。D・トッド・クリストファーソン長老は,贖い主としての救い主の役割について次のように教えています。「イエス・キリストがどのような御方かを説明する最も重要な称号は贖い主です。……贖うという言葉には,債務や負債を支払うという意味があります。また,贖いは例えば,身の代金を払うことにより救済し自由にするという意味もあります。間違いをした人が,それを修正するか,埋め合わせるならば,その人は自らを贖ったと言えます。このような意味はそれぞれ,イエス・キリストが贖罪を通して成し遂げられた偉大な贖いの異なる側面を表しています。……
救い主の贖いには二つの部分があります。第1は,アダムの背きとその結果として起きた,人類の堕落を贖うことです。その方法は堕落の直接的な結果である肉体の死と霊の死を克服することです。……
救い主の贖いの第2の部分は,堕落の間接的な結果,すなわち,アダムの背きによる罪ではなく,わたしたち自身の罪からの贖いです。」
わたしたちはイエス・キリストを通してどのように義とされるのか
ローマ3:9-10,23で,パウロは法廷用語を使って,わたしたちが自らの罪のためにどのように死刑を宣告されるかを説明しました。パウロは,わたしたちは救い主の恵みによってこの宣告から贖われると教えました。25節で,パウロはギリシヤ語のhilasterionを使って,イエス・キリストがどのようにわたしたちの罪の代価を払ってくださったかを説明しました。Hilasterionはしばしば「贖罪の犠牲」と訳されます。欽定訳聖書では,hilasterionは「あがないの供え物」と訳されています。イエス・キリストを信じる信仰を持つとき,わたしたちは主の贖いの犠牲を通して主によって「義とされ」ます。言い換えれば,主の恵みによって,わたしたちは「無罪の判決を言い渡される」のです。
行いはわたしたちを救うことができるか
パウロがローマ人への手紙を書いた目的の一つは,ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の間で,救いに何が必要かについての意見の相違に対処することでした。パウロは,救いがモーセの律法の行いによってもたらされるという教えを拒絶しました。パウロは,人が義の業を行う必要がないと言ったのではありません。むしろ,人は救われるために自分の義にかなった行いに頼ることはできないことを強調していたのです。当時大管長会の一員であったディーター・F・ウークトドルフ管長は,次のように教えています。「救いは,従順という貨幣で買うことはできません。神の御子の血によって贖い取っていただくものなのです。自分の善い行いで救いを手に入れることができると考えるのは,航空券を買って航空会社のオーナーになったと思うようなものです。または,家賃を払って地球全体の所有権を得たと思うようなものです。」
ローマ3-5章では,恵みと信仰が強調されており,善い行いの価値についてのみ言及されています。「バプテスマと義にかなった行いの必要性」については,ローマ人への手紙の後半で述べられています。
なぜパウロは,信仰によって義とされる人の例としてアブラハムを用いたか
(ガラテヤ3:6-29と比較。)
アブラハムは,モーセの律法が与えられる何世紀も前に生きていた人で,モーセの律法ではなく,イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた人の理想的な例でした。パウロは,創世記から引用して「アブラハムは神を信じた〔神を信じる信仰を持っていた〕。それによって,彼は義と認められた〔義認された〕」と指摘しました。アブラハムは割礼を受ける前にこの約束を受けました。モーセの律法によると,割礼はイスラエル人の男性が「聖約に伴う責任をも受け入れ」る儀式でした。パウロは人がモーセの律法に対する従順によって義とされるのではなく,神の約束に対する信仰によって義とされることを聖文から示すことができました。
贖罪と和解とはそれぞれどういう意味か
ギリシヤ語のkatallagēは,欽定訳聖書では「贖罪」と訳されています。ほかの訳では,しばしば「和解」と訳されます。「Katallagēとその関連動詞……は新約聖書で12回使われており,すべての聖句は和解に関するものです。モルモン書の中で,ヤコブは贖罪と和解を結びつけて,わたしたちに『キリストの贖罪を通じて……和解』するよう教えています。(モルモン書ヤコブ4:11)パウロはヘブル人に,キリストが『もろもろの民の罪をあがなわれる』と書き送っています(ヘブル2:17)。言葉によって,あるいはプロセスによって結びつけられているかどうかにかかわらず,和解を贖罪から切り離すことができないことは明らかです。明らかに,和解についての理解が深まれば,贖罪についての理解も深まります。
和解という言葉はラテン語のreconciliareに由来し,『再び集まる,再び一つになる,和解する』という意味があります。」
なぜパウロは奴隷について言及したのか
パウロは時々,ギリシヤ語の「奴隷」という言葉を使いました。奴隷の状態の比喩は,罪に支配されるのを許すという選択がもたらす霊的な結果について教えています。奴隷制度はローマ帝国の一般的な制度であったため,パウロの読者は,僕が主人に自身をささげるように,神に自身をささげる,および罪の奴隷になるといった比喩に,すぐさま自分を重ね合わせたことでしょう。
さらに学ぶ
イエス・キリストによる贖罪
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D・トッド・クリストファーソン「贖い」『リアホナ』2013年5月号,109-112
恵みと行いの関係
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神から指示を受けるアブラハム
「ゲツセマネのキリスト」ハリー・アンダーソン画
バプテスマの儀式を受ける