2010–2019
キリストの教義
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キリストの教義

今日の教会において,キリストの教義を確立したり教義的な逸脱を正したりする際には,昔と同様に,主から使徒の権能を授かった人々が受ける神の啓示によって行われます。

ベック姉妹とオールレッド姉妹,トンプソン姉妹,そして扶助協会管理会の皆さんに心からの愛と感謝をお伝えします。

近年,末日聖徒イエス・キリスト教会の信条に対する人々の関心が高まってきています。わたしたちはこの傾向を歓迎します。結局のところ,教会の基本的な務めは,イエス・キリストの福音,キリトの教義を全世界の人々に教えることだからです(マタイ28:19-20教義と聖約112:28参照)。しかし,教会の教義と,それがどのように確立されるかについては,過去に多少の混乱があり,そうした混乱は今もなお見られます。今日わたしはこのことについて話したいと思います。

救い主は時の中間に御自分の教義をお教えになり,救い主の使徒たちは,それを誤った言い伝えや哲学から守ろうと懸命に努めました。新約聖書の書簡には,使徒たちが教え導いていた間にも深刻かつ広範な背教がすでに始まっていたことを示す出来事がたくさん記されています。1

その後何世紀もの間,時々福音の光がさすことはありましたが,ついに19世紀に,光り輝く回復の朝がこの世に訪れました。キリストの福音が再び完全にすべて地上にもたらされたのです。この栄えある日は,「太陽の輝きにも勝って輝いている光の柱」の中に(ジョセフ・スミス―歴史1:16),父なる神とその愛子イエス・キリストが少年ジョセフ・スミスに御姿を現されたときに幕を開けました。そして神の力と権能に伴って,啓示が洪水のごとく注がれ始めたのです。

この啓示の中に,地上に再び確立したイエス・キリストの教会の中心的な教義と呼べるものが示されています。「イエス・キリストについてのもう一つの証」であるモルモン書の中で,イエス御自身がその教義を次のように定義しておられます。

「これから述べるのがわたしの教義であり,父がわたしに与えてくださった教義である。わたしは父のことを証し,父はわたしのことを証され,聖霊は父とわたしのことを証する。父は,どこにいる人でもすべての人に,悔い改めてわたしを信じるように命じておられることを,わたしは証する。

わたしを信じてバプテスマを受ける者は,だれでも救われる。神の王国を受け継ぐのはこれらの者である。

また,わたしを信じないでバプテスマを受けない者は,だれでも罰の定めを受ける。

……わたしを信じる者は父をも信じるのである。その者に,父はわたしのことを証されるであろう。父はその者に火と聖霊を与えられる。……

まことに,まことに,あなたがたに言う。これがわたしの教義である。この教義の上に建てる者はわたしの岩の上に建てるのである。地獄の門もこれらの者に打ち勝つことはない。」(3ニーファイ11:32-35,39

これがわたしたちのメッセージであり,土台とする岩であり,教会のほかのすべてのことの基です。神から来るあらゆるものと同じように,この教義は純粋で,明瞭で,子供にも容易に理解できます。この教義を受け入れるようにと,わたしたちは喜びの心をもってすべての人に勧めます。

末日聖徒イエス・キリスト教会において,「わたしたちは,神がこれまでに啓示されたすべてのこと,神が今啓示されるすべてのことを信じ」ています。「神がこの後も,神の王国に関する多くの偉大で重要なことを啓示されると信じ」ています(信仰箇条1:9)。これは,まだ知らないことが数多くあるけれども,これまでに受けた真理と教義は神の啓示によってもたらされたのであり,これからも受け続けるという意味です。一部の宗教では,神学者が聖職者と同等の教える権限があると主張し,教義に関する事柄について意見を戦わせることがあります。中世の公会議やそこで出された宣言に頼る人もいれば,使徒が世を去った後の神学者による推論や,聖書の解釈学や注釈を重要視する人もいます。わたしたちは,理解を深めるための学問は重要だと考えています。しかし今日の教会において,キリストの教義を確立したり教義的な逸脱を正したりする際には,昔と同様に,主から使徒の権能を授かった人々が受ける神の啓示によって行われます。2

1954年,当時大管長会顧問であったJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長は,教会で教義が知らされる方法と,大管長が持つきわめて重要な役割について説明しています。大管長会と十二使徒定員会の会員について次のように述べました。「一部の中央幹部には特別な召しが与えられていることを覚えておく必要があります。彼らは特別な賜物を持っています。預言者,聖見者,啓示者として支持されており,それによって,人々を教えることに関して特別な霊的な祝福を受けています。彼らは大管長が持つすべてにわたる力と権能のもとで,神の思いと望みをその民に宣言する権利と力と権能を持っています。そのほかの中央幹部には,教える際のこの特別な霊的な祝福と権能は与えられていません。彼らはその結果として制限を受けます。教える際の力と権能に制限があることは,教会のほかのすべての役員と会員にも当てはまります。彼らはだれも預言者,聖見者,啓示者としての霊的な祝福を受けていないからです。さらに,先ほど述べたように,この点において大管長はさらなる特別な霊的な祝福を受けています。教会全体に対する預言者,聖見者,啓示者だからです。」3

救い主はその御心と教義を,預言者,聖見者,啓示者にどのように示されるのでしょうか。主は使者を通して,あるいは御自身で行われます。御自身の御声により,あるいは聖なる御霊の声によって語られます。御霊が霊に語りかけられるとき,それは言葉や気持ちによって表され,言葉を超えた理解が伝えられます(1ニーファイ17:45教義と聖約9:8参照)。主は一人の僕に,あるいは評議を行う僕たちに語りかけられます(3ニーファイ27:1-8参照)。

新約聖書から二つの実例を紹介しましょう。一つ目は,教会の長が受けた啓示です。使徒行伝の初めの方では,キリストの使徒たちはイエスの務めの規範に倣い,ユダヤ人だけに福音のメッセージを伝えていました(マタイ15:24参照)。しかし主の定められた変化の時が訪れました。ヨッパで,ペテロが夢を見ました。夢の中でペテロは様々な種類の動物が入った「大きな布のような入れ物が,四すみをつるされて」天から地上に降りて来るのを見ました(使徒10:11)。そして「それらをほふって食べなさい」と命じられました(使徒10:13)。ペテロはためらいました。少なくともその一部はモーセの律法によって「清くないもの」と見なされていた動物であり,そのようなものを食べてはならないという戒めをペテロは破ったことがないからです。しかし,夢の中で次のように告げられました。「神がきよめたものを,清くないなどと言ってはならない。」(使徒10:15

この夢の意味はその後すぐに明らかになりました。ローマの百卒長コルネリオから遣わされた人たちがペテロの滞在場所に着き,主人に教えを説きに来てほしいとペテロに頼んだのです。コルネリオは親戚や友人をたくさん呼び集めていました。ペテロは彼らが自分の教えを心待ちにしている様子を見て,次のように言いました。

「神は,どんな人間をも清くないとか,汚れているとか言ってはならないと,わたしにお示しになりました。……

……神は人をかたよりみないかたで,

神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが,ほんとうによくわかってきました。」(使徒10:28,34-3517–24節も参照)

「ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに,それを聞いていたみんなの人たちに,聖霊がくだった。

ペテロについてきた人たちは,異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て,驚いた。

……そこで,ペテロが言い出した,

『この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには,彼らに水でバプテスマを授けるのを,だれがこばみ得ようか。』」(使徒10:44-47

この経験とペテロが受けた啓示により,主はそれまでの教会の慣例を変え,御自分の弟子たちが教義をさらに完全に示されました。こうして福音を宣べ伝える業が全人類に及ぶようになったのです。

使徒行伝の後の方に,これに多少関係したもう一つの例があります。ここでは,教義に関する啓示が評議の場でどのように与えられるかが分かります。モーセの律法で定められた割礼を,キリストの福音や教会の戒めとして続けるべきかどうかについて論争が起こりました(使徒15:1,5参照)。「そこで,使徒たちや長老たちが,この問題について審議するために集ま〔りまし〕た。」(使徒15:6)この評議会の記録は確かに完全ではありませんが,「激しい争論があった後」,先任使徒であるペテロが立ち上がり,聖なる御霊から確認を受けたことを告げました(使徒15:7)。ペテロは評議会の人々に,コルネリオの家で割礼を受けていない異邦人に福音が宣べ伝えられたとき,彼らも割礼を受けたユダヤ人の改宗者と同様に聖霊を受けたことを思い出させました。そして次のように言いました。神は「その信仰によって彼らの心をきよめ,われわれと彼らとの間に,なんの分けへだてもなさらなかった。

しかるに,諸君はなぜ,今われわれの先祖もわれわれ自身も,負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて,神を試みるのか。

確かに,主イエスのめぐみによって,われわれは救われるのだと信じるが,彼らとても同様である。」(使徒15:9-118節も参照)

その後,パウロとバルナバ,そして恐らくほかの人たちもペテロの宣言を支持して語り,ヤコブはこの決定を書面で教会に送り履行することを提議し,「衆議一決」しました(使徒15:2512–23節も参照)。この決定を伝える書面の中で,使徒たちは「聖霊とわたしたちとは……決めた」と述べています(使徒15:28)。言い換えれば,この決定は聖なる御霊を通して神の啓示によってなされたのです。

これと同じ規範が,今日,回復されたイエス・キリストの教会でも守られています。大管長は自分に与えられる啓示をもとに,教義を宣言しあるいは解釈します(例として,教義と聖約第138章参照)。また,教義の説明は,大管長会と十二使徒定員会が合同で評議して行う場合もあります(例として,公式の宣言2参照)。評議の場では,標準聖典や教会指導者の教え,過去の慣例がしばしば検討されます。しかし最終的な目的は,新約聖書の時代の教会と同様,単に評議会の会員の意見が一致することではなく,神から啓示を受けることです。評議は,主の思いと望みを知るために理性と信仰の両方を働かせて行う過程なのです。4

同時に,過去や現在の教会指導者が語ったことが必ずしもすべて教義となるわけではないことを覚えておく必要があります。教会では一般に,一人の指導者がある特定のときに語ったことは,熟慮されたものではあっても個人的な意見であることが多く,教会の公式な見解あるいは教会全体に対して拘束力を持つ言葉ではないと理解されます。預言者ジョセフ・スミスは「預言者は預言者として行動するときにのみ預言者である」と教えています。5 クラーク管長は,先に紹介した話の中でこう述べています。

「この点に関して,わたしが少年のころに父から聞いた短い話があります。出典は分かりませんが,この点をよく表しています。〔ジョンストンの〕軍隊がやって来るということで騒然となっていたとき,ブリガム兄弟は午前の集会で,迫り来る軍隊に果敢に抵抗しようという説教をし,軍隊を迎え撃ち,追い返すつもりだと宣言しました。ところが午後の集会で,ブリガム兄弟は立ち上がると,午前中はブリガム・ヤングが語ったが,今からは主が語られると言ったのです。それから説教をしましたが,その内容は午前の話とは正反対でした。……

……教会員は,兄弟たちが述べる意見が『聖霊に感じるままに』語られた言葉かどうかを,聖霊の証を通して知るでしょう。そしてやがて,その知識が明らかにされるでしょう。」6

預言者ジョセフ・スミスは,わたしたちの教会の教義における救い主の中心的な役割について,次のようにはっきりと述べています。「わたしたちの宗教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストについて立てた証です。すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえって,天に昇られたことです。わたしたちの宗教に関するほかのすべての事柄は,それに付随するものにすぎません。」7イエスについてのジョセフ・スミスの証は,主が生きておられるということです。「まことに神の右に小羊を見〔て〕……〔その御方〕は御父の独り子」であると証する声を聞いたからです(教義と聖約76:2322節も参照)。このメッセージを聞いたり読んだりするすべての人に勧めます。祈りと聖文研究を通して,イエス・キリストの聖なる属性と,贖罪と,復活について,それと同じ証を求めてください。悔い改め,バプテスマを受け,聖霊の賜物を受け,その後,生涯にわたってイエス・キリストの福音の律法と聖約に従うことによって,主の教義を受け入れてください。

復活祭を前に,わたしはナザレのイエスが過去も現在も神の御子であり,いにしえの時代に預言されたメシヤであられることを証します。主はゲツセマネで苦しまれ,十字架の上で亡くなり,埋葬され,3日目に実際によみがえられたキリストです。イエスは復活された主であり,わたしたちは皆,主によって復活し,贖われる意志のある者は皆,主によって贖われ,主の天の王国に高く上げられることができます。これがわたしたちの教義であり,イエス・キリストについて過去に述べられたあらゆる証と,この時代に改めて述べられる証を確認するものです。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. ニール・A・マックスウェル「最初より」『聖徒の道』1994年1月号,21-22参照「ヤコブは教会内の『戦いや争い』を非難しました(ヤコブの手紙4:1)。パウロは教会内の『分争』と『狂暴なおおかみが……群れを荒すようになること』を嘆きました(1コリント11:18使徒20:29-31)。彼は背教が起こりつつあることを知り,テサロニケの人々に,イエスの再臨に先立って『まず背教のことが起〔る〕』と書き送り,さらに『不法の秘密の力が,すでに働いている』と忠告しました(2テサロニケ2:3,7)。パウロはその生涯の終わり近くに,非常に大規模な背教が起きていたことを認め,次のように述べました。『アジヤにいる者たちは,皆わたしから離れて行った。』(2テモテ1:15)……広く行われていた不貞と偶像礼拝を使徒たちは懸念しました(1コリント5:9エペソ5:3ユダ1:7参照)。ヨハネとパウロは偽使徒の出現を嘆きました(2コリント11:13黙示2:2参照)。明らかに教会は包囲攻撃を受けている状態でした。中には道から離れていくだけでなく,公然と敵対する人もいました。あるときパウロは孤立した状況で,『みなわたしを捨てて行った』と嘆いています(2テモテ4:16)。また,『数々の家庭を破壊』した人々を非難しています(テトス1:11)。地方の指導者の中には,ある人が自分の高い地位に執着して兄弟たちを受け入れようとしなかったときに背いた人々もいました(3ヨハネ1:9-10参照)。ブリガム・ヤング大管長が次のように言ったことは驚くに当たりません。『神権が教会から取り去られたと言われていますが,そうではありません。教会が神権から離れたのです。』(Journal of Discourses,第12巻,69)」やがて,ニール・A・マックスウェル長老が述べているように,「ギリシャ哲学の伝統である理性偏重の傾向が支配的となり, 啓示をよりどころとする方法に取って代わりました。善意のクリスチャンが自分たちの信条を当時の文化の主流に合わせたいと願ったことが,拍車をかけたように思われます。…………啓示された教えを社会通念に合わせて変えるようなことはやめましょう。」(『聖徒の道』1994年1月号,23-24参照)

  2. ジョセフ・スミスのような使徒や預言者は神の言葉を宣言するが,それに加えて,わたしたちは一般の男女,さらには子供でさえも,祈りや聖文研究の答えとして神の霊感から学び,導きを受けることができると信じている。古代の使徒の時代とまったく同様に,イエス・キリストの教会の会員には聖霊の賜物が与えられており,それによって天の御父と会話することができる。つまり,個人の啓示が受けられるということである(使徒2:37-38参照)。このようにして教会は霊的に成熟した献身的な個人の集まりとなり,彼らの信仰は盲目的なものではなく,聖なる御霊の示しと確認に基づいている。これは,全会員が教会を代表して語ったり,教会の教義を定義したりできるということではなく,会員一人一人が自分の人生で試練や機会に取り組むために神から導きを受けられることを意味している。

  3. J・ルーベン・クラーク・ジュニア,“When Are Church Leaders’ Words Entitled to Claim of Scripture?” Church News,1954年7月31日付,9-10。教義と聖約28:1-2,6-7,11-13も参照

  4. 評議に参加する人々には「義……,聖さとへりくだった心,柔和と寛容……信仰,徳,知識,節制,忍耐,信心,兄弟愛,および慈愛」といった備えと資質が求められる。「なぜならば,これらのものが彼らの内にますます豊かになるならば,彼らは主を知る知識について実を結ばない者となることはない,という約束があるからである。」(教義と聖約107:30-31

  5. ジョセフ・スミス,History of the Church,第5巻,265で引用

  6. J・ルーベン・クラーク・ジュニア,“Church Leaders’ Words,” 10。クラーク管長は続けて次のように述べている。「実際にそのような事態となったのかどうかは知りませんが,この話は一つの原則を教えています。すなわち,教会の大管長でさえも,民に語るとき,常に『聖霊に感じて』いるとは限らないということです。これは一部の教義に関する問題(たいてい非常に不確かなもの)において起こってきたことであり,そのような場合,後の代の大管長たちや民自身が,それが『聖霊に感じるままに』語られたものではないと感じています。兄弟たちがこうした非常に推論的な原則や教義を推測するとき,掟に必要な『聖霊に感じるままに』語るという条件を満たしているかどうかは,どのように分かるのでしょうか。教会員は,兄弟たちが述べる意見が『聖霊に感じるままに』語られた言葉かどうかを,聖霊の証を通して知るでしょう。そしてやがて,その知識が明らかにされるでしょう。」( “Church Leaders’ Words,” 10)

  7. 『歴代大管長の教え――ジョセフ・スミス』49-50