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第16課:教える備え


第16課

教える備え

目的

福音を効果的に教えるために備えをするという責任を認識する。

導入

「わたしの言葉を告げようとしないで,まずわたしの言葉を得るように努めなさい。そうすればその後,あなたの舌は緩められる。それから望むならば,あなたはわたしの御霊みたまとわたしの言葉,すなわち人々を確信に導く神の力を受けるであろう。」(教義と聖約11:21

互いに教え合う

福音を教える機会は至る所にあり,その状況もまた様々である。家族,友人,隣人,会社の同僚,学校の級友などに教えることができる。また,教会のクラスで会員を教えたり,一緒に仕事をする非教会員に教えることもできる。

  • 写真ページ16-a「父親は子供に福音を教える責任がある」を見る。

家庭で教える

地球の創造から今日に至るまで,主はわたしたちに,子供に福音を教える責任を授けてこられた。家族を教える最良の時間は月曜日に開く家庭の夕べや,日曜日であるが,ほかにも適切な機会がたくさんある。ある父親がどのようにして家族を教えるようになったか紹介しよう。

家庭の夕べについて研究している父親は多いが,そのほとんどが次のように感じていた。「わたしは教師ではない。今まで教えたことがないし,これからもできないだろう。」しかし彼らには約束が与えられていた。それは,くつろいだ温かな雰囲気の下に毎週家族を集めるならば,家族を教える責任について何ら心配するような問題は起こらないという約束だった。

ジェリーという父親は,その要請にあまり熱意を示さなかった。「教えることができない」と言って断ろうかと思った。しかし,彼は決心して約束し,それを守り通したのである。

3か月後にそれまでの経過を尋ねたとき,彼は非常に友好的で温和な態度であった。子供たちは家庭の夕べで起こったことに夢中になっていた。

彼の妻はこのように言った。「それはすばらしい経験でした。わたしたちは最高のレッスンをジェリーから受けたのです。」

ジェリーはうつむいたまま,しばらく黙っていた。それから口を開いて言った。「いいや,そんなに良いレッスンは教えられなかった。」

彼の妻は心を込めて力強く言った。「ジェリー,あなたが教えてくださったときに,とても強い力を感じたわ。わたしたちが一つの家族であるとほんとうに思えたし,あなたが話してくださったことは,決して忘れないわ。」

ジェリーは心からの言葉にいたく心を動かされた。彼は頭を上げるとこのように言った。「うまくやれたと思います。わたしが家庭の夕べを開きたくなかったのは,単にできないと感じていたからにすぎません。しかし,ある晩に妻がレッスンを教え,次の週には娘が教えました。わたしは一度やってみようと決心しました。」

彼は目に涙をためながら話していた。「家族に善いことを話したときの気持ちを忘れることはできません。わたしが心に描いていた父親に初めてなれたように思いました。」(ジョージ・D・ダラント,Love at Home: Starring Father1976年,41—43)

この話は,父親が家族を教える責任を果たすならば,どのようなことが起こるかを語っている。

  • 数人の兄弟に,子供に福音を教えたときの経験を話してもらう。

ボイド・K・パッカー長老は次のように述べている。「わたしたちの行いの多くは教えることである。子供にくつひもの結び方を教え,……娘の新しい料理を手伝い,教会で話し,あかしを述べ,指導者会を管理し,もちろんクラスで教える。これらはすべて教えることである。わたしたちは絶えず教えている。……集会で話し,意見を述べ,答えるときにも教えているのである。」(Teach Ye Diligently1975年,2—3)

教会で教える

正式でなくとも語り合う中で教えることは多い。しかし,教会では組織されたクラスで教えるという機会を数多く提供している。

ボイド・K・パッカー長老は次のように述べている。「すべての教会員は生涯のほとんどの時間を教えることに費やしている。……教会のあらゆる組織にはそこで働く教師がいる。その大部分は神権定員会の中で教えている。実際に,すべての神権者は神権ホームティーチャーとして召される資格がある。……教会は,そのようにして遂行されている教育の力に支えられて前進するのである。もし,教育が効果的に行われなければ,王国の業は〔遅れる〕であろう。」(Teach Ye Diligently1975年,2—3)

時には教室の中ではなく,教会員との交わりを通して教えることもある。次の話は,教室外で教えた例である。

わたしがフレッド・キャロル監督と初めて会ったのは,家族で彼のワードに転入したときでした。当時,わたしは14歳で,アロン神権の執事の職に召されていました。この偉大な監督がわたしに直接話しかけたのは,恐らく50字くらいの短い言葉だったと思います。それでも,そのうち25文字は今もわたしの心に鮮明に焼きついています。彼自身は,その輝く25文字がわたしにどれほど大きな影響を与えたか気づいていなかったと思います。それは,わたし個人へのさりげない言葉でした。『あなたは,集会でいつも敬虔けいけんな態度をとっていますね。ほかの人にとって良い模範ですよ。』

ほんの短い言葉でしたが,どんなに大きな励みになったことでしょう。それ以後の幾多の責任よりもはるかに多くの影響をわたしに与えてくれました。それまで,自分が特別敬虔だなどと考えたことはありませんでした。恐らく,キャロル監督は,小心者のわたしを見て敬虔だと勘違いしたんだと思います。しかし,そんなことは問題ではありませんでした。わたしが人生における敬虔の意味についてよく考えるようになったのは,そのときからです。わたしは,それから間もなく敬虔な気持ちを感じるようになりました。結局,わたしはキャロル監督の思ったとおりの人間になることができたのです。キャロル監督があのときわたしの心にまいてくれた種が今では成長し,わたしの人生に強い影響を与えています。」(リン・F・スタッダード,“The Magic Touch,” Instructor1970年9月号,326—327)

トーマス・S・モンソン長老は次のように述べている。「献身的な教師は『わたしに学びなさい』という主の招きに応じて学ぶのである。また彼らは主の聖なる力を授かるのである。わたしは幼いころこのような教師に教えられたことがある。わたしたちは日曜学校のクラスで教師から,地球の創造とアダムの堕落,イエスのあがないの犠牲について学んだ。彼女はモーセやヨシュア,ペテロ,トマス,パウロ,イエス・キリストを主賓としてクラスに迎えた。その人々は肉眼には見えなかったがわたしたちは彼らを愛し,敬うことを学び,また彼らのようになろうと思ったものである。

ある日曜日の朝,彼女は級友の母親の死を悲しげに発表したが,そのときほど感動的で,いつまでも忘れられない教えとして残ったことはなかった。わたしたちはその朝,ビリーのいないのに気づいたが,休んだ理由は知らなかった。その日のレッスンは,『受けるよりは与える方が,さいわいである』(使徒20:35)というテーマであった。レッスンのさなかに,彼女は本を閉じ,神の栄光にわたしたちの目と耳と心を開かせた。彼女は『わたしたちのクラスのパーティー資金は幾らありましたか』と尋ねた。

クラスの雰囲気が沈んでいたので,かえって『4ドル75セントです』という返事が元気よく聞こえた。

彼女は静かに提案した。『ビリーの家族は悲しみに暮れています。今朝は家族の人々を訪問して,皆さんの資金を差し上げたらどうでしょうか。』

わたしたち小さな一団は3ブロックほど歩いてビリーの家に行き,彼と兄妹たちとビリーの父親とにあいさつしたのを覚えている。特に,彼の母親がいなかったのが心に残っている。またわたしは,大切なパーティーの資金を入れた白い封筒が教師の手から悲しみに沈んだ父親の手に渡されたときの皆の目に光った涙が忘れられない。わたしたちは教会堂に駆け戻った。かつてないほどにわたしたちの心は軽くなり,喜びに満ち,理解が深まった。神より霊感を受けた教師は少年少女に神の永遠の真理について教えたのである。『受けるよりは与える方が,さいわいである。』」(「たかが教師じゃないか」『聖徒の道』1973年10月号,437)

世の中で教える

すべての教会員は宣教師であり,接触するあらゆる人々に言葉や行いを通して福音を教える責任がある。わたしたちはバプテスマを受けたときに,「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも神の証人になる」(モーサヤ18:9)という聖約を交わした。友人や隣人に福音を教えるときには,穏やかで柔和な態度で接しなければならない(教義と聖約38:40-41参照)。

わたしたちには,子供や教会員にだけでなく,知り合うすべての人を教えるという重大な責任が与えられている。

写真ページ16-b「レッスンはクラスの生徒一人一人を念頭に置いて準備しなければならない」と16-c「レッスンの準備には聖文学習と祈りが含まれる」を見る。

福音を教える準備

優れた教師になりたければ,十分に準備しなければならない。「いかなる教師も知らないことを教えることはできない」とデビッド・O・マッケイ大管長は述べている。また,「見ていないこと,感じていないことを教えることのできる教師はいない。」(Treasures of Life1962年,476)

  • 青少年を含めてすべての人にとって,十分に教える準備をすることが大切なのはなぜか。レッスンの準備をするうえで役に立つ概念を次の文章の中から見いだすことができるか。

「レッスンの準備をする場所と時を確保し,聖典,レッスンテキスト,参考文献,紙,鉛筆などの教材を,いつも利用できるようにしておきなさい。神の計画を主催しておられる主の導きを求めてあなた自身の計画に着手すべきである。これはその御方の福音であり,あなたは主の子らを教える主の教師である。主がどのように教えることを望んでおられるか尋ね求めなさい。特に必要と感じれば,主の御霊との一致が得られるよう,祈りとともに断食すべきである。」(『教師養成プログラム基礎コース』137)

  • レッスンに必要な準備と教材を黒板に列挙する。

デビッド・O・マッケイ大管長は,中央幹部に召される前に教師を職業にしていた。彼はレッスンに備えるための4段階を提案している。

  • レッスンの目的を決める

    目的とは,生徒が学んで行動に移してほしいと思う概念である。レッスンの準備をするときには,目標を書いて,それについてよく考える。

  • テキストに通じる

    自分の言葉で教えられるように,レッスンの内容を十分に把握しておく。もちろん,聖句や引用はテキストから読んでもよい。

  • 研究と努力により視覚教材を整える

    レッスンに対する関心を高めるために,実物,図表,絵,そのほか効果的な教材を使用する。レッスンヘの関心を高めることは,あらゆる年代の人に教えるうえで大切である。

  • 教材などをレッスンのときに効果的に使えるようにしておく

    チョーク,黒板消し,紙,鉛筆,視覚教材など,レッスンに必要なすべてのものをすぐに使えるように用意しておき,レッスン中に混乱を招かないように,使用する順番に整理しておく。

教える人々を愛する

ボイド・K・パッカー長老は次のように述べている。「良い教師は,前もってレッスンの内容を研究する。しかし,最上の教師は生徒についても熱心に,まじめに研究する。……生徒の顔立ちや表情を注意深く観察すれば,クリスチャンとして人を思いやる温かい気持ちがわいてくる。……思いやりは霊感にも似た感情であり,主の羊を養うという業にあなたを駆り立てる愛である。」(“Study Your Students,” Instructor1963年1月号,17)

一方,教師から愛される生徒はさらに自尊心を高め,自分自身の向上を願うようになる。クラスの生徒に気を配り,協力し,援助するようになる。愛される生徒の多くは,人を愛する方法を学ぶのである。

御霊によって教える

生徒を愛するためには,教師は主から与えられる霊感に敏感でなければならない。この方法によってしか,生徒が必要とすることをほんとうに理解することはできない。ブリガム・ヤング大管長はこのように語った。「最良の書物などから知恵を得るためにどんなに努力しても,すべての人々が自由に飲むことを許されている泉がまだ残っている。『知恵に不足している者があれば,……神に,願い求めるがよい。』」(Discourses of Brigham Young1954年,261)

教える能力は天の御父から授けられる賜物たまものである。わたしたちが主に願い求めるならば,霊感によってレッスンを準備し,生徒を知り,生徒を愛し,教えることができる。御霊によって教えるとは,力によって教えるということである(詳細は本書第18課「聖霊の力によって教える」参照)。

まとめ

「デビッド・O・マッケイ大管長はかつて,『人の魂を鍛えること以上に大きな責任はこの世にない』と語った。教え,鍛えること,これは教会の親と教師の全員に与えられた大切な管理の職の一部である。」(ボーン・J・フェザーストーン「感化力のある教師」『聖徒の道』1977年2月号,139)わたしたちには自分の子供や教会員,そして会員でない隣人にイエス・キリストの福音を教える責任がある。そのためには福音を学び,福音に従って生活し,自分自身を備えなければならない。

福音をより効果的に教えるうえで,義にかなった生活をすることはどのような助けとなるだろうか。

チャレンジ

次回の家庭の夕べのレッスンについて勉強し,聖霊の導きを求めて祈り,よく準備を整えて教える。

参照聖句

申命6:1-7(絶えず子供に教えることの大切さ)

モーサヤ4:14-15(子供を教える適切な方法)

教義と聖約68:25-28(両親は子供に福音を教えなければならない)

教義と聖約130:18(この世で得た知識は復活のときにともによみがえる)

教師の準備

レッスンの前に以下のことを行う。

  1. 各自の聖典を持参するように促す。

  2. 数人の生徒に子供を教えたときに味わった良い経験を話すよう割り当ててもよい。

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福音を教える責任

16-a 父親は子供に福音を教える責任がある

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生徒を念頭に置いて準備

16-b レッスンは,クラスの生徒一人一人を念頭に置いて準備しなければならない

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レッスンの準備

16-c レッスンの準備には聖文学習と祈りが含まれる