2010–2019
歌われる歌と歌われない歌
脚注

Hide Footnotes

テーマ

歌われる歌と歌われない歌

神の聖歌隊にいつまでも忠実にとどまるよう一人一人にお願いします。

「心に光あり,主はわが光 この世の空よりも なお輝く」という歌詞は,エライザ・ヒュイットによって書かれました。1クリスチャンに古くから親しまれるこのすばらしい賛美歌は,どのフレーズも明るく生き生きしており,歌うときには必ず笑みがこぼれます。しかし今日は,歌ったり,あるいはほほえんだりすることが難しく,「平和の善き時」がやって来るとは思えないときに助けとなるような言葉をこの賛美歌から採り上げてみたいと思います。楽しげなメロディーをほかの人が口ずさむのが聞こえても,それに合わせて歌うことができないときには,「うたえぬ歌をも 主は聴きたもう」という,この賛美歌の励ましの言葉をよく心に留めてください。2

堕落した世に住む神の子供としてわたしたちは,信仰と不屈の精神が試されるつらい日々もあるという現実に直面します。そのような試練は,自分やほかの人の落ち度に原因がある場合もあれば,人生の不条理の表れにすぎないこともあります。原因はともあれ,そのようなときには歌いたくても楽しい歌が歌えず,エライザ・ヒュイットがこの歌でたたえている「心に春あり」という約束に暗雲がかかります。3

そのようなとき,わたしたちはどうしたらよいでしょうか。一つには,使徒パウロの勧告を受け入れて,「わたしたちが見ないことを望むなら,わたしたちは忍耐して,それを待ち望む」ことができます。4喜びが感じられず,喜びのメロディーを歌えないときには,黙ってほかの人の歌う喜びのメロディーにしばらく耳を傾けるしかないのかもしれません。周囲のすばらしい音楽から力を引き出すのです。「音楽が苦手な人」の多くは,もっと力強く安定した声で歌う人の隣に行くことで,自信をつけ,歌唱力を見違えるほど進歩させることができます。永遠の賛歌を歌う場合も同じです。人間として可能な限り,世の救い主,贖い主の近くに立つべきです。主は絶対的な音感をお持ちだからです。そうすると,わたしたちの沈黙を聴かれる主の能力に勇気を得,またわたしたちを補ってくださる主の旋律に望みを抱くようになります。確かに,「主〔が〕近ければ 鳩はうたい 花〔は〕,恵みに咲く」のです。5

音が少し外れたり,見た目や声がほかの人より劣っていると感じたときには,特に教会の青少年に,神の聖歌隊において異なる声の人がいるのは神の計画だということを覚えておくようにお願いします。豊かな音楽を奏でるためには,ソプラノやアルト,バリトンやバスといった,いろいろな声が必要なのです。二人のすばらしい末日聖徒の女性の楽しい手紙のやり取りから言葉を借りると,「神の造られたどの生物にも,それぞれに聖歌隊の持ち場がある」のです。6飽くことのない消費者文化に振り回され,実現可能な域を超えて理想化された虚像が,ソーシャルメディアによって作り出されています。自分の個性を過小評価したり,そのような虚像に自分を合わせようとしたりすると,神が多様性に富んだ世界を創ったときに目指しておられた豊かな音色や音質を,わたしたちは失ってしまいます。

これは,神のコーラスでは各自がてんでんばらばらに自分のオラトリオを大声で歌い始めてもよいと言っているわけではありません。多様性は不協和音ではありませんし,聖歌隊には鍛練が必要です。今日の話の目的を考えて,ヘイルズ長老〔も話しましたが〕,「鍛練」という言葉を使います(訳注—ヘイルズ長老が用いた「弟子」とホランド長老の用いた「鍛錬」の英語はともに“discipleship”)。神から示された歌詞や,世界が存在する前に作られた美しいハーモニーの音楽をわたしたちが受け入れるならば,天の御父は喜んでわたしたちにほかの人の声ではなく,自分の声で歌わせてくださいます。自分を信じてください。神を信じてください。自分の価値を過小評価したり自分の力を低く見たりしてはいけません。何よりも,コーラスの中で自分が果たしている役割を放棄しないでください。なぜでしょうか。皆さんは個性的で,皆さんの代わりはいないからです。現世でわたしたちが歌うこの大いなる聖歌隊では,社会の片隅や教会の片隅にいる人も含めて,たった一人の声が失われるだけで,ほかのすべての歌い手の声の響きが弱くなるのです。

しかし,歌いにくい歌があっても信仰を持つようにと皆さん全員に勧めてはいますが,わたし自身,様々な理由で,歌われるべきでありながら歌われていない,ほかの種類の歌について悩んでいることを素直に認めます。

世界のとてつもない経済的不均衡を見るにつけ,ヒュイット氏作詞の「今,主は恵みて われにたもう,〔そして喜びは天に蓄えられる〕」という歌詞を歌うのに後ろめたさを感じてしまうのです。7わたしたちが貧しい人を立派に世話するまでは,忠実にこのフルコーラスを歌うことができません。経済的な窮乏は害であり,何年も,何世代にもわたって人々を苦しめます。それは人々の健康を損ない,霊をむしばみ,家族に悪い影響を与え,夢を打ち砕きます。イエスが繰り返し命じておられるように,わたしたちがこの貧困という重荷を軽くすることができたなら,世の恵まれない人たちの中から,恐らく人生で初めて「心に光あり」の歌詞を何フレーズか歌える人が出てくるかもしれません。

わたしはまた,精神的・情緒的疾患,その他の衰弱を招く健康上の制限に苦しむ人が周りにこれほどたくさんいるときに,明るく弾むような歌詞が歌いにくいということも承知しています。残念ながら,このような重荷は,家族を含め手を差し伸べてくれる人々の力強い働きがあっても,取り除かれないこともあります。わたしたちがそのような神の子供たちを人知れず苦しむままにせず,彼らの歌えぬ歌を聞くという主の能力をわたしたちが授かることができるようにと祈ります。

そしていつか,銃や罵詈雑言は人類の争いの解決策ではないと,人種や民族の枠を越えて世界中の人が声を合わせて大合唱する日が来ることを,わたしは願っています。複雑な社会問題を十分に解決する唯一の方法は,神を愛し,神の戒めを守ることであり,それによって人々がお互いを隣り人として愛し合うという,永続する救いの道への扉を開けることだと,天はわたしたちに向かって声高く宣告しています。預言者エテルは,「もっと良い世界を……望む」べきだと教えました。戦争と暴力に疲れ果てたモロナイは,その教えを1,000年後に読み,世界にとって「もっとすばらしい方法」とは,いつの時代でもイエス・キリストの福音なのだと述べました。8

このような試練の中で,時折異なる種類の歌えぬ歌が心にわき上がります。それは何とありがたいことでしょう。歌えないのは,別の理由があるからです。これは非常に個人的な深い感情を抱くときで,きわめて神聖であるために,口に出すことができず,あるいはそうするべきではないものです。(『リア王』の)コーディリアは父への愛を次のように言いました。「私の……愛は,…… 舌などおよばぬほど深いのだから。……私は心の思いを口には出せないのです。」9わたしたちは神から来る神聖な気持ちを感じることがありますが,そのような感情は,とても言葉では言い表せません。イエスがニーファイの民の子供たちのためにささげた祈りのように,あまりに霊的であるために,口にすることができないのです。この出来事を目撃した人たちはこう記録しています。

「わたしたちはイエスが御父に話されるのを見聞きしたが,それは目がまだ見たこともなく,耳がまだ聞いたこともないほど,大いなる驚くべきことであった。 

わたしたちはイエスが話されるのを見聞きしたが,それはどんな舌も語ることができず,どんな人も書き記すことができず,人々の心が想像できないほど,大いなる驚くべきことであった。10

このような聖なる瞬間を言い表すことはしません。仮にできたとしても,それによって神聖を汚すように思えるからです。

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは歌えぬ歌やまだ歌っていない歌がたくさんある現世に生きていますが,あらゆる賛歌の中で最も貴い,「贖いをもたらす愛の歌」を永遠に味わうことのできる,神の聖歌隊にいつまでも忠実にとどまるよう一人一人にお願いします。11幸いなことに,特にこの賛歌を歌う人の席は,際限なくあります。異なる言語を話す人にも,いろいろな文化をたたえる人にも,様々な地域に住む人にも席が用意されています。独身者にも既婚者にも,子供の多い家族にも子供のいない家族にも席が用意されています。自分の信仰に疑問を抱いたことのある人にも,今でも疑問を抱いている人にも席が用意されています。性的指向の異なる人のためにも席が用意されています。端的に言うと,神を愛し,神の戒めを個人の行動の神聖な指標として尊重するすべての人のために,場所が用意されているのです。なぜなら,神の愛がだれもが知る歌のメロディーだとしたら,神に従おうとするわたしたち全員の努力は,美しいハーモニーを生み出すためにどうしても不可欠だからです。愛と信仰,悔い改めと憐れみ,正直と赦しという神聖な戒めのあるこの聖歌隊には,入りたいと思う人はだれでも入れます。12愛の深い御父はわたしたちすべての者に「ありのままに来なさい」と言われますが,しかし「ずっとありのままではいけません」と付け加えられます。自分では思いも寄らなったほどの姿へ導こうと,神が決意しておられることを思い出し,わたしたちはほほえむのです。

わたしたちを昇栄に導く御父の計画であるこの壮大なオラトリオの中で,わたしたちが御父の振る指揮棒に謙遜に従い,歌えぬ歌に取り組み続け,ついにはその歌を「主に捧〔げる〕」ことができますように。13そして,いつの日か,わたしたち皆が愛する賛美歌にあるように,

「主が火車にて降る日〔に〕

ホザナ,ホザナ 神と御子〔に,と〕

天の群れと共にうた」うのです。14

永遠の父なる神が再びその独り子を,今度は王の王として永遠に統治するために,地上に送られる時が来ることを証します。この教会が回復された主の教会であって,主の福音の教えと救いの儀式を全人類にもたらすための手段であることを証します。主の言葉が「あらゆる大陸を貫き,あらゆる地方に至〔る〕」15とき,確かにイエスはその「ほほえ〔み〕」16を見せてくださいます。そしてその日,心には永遠の光が満ちていることでしょう。この約束された時の到来を切望し,イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。