2010–2019
人々の傷を癒す
2013年10月


人々の傷を癒す

この世の旅路を歩むわたしたちに主がお与えになる神権の務めがどのようなものであれ,それを行うために自らを備えられるようお祈りします。

わたしたちは皆,ほかの人を世話する責任という祝福を受けています。神の神権を持つとは,神の子供たちの永遠の命に対して神から責任を受けているということです。それは現実にあるすばらしいものですが,時には重荷に感じられることもあります。

今晩,皆さんの中には,わたしの言わんとすることが分かる長老定員会会長がいるでしょう。会長の一人に起きたことをお話ししましょう。恐らく,多くの会長が一度ならず経験したことがあるでしょう。細かい点は異なるかもしれませんが,状況は同じです。

ある会長があまりよく知らない長老から助けを求められました。本日中に,これまで住んでいたアパートから近くの別のアパートへ妻と幼い息子を連れて引っ越さなくてはならなくなったのです。

その夫婦はすでに,家財道具や身の回りの品を運ぶために,友人にトラックを貸してくれるように頼んでありました。友人はトラックを使わせてくれました。若い父親は家財道具をすべてトラックに積み込み始めましたが,数分もたたないうちに,腰を痛めてしまいました。トラックを貸してくれた友人は,忙しくて助けに来ることができませんでした。若い父親は絶望的な気持ちになりました。すると,皆さんのような長老定員会会長のことが頭に思い浮かびました。

助けの要請があったときは,もう昼を過ぎていました。夕方には教会の集会がある日でした。会長はその日,家の用事を手伝うと妻に約束していました。子供たちから一緒にやろうと頼まれていたこともありました。今までなかなか時間が取れなかったのです。

定員会の会員たち,特にいつも助けを頼む最も忠実な会員たちは,同じときに難しい状況にあるかもしれないことも,会長は知っていました。

主はこの職に皆さんを召したとき,そのような困難な問題に出遭うことを御存じでした。そこで,皆さんを励ますために,ある話をしてくださったのです。それはあまりにも忙しい神権者のためのたとえです。良いサマリヤ人の話と呼ばれることもあります。しかし,それはまさに,この末日の忙しい困難な時代に生きる立派な神権者のための話です。

その話は重すぎる荷を背負う神権者にぴったりの話です。皆さんはサマリヤ人であり,傷ついた人のそばを通り過ぎた祭司やレビ人ではないことを忘れないでください。

皆さんがそうした困難な問題に直面したときには,その話について考えなかったかもしれません。しかし,そのような日が再び来るときには考えるように願っています。そのような日は必ずまたやって来ます。

聖文には,サマリヤ人がエルサレムからエリコへ向かっていた理由について書かれていません。独りで歩いていたとは思えません。無用心な旅人を強盗がねらっているのを知っていたはずだからです。大事な用があったのでしょう。慣例に漏れず,家畜にオリブ油やぶどう酒などが入った荷を積ませていたことでしょう。

主の言葉によると,サマリヤ人は傷ついた人を見ると足を止めました。「気の毒に思〔った〕」からです。

ただ気の毒に思うだけでなく,行動しました。この話の詳細をいつも心に留めてください。

「近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり,自分の家畜に乗せ,宿屋に連れて行って介抱した。

翌日,デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し,『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら,帰りがけに,わたしが支払います』と言った。」1

皆さん,そして皆さんが導くよう召されている神権者たちは,少なくとも3つの確約を受けることができます。第1に,もし皆さんが求めるなら,困っている人に対して主が感じておられる哀れみの気持ちを,主は皆さんにもお与えになります。第2に,皆さんが奉仕するときに,宿屋の主人のような助け手を主は与えてくださいます。第3に,主は,良いサマリヤ人のように,困っている人を助けるすべての人に,あふれんばかりの報いを与えてくださいます。

定員会会長の皆さんは一度ならず,このような確約に基づいて行動したことがあるでしょう。主の神権を持つ人たちに助けを要請したとき,哀れみの気持ちで応じてくれると確信していたでしょう。これまで最も頻繁に応じてくれた人たちに,ためらわず依頼したでしょう。なぜなら,彼らが哀れみの気持ちを感じやすい人たちであり,主の寛容さを感じて,これまで人助けをしてきた人たちだと知っていたからです。また,すでに多くの重荷を背負っている人にも頼んだことでしょう。犠牲が大きければ大きいほど,主から受ける報いも大きくなることを知っていたからです。これまで助け手となった人々は,救い主のあふれんばかりの感謝の気持ちを感じたことがあるでしょう。

あのトラックの荷の上げ下ろしの手伝いについて,ある人には頼むのを控えた方がよいという気持ちになったとしたら,それはそれでもっともなことです。あなたは指導者として定員会の会員やその家族をよく知っています。また,主は,すべて御存じです。

次のような人がだれか,主は御存じです。夫が妻の必要を満たすために必要なことを行う時間を見つけられないために,妻ががまんの限界に達しつつある夫婦。父親がもう一度,人助けに行く姿を見ることによって祝福される子供。あるいは,その日,一緒に過ごして,父親にとって自分が大切な存在だということを実感する必要のある子供。しかし,人を助けられそうにない,あるいは進んで助けようとしない人だと思われても,奉仕を促す必要のある人はだれかも主は御存じなのです。

皆さんは定員会の全員についてすべてを知ることはできません。しかし,神は御存じです。ですから,皆さんはこれまで何度もしてきたように,奉仕を助けてくれるようだれに頼めばよいか分かるよう祈ったことでしょう。助けを依頼されることによって祝福される人,または依頼されないことによって祝福される家族を主は御存じです。それは皆さんが神権者を導く際に受けると期待してもよい啓示です。

わたしは若いときに,そのような経験があります。わたしは祭司定員会の第一補佐でした。ある日,ビショップから家に電話がありました。夫に先立たれた女性が非常に困っているので,訪問するために同行してほしい,わたしに来てほしいと言うのです。

家へ迎えに来るビショップを待っていると,複雑な気持ちになりました。ビショップには堅固で賢い顧問がいました。一人は有名な判事でした。もう一人は大きな会社を経営しており,後に中央幹部になる人でした。ビショップ自身もいつか幹部を務めるような人でした。なぜ未熟な祭司に「あなたの助けが必要です」と言ったのでしょうか。

今となってみると分かりますが,ビショップはこう言ってもよかったのです。「主にはあなたを祝福する必要がおありになるのです。」訪問先の女性の家で,意外にもビショップがこう言うのを聞きました。「以前に差し上げた予算の用紙に書き込まなければ,教会から援助を受けることはできませんよ。」家へ帰る途中,ビショップは意外な表情をしているわたしを見ると,笑って言いました。「彼女は家計の出費を抑えることができるようになると,ほかの人を助けられるようになりますよ。」

別の折にビショップは,両親がともにアルコール依存症の会員の家にわたしを連れて行きました。おびえた表情の二人の幼い少女が両親から言われて,戸口で出迎えてくれました。二人の少女と少し話した後,わたしたちはその家を後にしました。ビショップはわたしにこう言いました。「わたしたちはまだあの家族の生活の悲劇を変えることはできないが,家族の人たちは主から愛されていることを感じることができるよ。」

また別の日の夕方,ビショップに同行して,長年教会に来ていない男性の家へ行きました。ビショップは自分がいかにその人を愛しているか,またワードの人々がいかにその人を必要としているかを語りました。その人にはあまり大きな影響がなかったようでしたが,わたしはビショップに同行するときはいつでも,大きな影響を受けました。

以上のような訪問に同行することによって,どの祭司が祝福を受けるかを知るために,ビショップが祈ったかどうか,わたしにはとうてい分かりません。ほかの祭司を同行させてもよかったと思われる場合も幾度となくあったことでしょう。しかし,主は御存じでした。いつかわたしがビショップになり,信仰が弱くなった人々に福音の温かさを再び味わうよう勧めることになると。また,物質的にひどく困っている,何百人,あるいは何千人もの天の御父の子供たちに対する神権の責任を与えられるようになると。

若い男性の皆さんは,主が皆さんのためにどのような神権の務めを備えておられるかを知ることはできません。しかし,どの神権者にとってもいっそう大きな課題は,霊的な助けを与えることです。わたしたちには皆,その責任があります。それは定員会会員に課せられた責任です。家族の一員が持っている責任です。もし皆さんの定員会または家族の中のだれかが,サタンから信仰を攻撃されたら,皆さんは哀れみを感じるでしょう。サマリヤ人が奉仕と慈悲の行いをしたように,必要なときに傷を癒すために香油を塗ってあげることでしょう。

皆さんは専任宣教師として奉仕するときに,霊的に大きな必要性を抱えた何千人もの人たちのもとへ行くでしょう。多くの人は,皆さんから教えられるまでは,自分が霊的な傷を持ち,手当てを受けなければ際限のない苦悩にさいなまれることさえ分からないのです。皆さんはそのような人々を救うために,主の用向きを受けるのです。永遠の命へ通じる儀式を受け入れる人々に対して,主だけが霊的な傷を癒す力を持っておられるのです。

皆さんは定員会会員,ホームティーチャー,宣教師として,強い信仰を持たないかぎり,人々が霊的な傷を治すのを助けることはできません。つまり,定期的に聖文を読み,聖文について祈る以上のことを行わなければなりません。困ったときに祈ったり,ちらっと聖文を読んだりするだけでは,十分な準備はできません。皆さんが必要とするものは,次の勧告で再確認することができます。教義と聖約第84章にこう書かれています。「また,あなたがたは何を言おうかと,前もって思い煩ってはならない。ただ絶えず命の言葉をあなたがたの心の中に大切に蓄えるようにしなさい。そうすれば,それぞれの者に必要な部分が,必要なそのときに授けられるであろう。」2

その約束が果たされるのは,命の言葉を「大切に蓄え」,それを続けて行うときに限ります。その聖句の大事な部分には,わたしにとって,命の言葉について何らかの特別な気持ちを感じるという意味があります。例えば,預言者ジョセフ・スミスの神聖な召しについて信仰が揺らいでいる人を助けようとするとき,自分が抱いてきた特別な気持ちが再びわき上がってくるのです。

わき上がってくるのは,モルモン書の言葉だけではありません。モルモン書の中の数行でさえ,読むときはいつでも,確かに真実であるという気持ちがわいてくるのです。預言者ジョセフ・スミスやモルモン書について疑念を抱いている人には,このような気持ちがわいてくると必ずしも約束することはできません。しかし,わたしはジョセフ・スミスが回復の預言者であると知っています。また,モルモン書が神の御言葉であると知っています。なぜなら,それを大切にしてきたからです。

わたしは経験から知っています。皆さんは御霊の力によって真理に対する確信を得られます。なぜなら,わたしもその確信を得てきたからです。わたしたちの愛する旅人が真理に敵対する人々によって傷つけられてうずくまる道に,主がわたしたちを置かれる前に,皆さんもわたしもその確信を得なければなりません。

わたしたちがしなければならない準備がもう一つあります。ほかの人の苦痛に冷淡になるのは人間の特性です。そのような理由もあって,主の贖罪について,また天の御父のすべての子供を助けるために,彼らの苦痛と悲しみを御自身に引き受けたことについて,主が労を惜しまずに語られたのです。

この世で最もすばらしい,天の御父の神権者でさえも,そのような深い哀れみの域に容易に達することはできません。わたしたち人間には,自分には非常に明瞭な真理が分からない人に対していらいらする傾向があります。わたしたちの性急さが非難や拒絶と解釈されないように注意しなくてはなりません。

主の神権を持つ僕として主に代わって人を助ける備えをするとき,指針となる聖句があります。主がわたしたちをどこへお遣わしになっても,わたしたちの旅路に必要となる賜物について述べている聖句です。良いサマリヤ人はその賜物を持っていました。わたしたちにはそれが必要です。それを見いだす方法を主は教えておられます。

「したがって,わたしの愛する同胞よ,もしあなたがたに慈愛がなければ,あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって,最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。

しかし,この慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く。そして,終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は,幸いである。

したがって,わたしの愛する同胞よ,あなたがたは,御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,また神の子となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。また,御子が御自身を現されるときに,わたしたちはありのままの御姿の御子にまみえるので,御子に似た者となれるように,またわたしたちがこの希望を持てるように,さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう,熱意を込めて御父に祈りなさい。」3

この世の旅路を歩むわたしたちに主がお与えになる神権の務めがどのようなものであれ,それを行うために自らを備えられるようお祈りします。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。