2010–2019
「わたしとともに歩みなさい」
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「わたしとともに歩みなさい」

神権への聖任とは,御自分とともに歩むようにとの,主からの招きです。すなわち主に倣って行動し,主に倣って仕えるのです。

愛する神権者の皆さん,今晩のわたしの目的は,皆さんが神権の奉仕を行うに当たって自信を持ち,励ましを受けられるようにすることです。それはある意味で,救い主が金持ちの青年に出会ったときに意図されたであろうことと似ています。青年はこう尋ねました。「永遠の生命を得るためには,どんなよいことをしたらいいでしょうか。」(マタイ19:16)恐らく,この青年が救い主のもとへ行ったように,皆さんも,自分の奉仕は主に喜ばれているだろうかと思いつつ,この大会にやって来たことでしょう。それと同時に,さらに多くの,恐らくはるかに多くのなすべきことがあると,気づいているかもしれません。皆さんのこれまでの働きを,主が愛をもって認めておられることを伝えられますように。皆さんが主の聖なる神権を持つ者として,主の助けを受けてさらに達成できることは何か,その励みとなるものをかいまみることができるよう祈ります。

金持ちの青年は,自分の持ち物をすべて売り払い,貧しい人々に施し,救い主に従うように言われました。皆さんがこれから成長の道をたどる中で,そこまで求められることはないかもしれませんが,何らかの犠牲を求められることはあるでしょう。いずれにしても,わたしのメッセージによって,皆さんがあの青年のように,「悲しみながら立ち去〔る〕」ことのないようにと願っています(マタイ19:20-22参照)。むしろ,向上したいという望み,また自分にはできるという思いをもって,「喜びながら〔皆さん〕の道を行〔く〕」ことを確信しています(教義と聖約84:105)。

そうは言っても,主から与えられた召しについて考えると,何らかの不十分さを感じるのは自然なことです。実際,もし皆さんが自分に与えられた神権の務めを完璧に果たせると言ったとしたら,わたしは皆さんの,務めに対する理解を不安に思うかもしれません。一方で,もし皆さんが自分の能力ではとうてい果たすことのできない務めなので諦めたいと言ったとしたら,主がいかにして神権者を大いなるものとし,強め,一人では成し得なかったことを行えるようにしてくださるか,それを理解できるように助けたいと思います。

これはわたしの召しについても,皆さんの召しについても,同様に当てはまることです。自分の知恵と才能だけに頼って,神権の業を行い,よく果たすことはだれにもできません。それは,これがわたしたちの業ではなく,主の業だからです。ですから,聖餐の儀式にさらなる霊的な力をもたらす務めを託された新任の執事であれ,見ず知らずの,自分の愛と助けを必要としていないように思える家族を愛し,教え導くよう主に割り当てられた若いホームティーチャーであれ,子供たちの成長が早く世の中がきわめて厳しく好ましくない環境に思えるために,家庭を義にかなって管理すべきことを知っていながらも恐らくその方法に自信がないまま時間を使い果たしてしまいそうな父親であれ,成功するための唯一の方法は,主に頼ることなのです。

ですから,少し押しつぶされそうに感じているとしたら,それを良いサインだと捉えることです。それは,神が自分に寄せておられる信頼の大きさを感じられていることのしるしです。神権がどのようなものであるかを,少しでも理解しているということです。

世の中で,そのような理解を持ち合わせている人はほとんどいません。もっともらしい定義を口にできる人がいても,真に理解してはいないでしょう。聖文には,そこに込められている御霊の力を通して,聖なる神権に対する畏敬の念を深めてくれるものがあります。幾つかの聖文を紹介しましょう。

「メルキゼデク神権の力と権能とは,教会のすべての霊的な祝福の鍵を持つことである。

すなわち,天の王国の奥義を受ける特権を持ち,天が彼らに開かれ,長子の教会の総集いと親しく交わり,また父なる神と新しい聖約の仲保者イエスの親しい交わりと臨在とを享受することである。

……アロン神権の力と権能とは,天使の働きの鍵を持〔つ〕……ことである。」(教義と聖約107:18-20

「この神権の儀式によって神性の力が現れる。……

これがなくては,だれも神,すなわち父の御顔を見て,なお生きていることはできないからである。」(教義と聖約84:20,22

「この大神権は神の御子の位に従うものであり,その位は世の初めから存在していた。言い換えれば,それは日の初めもなく年の終わりもなく,すべての物事に対する神の先見の明によって,永遠から永遠にわたって備えられているのである。」(アルマ13:7

「この位と召しに従って聖任された人は皆,信仰により,山々を崩し,海を分け,水を干上がらせ,その流れを変える力を持つであろう。

また,もろもろの国の軍勢をものともせず,地を分け,あらゆる縄目を解き,神の前に立ち,神の御心と命令のとおりにすべてのことを行い,支配と権威を服従させる力を持つであろう。これは,創世の前からおられた神の御子の御心によるのである。」(ジョセフ・スミス訳 創世14:30-31〔『聖句ガイド』「聖書のジョセフ・スミス訳(抜粋)」〕)

神権の力に関する,このように荘厳な描写に対する一つの反応の仕方は,それが自分たちには当てはまらないと思い込むことです。もう一つの反応の仕方は,心の中で次のような質問をし,内省することです—わたしは天が自分のために開かれていると感じたことがあるだろうか。わたしの神権の奉仕について語るのに,「天使の働き」という言葉を使う人がいるだろうか。わたしは,自分が仕える人々の生活に「神性の力」をもたらしているだろうか。文字どおりの意味ではないにしても,神の御心を成し遂げるために,わたしは山を崩し,軍隊をものともせず,だれかの縄目を断ち切り,この世の権力を制圧したことがあるだろうか。

そのように内省することで,主に仕える中でより多くをなすことができると,いつも感じることができます。また内省によって,皆さんがもっと多くのことをしたい,主の奇跡の業にいっそう携わりたいと切望することを願っています。そのように感じることは,神権の奉仕が生み出す理想の人になるための最初のステップです。

次のステップは,エホバとエノクとの対話に描かれています。わたしたちは,エノクがひどい邪悪に取り囲まれる中でシオンを確立した偉大な預言者であることを知っています。しかし,偉大な預言者となる前のこと,エノクは自らを「若者にすぎず,……口の重い者」であり,すべての人に憎まれていると思っていました(モーセ6:31)。主がエノクを励ますために語られた言葉に耳を傾けてください。それは神権者として人々を教え導くよう召された皆さんに,主が語られた言葉でもあります。

「主はエノクに言われた。『行って,わたしがあなたに命じたように行いなさい。 そうすれば,あなたを刺し貫く者はだれもいないであろう。あなたの口を開きなさい。そうすれば,それは満たされるであろう。わたしはあなたに語る力を与えよう。すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。 そして,わたしは自分がよいと思うままに行おう。……

見よ,わたしの御霊があなたのうえにあるので,あなたのすべての言葉を,わたしは正しいとする。山々はあなたの前から逃げ去り,川はその流れを変えるであろう。あなたはわたしにつながっていなさい。そうすれば,わたしはあなたとつながっていよう。それゆえ,わたしとともに歩みなさい。』」(モーセ6:32,34

兄弟の皆さん,神権への聖任とは,御自分とともに歩むようにとの,主からの招きなのです。主とともに歩むとはどういう意味でしょうか。主に倣って行動し,主に倣って仕えるという意味です。主は御自身の安楽を犠牲にして,助けの必要な人々を祝福されました。ですからわたしたちも努めてそのように行います。主は社会で見過ごされ,さらには退けられた人々に特別の注意を払われました。ですからわたしたちもそうするよう努めるべきです。主は御父から授かった真の教義について,たとえ受け入れられなくとも,大胆かつ愛をもって証されました。ですからわたしたちもそうする必要があるのです。主はすべての人に「わたしのもとにきなさい」と言われました(マタイ11:28)。ですからわたしたちはすべての人に,「主のもとに来なさい」と話すのです。神権者であるわたしたちは,主を代表する者です。わたしたちは自分のためではなく,主のために行動します。自分の言葉ではなく,主の言葉を語ります。わたしたちが仕える人々は,わたしたちの奉仕のゆえに,主をよりよく知るようになるのです。

「わたしとともに歩みなさい」という主の招きを受け入れると,わたしたちの神権の奉仕の本質は直ちに変わります。より高尚かつ高潔なものとなるだけでなく,より達成可能なものとなります。自分が独りではないと知るからです。9年前,トーマス・S・モンソン大管長がわたしの頭の上に手を置き,現在の召しを受けて奉仕を始めるに当たってわたしを祝福したとき,このことを最も強く感じました。その祝福の中で,モンソン大管長は救い主の次の言葉を口にしたのです。「そして,あなたがたを受け入れる者がだれであろうと,わたしもそこにいるであろう。わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊はあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう。」 (教義と聖約84:88)

わたしはこれまで何度もこの約束に頼ってきましたし,72年にわたる神権の奉仕を通じて,この約束が様々な形で成就するのを目の当たりにしてきました。アロン神権者となってまだ日も浅いころ,聖餐のパスの責任を受けたときもそうでした。失敗することを恐れたわたしは,集会が始まる前に礼拝堂の外へ行き,神が助けてくださるようにと必死で祈りました。答えは来ました。主がともにいてくださるのを感じたのです。主の信頼を感じ,主の業において自分の役割を果たす自信を持つことができました。

ビショップとして奉仕していたときにも同じようなことが起こりました。重大な過ちを犯し,難しい,人生を大きく左右する決断に迫られている女性から電話を受けました。その女性と会って話したとき,わたしは彼女の問題に対する答えを知っていると感じました。しかし,わたしが答えを与えるのではなく,彼女が自分でその答えを得る必要があると強く感じたのです。わたしがかけた言葉はこうです。「あなたが尋ねれば,神はあなたがなすべきことをきっと教えてくださるでしょう。」後日,彼女から報告を受けました。彼女は神に尋ね,神は彼女に教えてくださったのです。

またビショップを務めていたあるときには,別の電話が鳴りました。今度は警察からです。飲酒運転者が,ガラスを突き破って銀行のロビーに車をぶつけたというのです。当惑した運転手は,武器を振りかざす警備員の姿を見ると,こう叫びました。「撃たないでくれ!わたしはモルモンだ!」

酔っ払いの運転手は,最近バプテスマを受けた,わたしのワードの会員であることが分かりました。ビショップ室でこの男性と話すのを待ちながら,聖約を破り,教会を辱めたことに関して彼に後悔の念を抱かせるべく,何を話そうかとわたしは考えていました。ところが,この男性に目をやりながら腰を下ろしたとき,だれかが自分に話しかけているのかと思えるほどはっきりと,心に一つの声が聞こえてきました。「わたしが見ているように,彼を見られるようにしましょう。」すると,ほんのつかのま,この男性がわたしの目にすっかり違って映りました。放心状態の若者ではなく,輝かしく,高潔な神の息子の姿を目にしたのです。その瞬間,わたしはこの男性に対する主の愛を感じました。この示現によってわたしたちの話す内容は変わり,わたし自身も変わりました。

わたしは,主の業を行うに当たって主とともに歩むというこれらの経験を通じ,大切な教訓を学びました。その中から3つを紹介したいと思います。第1の教訓は,神は最も日の浅い,最年少の執事をも気に留め,支えてくださるということです。自分があまりにも未熟で取るに足りないために,神は自分と,自分が神の御名によって行っている奉仕に気づかれることはないなどと感じる必要はまったくないのです。

第2の教訓は,主の業とは,単に問題を解決するものではなく,人を育てるものだということです。ですから,主とともに歩みながら神権の奉仕を行うとき,最も有効な解決策と思われるものが,主の望まれる,人を成長させるような解決策ではない場合もあるということに気づくでしょう。耳を傾ければ,主は御自身の方法を教えてくださいます。神の業と栄光とは,単に効果的な組織を運営することだけでなく,「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと」であるのを忘れないでください(モーセ1:39)。これこそ,結局のところ,神がわたしや皆さんのように欠点を持った死すべき人間に神権の権能を授け,その御業に携わるよう招いておられる理由なのです。わたしたちの成長こそが,神の業なのです。

第3の教訓はこうです。神権の奉仕を行う中で救い主とともに歩むと,人に対する見方が変わります。主は御自身の目を通して人を見るように教えてくださいます。つまり,外の顔かたちではなく,心を見るということです(サムエル上16:7参照)。だからこそ,救い主はシモンを感情に走りやすい漁師としてではなく,ペテロ,すなわち主の教会を導く,確固とした未来の指導者として見ることがおできになったのです(ルカ5:1-11参照)。だからこそ,ザアカイを堕落した取税人ではなく,正直で,高潔なアブラハムの子として見ることがおできになったのです(ルカ19:1-9参照)。救い主と十分な時間をともに歩むなら,どのような過去があれ,すべての人を,無限の可能性を秘めた神の子供として見ることができるようになるでしょう。また,救い主とともに歩み続けるなら,主がお持ちのもう一つの賜物,すなわち人々が自分の内にある可能性を見いだし,悔い改められるよう助ける能力を伸ばすことができます。

神権を持つ愛する兄弟の皆さん,わたしたちは多くの点で,あの最初の復活祭の日曜日に,エマオへの道を歩んだ二人の弟子に似ています。それは復活の朝でしたが,この二人の弟子は,復活があったのか,あるいは復活が何を意味するのかさえ,理解してはいませんでした。二人は「イスラエルを救うのは〔ナザレのイエス〕であろうと,望みをかけていました」が,復活について聖文で教えられているすべてのことを,「心のにぶいため……信じられ〔ません〕」でした。二人が歩きながら,復活について論じ合っていると,「イエスご自身が近づいてきて,彼らと一緒に歩いて行かれ」ました。「しかし,彼らの目がさえぎられて,イエスを認めることができなかった」のです(ルカ24:13-32参照)。

わたしは証します。神権の奉仕という道を歩むとき,救い主イエス・キリストがともに歩んでくださいます。それが,ほかでもない主の道だからです。主の光はわたしたちの前を照らし,主の天使はわたしたちを取り巻いています。神権の本質,あるいは主がなさったように神権を行使する方法を,完全に理解することはできないかもしれません。しかし,わたしたちの心が「内に燃えた」その瞬間に細心の注意を払うなら(ルカ24:32),わたしたちの目は開かれ,日々の生活や奉仕の中に,主の御手を見ることができます。わたしたちは,神の子供たちに救いをもたらす偉大な業において,主とともに働き,主に仕えることで,主を最もよく知るようになると証します。「なぜならば,仕えたこともなく,見も知らぬ他人で,心の思いと志を異にしている主人を,どのようにして人は知ることができようか。」(モーサヤ5:13)イエス・キリストはわたしたちの主であられます。これは主の教会です。わたしたちは主の神権を持っています。わたしたち一人一人が主とともに歩み,主がどのようにわたしたちと歩まれるのかを知る道を,選ぶことができますように。

わたしはイエスがキリストであり,復活された主であられることを厳粛に証します。主がわたしたちに委ねられた神権は,主の御名によって語り,行動するための力であると証します。わたしたちは,愛にあふれる天の御父の子供であり,天の御父はわたしたちの祈りにこたえ,わたしたちが祝福として受けているあらゆる神権の責任を果たすときに,聖霊を送り,わたしたちを強めてくださいます。ジョセフ・スミスは御父と御子にまみえ,神権の鍵を受けました。トーマス・S・モンソン大管長はこの鍵を引き継ぎ,今日,それを行使しています。イエス・キリストの御名により証します,アーメン。