「旧約聖書と新約聖書の間」聖文ヘルプ:新約聖書
旧約聖書と新約聖書の間
マラキ書は旧約聖書の最後の書です。マラキの預言は紀元前430年ごろのものとされています。 マラキの後,新約聖書まで,預言者の言葉として認められているものは聖書の記録にはありません。旧約聖書と新約聖書の間の期間は,中間時代として知られています。「預言者がいないまま,その地の人々は党派やグループに分かれ,それぞれが聖文を解釈し民を指導する権利は自分たちにあると主張し始めました。エホバについての正しい理解がこれらのグループの中に見られなくなりました。長い混乱の夜が続きましたが,神が新たな神権時代を開始するために新たな預言者であるバプテスマのヨハネを遣わされたことで,その夜が終わりました。」
旧約聖書と新約聖書の間の時代について理解すると,救い主の現世での教導の業の背景がさらによく理解できるようになります。
律法学者はどのようにして影響力と権力を持つようになったのか
紀元前597年,そして紀元前587年に再度,バビロニア軍はエルサレムを攻撃し,ユダヤ人の支配層の人々を捕囚としてバビロンに連れて行きました。聖職者や王族,工芸家,職人,そして屈強な兵士たちを捕囚したのです。農民や田舎の村や町の人々は捕囚されませんでした。
捕囚された人たちは,バビロニアの文化の影響を受けながらも,自分たちの宗教と文化の独自性を守ろうと努力しました。バビロニア暦を採用し,日常会話ではヘブライ語ではなくアラム語を使うようになりました。ユダヤ教の会堂での礼拝が広まるにつれ,捕囚された人たちは地元の集会所に集まるようになりました。
紀元前538年ごろ,ペルシャのクロス王がバビロンを征服しました。クロス王は,捕囚されたユダヤ人たちが祖国に戻って神殿を再建することを許可しました。 それでも,多くの人がバビロンにとどまることを選びました。クロスの布告からほぼ1世紀後,律法学者であり,祭司でもあるエズラという名の者が,捕囚の一団とともにエルサレムに向かいました。ネヘミヤと同様,エズラはモーセの律法に厳密に従うよう民に教えました。 エズラは,自由に聖典を読むことを重視する新しい時代の到来に貢献しました。
「律法学者として召されるエズラ」ロバート・T・バレット画
エズラを手本として,有力な律法の教師となる新しい律法学者たちが現れました。律法学者とは,記録を保存する者,聖文を書き写す者として生計を立てていた教養のある人たちのことです。律法学者たちは宗教的な文書を熱心に研究し,その意味を理解し,筆記の誤りを見つけました。また,次々に建てられてゆく会堂に聖典を提供しました。律法学者たちはモーセの律法を解釈する専門家になりました。
律法学者たちが権力を握った重要な要因は,人々の第一言語がヘブライ語からアラム語に代わったことでした。この二つは同族の言語ではありながらもかなり異なっていたため,アラム語しか話せないユダヤ人は,ヘブライ語の聖文を理解するのに苦労していました。そのため人々は,聖文を読み,解釈し,説明してもらうために律法学者に頼らなければならなかったのです。
時がたつにつれて,様々な党派が聖文を異なるように解釈するようになったことは,驚くには当たりません。導き手となる預言者がいなくなると,ユダヤ人社会の分裂はさらに進み,争いは激しくなりました。モーセの律法の真の目的は失われ,来るべきメシヤについての正しい理解も失われました。
ギリシャ文化はユダヤ人にどのような影響を与えたか
紀元前4世紀までに,ギリシャは新たな世界的大国として台頭しました。アレクサンドロス大王が,軍隊を率いてペルシャ帝国を打ち負かしたかと思うと,あっという間に中東全土を席巻して,ユダヤも含め,行く先々であらゆる国を征服しました。
アレクサンドロスの後には,商人,職人,労働者を含むギリシャ人の入植者がやって来ました。アレクサンドロスは,ギリシャの文化と言語を広めることによって帝国の統一を図りました。 ギリシアの図書館,体育館,哲学と修辞学の学校,劇場,町議会が帝国中の都市に次々に誕生しました。このギリシャ文化の拡大は,ヘレニズムと呼ばれることがあります。
ユダヤ人の中には進んでギリシャ人の生活様式を取り入れる者もいれば,ユダヤ人の独自性を弱めることになると考えて,そのように行うことを躊躇する者もいました。 この間,多くのユダヤ人がほかのギリシャ都市に住むためにユダヤを去り,ユダヤ民族の離散が進みました。地中海世界の至る所にあったユダヤ人の共同体と会堂は,後にキリスト教の普及を促進することになります。
ヘレニズムの拡大とともに,ヘブライ語の聖文が新たにギリシャ語に翻訳されるようになりました。現存する最古のギリシャ語訳は,エジプトのアレキサンドリアで書かれた七十人訳聖書です。この翻訳は,初期のキリスト教徒がパレスチナ以外で福音を広めるために最も用いられた聖典になりました。
マカベア戦争はどのようにユダヤ人に影響を与えたか
アレクサンドロス大王の死後,その帝国は将軍たちに分割されました。将軍の一人であったセレウコスは,自分自身の帝国を打ち立て,やがて,セレウコス朝の支配者がパレスチナを支配するようになりました。紀元前167年,これらの支配者の一人が,ギリシャの文化と宗教をユダヤ人に押し付けようとして,エルサレムの神殿を略奪し,豚を神殿の祭壇にささげました。豚は,モーセの律法では清くないと見なされていた動物です。ユダヤ人の安息日を守ることや,ユダヤ人の祝い事,割礼は禁じられました。
これらの措置や制限にユダヤ人は激怒し,マタティアという名の祭司とその5人の息子が反乱を起こしました。最終的には,息子のユダがこの謀反の首謀者になりました。ユダは「マカベウス」と呼ばれるようになりました。「打つ者」という意味です。
マカベア軍はエルサレムを奪還し,神殿を再奉献しました。奉献の饗宴(ハヌカ)は,この重要な出来事を記念するものです。マカベアの指導者たちは,400年以上の時を経て初めて,独立したユダヤ人国家の設立に最終的に成功したのです。マタティアの息子,シモンが大祭司とユダヤの総督の両方を兼務し,これによってハスモン王朝が確立されました。
パリサイ人とはどのような人たちだったのか
紀元前2世紀に,ユダヤ人の有力な集団が二つ現れました。パリサイ人とサドカイ人です。
パリサイ人は敬虔なユダヤ教徒の一団で,この名称には「分離主義者」という意味があるらしく, この名称からすると,パリサイ人たちはハスモン王朝の支配に反対していた可能性があります。また,不純な異邦人たちと自分たちを区別しようとする努力を表す名称であるとも言えます。ギリシヤの影響に対抗するため,パリサイ人はモーセの律法に厳密に従おうと決意していました。パリサイ人たちは儀式を純粋に保とうと躍起になるあまり,自分たちの定めた規則や伝統に従わない者を罪に定めるようになりました。 概して,イエス・キリストの反対派をおもに構成していたのがパリサイ人でした。
モーセの成文律法に加えて,パリサイ人は口伝律法,すなわち言い伝えを支持していました。口伝律法は,モーセの律法を適用する方法を定めていて,神の律法に従って生活する方法に関する規則や議論が含まれていました。パリサイ人の主張によると,これらの規則と教えはモーセからヨシュアに口伝され,ヨシュアはそれをイスラエルの長老たちに伝え,その後,長老たちは預言者たちに伝えたということです。パリサイ人は,この口頭伝承には成文化された聖典と同等の権威があると信じていました。 この教えによると,宗教はともすると,従うべき一連の規則にしか過ぎなくなってしまいます。 パリサイ人は,口伝律法や「昔の人の言〔い〕伝え」に関して,時々イエスと衝突しました。
サドカイ人とはどのような人たちだったのか
パリサイ人がおもに庶民であったのに対し,サドカイ人は上流階級の貴族でした。彼らは一般的に,ギリシャ文化を受け入れている裕福な階級を代表していました。この宗派を成していたのは,ほとんどが神殿で奉仕する祭司でした。
その起源は定かではありません。サドカイという言葉を「義にかなっている」という意味の言葉に由来すると考える研究者もいます。したがって,この名称は「義人」を意味する可能性があります。また,サドカイという名称は,ダビデ王とソロモン王の時代の大祭司の名前,ザドクに由来すると考える人もいます。 サドカイ人は,神殿への影響力と支配権を主張するために,ザドクの一族と結びついたのかもしれません。
サドカイ人は,トーラー(旧約聖書の最初の五書)に書かれている成文化された律法のみを信じていました。天使や霊の存在,復活や死後の生活を信じることを拒絶していました。彼らは,神殿の儀式と犠牲が神との関係を維持するために不可欠であることを強調しました。 彼らは,イエスによる宮清めを彼らの権力に対する挑戦であると見なし,イエスに反対しました。
ローマ帝国の支配とヘロデ大王はユダヤの地のユダヤ人にどのような影響を与えたか
ユダヤ人の独立は長くは続きませんでした。ユダヤの地で権力争いをするユダヤ人支配者の間で内戦が勃発すると,ローマが介入しました。紀元前63年,ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムに侵攻し,ユダヤは再び征服地になったのです。 ローマは最終的にヘロデ大王をユダヤ全土の統治者に任命しました。
厄介なことで知られていた地方の秩序をヘロデが守っていたため,ローマはヘロデの統治を歓迎していたのです。ヘロデは有能な統治者であり,ユダヤの国境を拡張し,防備を固めました。ヘロデの力添えと影響力のおかげで,ユダヤ人はローマ帝国の全土で礼拝の自由を保証されました。ヘロデはまた,エルサレムの神殿を改築して拡張しました。そのため,その神殿は,ヘロデの神殿として知られるようになりました。
ヘロデは残忍なことでも知られていました。妻の弟でもあった大祭司を溺死させて新しい大祭司を任命しましたし,自分の王位の転覆を企てている者がいるという報告があれば,強引に暴力でねじ伏せました。猜疑心から妻マリアムネを死刑に処し,その後,二人の息子も処刑しました。 メシヤ降誕の知らせに驚異を感じて,ベツレヘムにいる2歳以下の子供を皆殺しにするよう命じました。
紀元前4年にヘロデが死ぬと,その王国は3人の息子たちに分割されました。そのうちの一人,ヘロデ・アンティパスがガリラヤを治めました。この人物が,イエス・キリストが教え導かれていた期間に,一番よく登場したヘロデです。
ユダヤの政情が不安定だったため,ローマ皇帝はユダヤの統治者だったヘロデの息子アケラオを廃し, 紀元6年から,ローマは属州であるユダヤに総督を任命するようになりました。紀元26年には,ポンテオ・ピラトが総督に任命されました。
ヘロデ党と熱心党とはどのような者たちか
あるユダヤ人の一団はヘロデ・アンティパスの統治を支持し,彼を支持するよう人々に強く勧めました。そのため,彼らはヘロデ党と呼ばれました。彼らはしばしばパリサイ人と手を組んでイエスに敵対しました。イエスを,自分たちの政治的目的への脅威と見なしたからです。
ヘロデ党に反対して立ち上がったのが熱心党です。彼らはローマの支配に反対し,ユダヤ人の独立を望んでいました。熱心党の中には,ローマを打倒するには暴力も辞さないと論じる者もいました。イエスの死後,ローマに対する反乱を先導したのはおもに熱心党であり,その結果として紀元70年にエルサレムは陥落しました。
さらに学ぶ
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S・ケント・ブラウン,リチャード・ナイツェル・ホルツアップフェル「失われた500年—マラキからバプテスマのヨハネまで」『リアホナ』2014年12月号,30-34