2010–2019
神聖に保つ
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神聖に保つ

神聖なものはより注意深く扱い,大いなる敬意を与え,より深くあがめられなければなりません。。

紀元前約1500年,一人の羊飼いが導かれ,ホレブ山で燃えるしばを見ました。その神聖な出会いがモーセを羊飼いから預言者へ変え,その業を羊の世話からイスラエルの集合に変えたのです。それから1300年後,宮廷で特権階級の若い祭司が,罪に定められた預言者が語る証に深く心を動かされました。その出会いがアルマを公僕から神の僕に変えました。それからさらに2000年ほど後,14歳の少年が真剣な疑問を抱き,答えを求めて森に入りました。森での出会いから,ジョセフ・スミスは預言者への道をたどり,回復を担うことになりました。

モーセ,アルマ,そしてジョセフ・スミスの人生は皆,神聖なものとの出会いによって変わりました。このような経験により彼らは強められ,敵対する大きな力やその後の厳しい試練に屈することなく,残りの生涯を主とその業に忠実であり続けることができたのです。

神聖なものとのわたしたちの経験はそれほど直接的でも劇的でもなく,乗り越えるべきものもそれほど過酷ではないかもしれません。しかし,忠実に堪え忍ぶ強さを持てるかどうかは,3人の預言者のように,天から受けるものに気づき,それを忘れず,神聖に保つかどうかにかかっています。

今日,権能も鍵も儀式も地上に回復されています。聖文もあり,特別な証人もいます。神を求める人々は罪の赦しを受けるバプテスマと,「火と聖霊によるバプテスマのための按手による」確認を受けることができます(教義と聖約20:41)。このような尊く回復された賜物があるので,神聖なものとの出会いはおもに神会の第3の御方,聖霊を通して得られるのです。

「御霊は小さな声で導く

悪いことはやめるように」

(「小さな声で」『子供の歌集』144)

「みたまはわれに

真理告げたもう

キリスト証し

天開きたもう」

(「みたまはわれに」『賛美歌』82番)

神からの答えを求めるとき,わたしたちは霊にささやきかける静かな細い声を感じます。その感覚や印象はあまりに自然で繊細なため,わたしたちは見過ごしたり,理性や直観だと思い込んだりします。このような個々に与えられるメッセージは,神が一人一人の子供たちを愛し,関心を寄せ,子供たちに現世で個人的な使命があることを証しています。御霊から受けた印象について毎日思い巡らし,それを記録することで,(1)神聖なものとの自身の出会いに気づき,(2)自分と子孫のためにそれを保存するという二つの目的を果たすことができます。記録を残すことは,神に改まって感謝を表すことでもあります。「すべてのことの中に神の手を認めない者……のほかに,人はどのようなことについても神を怒らせることはない,すなわち,ほかのどのような人に向かっても神の激しい怒りは燃えない」からです(教義と聖約59:21)。

御霊によって受けたものに敬意を払うことに関して,主はこのように言っておられます。「上から来るものは神聖であ〔る〕……ことを覚えておきなさい。」(教義と聖約63:64)この御言葉は単なる促しではありません。定義であり,説明でもあります。天からの光と知識は神聖なものです。天がその源であるから神聖なのです。

神聖であるとは,あがめ敬うにふさわしいことを意味します。何かを神聖なものとして定めることで,それにはより大きな価値があって,ほかのものより優先されるべきであると主は示しておられるのです。神聖なものはより注意深く扱い,大いなる敬意を与え,より深くあがめられなければなりません。天で価値あるものを並べると,神聖なものは上位に位置します。

神にとって神聖なものは,選択の自由を働かせることによって,わたしたちにとっても神聖なものとなるのです。神が神聖であると定義なさったものを一人一人が受け入れ,神聖に保つ選択をしなければなりません。神は天から光と知識を送ってくださいます。送ってくださったものを受け取り,神聖に扱うよう神はわたしたちに求めておられます。

しかし,「すべての事物には反対のものが」あります(2ニーファイ2:11)。神聖の反対は不敬なものや世俗のもの,すなわち現世あるいはこの世のものです。この世のものは神聖なものに絶え間なく対抗してわたしたちの注意を引き,優先させようとします。わたしたちが日々現世で暮らしていくためには世俗の知識も必要不可欠です。わたしたちは学問と知恵を探し求め,最良の書物から研究して学び,またもろもろの言語と国語と民族に通じるようにしなければならないと主は勧告しておられます(教義と聖約88:11890:15参照)。このように,世俗のものよりも神聖なものを優先する選択は,相対的な優先順位の選択のひとつであって,どちらかを選んで他をまったく締め出すということではありません。「〔わたしたちが〕神の勧告に聞き従うならば,学識のあるのはよいこと」です(2ニーファイ9:29,強調付加)。

一人一人の心の中にある,神聖なものと世俗のものとの優先順位を巡る闘いは,燃えるしばを見たときのモーセの経験によって説明することができます。モーセはエホバからイスラエルの子らを奴隷の境遇から救い出すという神聖な召しを受けました。しかし,エジプトとパロの力についてこの世の知識があった彼は,初めは疑いました。最終的にモーセは主の御言葉を信じる信仰を働かせました。世俗の知識を抑え込み,神聖なものを信じたのです。信じることによって力を得た彼は,現世の試練を克服し,イスラエルの民をエジプトから導き出しました。

ノアの軍隊から逃れたもののアミュロンの手に落ち奴隷となった後に,アルマはアビナダイの言葉を聞いていた間に受けた霊的な証を疑うこともできたはずです。しかし,彼は神聖なものを信頼し,耐える力を授けられ,現世の試練から逃れました。

ジョセフ・スミスはモルモン書の翻訳を始めたころに似たような窮地に陥りました。彼は版とその翻訳の業が神聖なものだと知っていました。しかし,神聖な指示に反し,友情と経済援助というこの世の問題を優先するようマーティン・ハリスに説き伏せられてしまいました。その結果,翻訳原稿を紛失してしまったのです。主は,「神聖なものを悪に引き渡した」とジョセフをしかり(教義と聖約10:9),しばらくの間,彼を版からも翻訳の賜物からも遠ざけられました。ジョセフの優先順位が再び正しく定まったとき,神聖なものは戻され,翻訳の業が再開したのでした。

モルモン書にはほかにも,神聖なものを優先しようと葛藤する例が記されています。信仰によって命の木まで導かれ,神の愛である神聖な実を食べた信者について語られています。その後,大きな広々とした建物にいる人々にあざけられ,信者は神聖なものから世俗のものに焦点を変えてしまいます(1ニーファイ8:11, 24-28参照)。後にニーファイ人は高慢を選び,預言と啓示の霊を否定して,「神聖なものをあざけり」ます(ヒラマン4:12)。主の降誕にかかわるしるしや奇跡をその目で見た人の中にも,そのような天からの神聖な現れを否定し,世俗の解釈を選ぶ人々がいました(3ニーファイ2:1-3参照)。

今日この葛藤は続いています。世俗の声は大きさも激しさも増しています。世の人々は信じる人々に,この世的に不合理に思えるものを捨てるように駆り立てています。「わたしたちは,……鏡に映して見るようにおぼろげに見て」いて(1コリント13:12)「すべてのことの意味を知っているわけではありません」から(1ニーファイ11:17),わたしたちは自分の弱さを感じ,さらに大いなる霊的な確信が必要だと感じるかもしれません。オリバー・カウドリは主にこう教えられました。

「あなたはこれ以上の証を望むならば,これらのことが真実であるのを知ろうとして心の中でわたしに叫び求めた夜のことを思い出しなさい。

わたしはこの件についてあなたの心に平安を告げなかったであろうか。神からの証よりも大いなる証があるであろうか。」(教義と聖約6:22‐23

主はオリバーとわたしたちに,試練に遭うときには,すでに受けている神聖な個人の証に頼ることを思い出させました。昔のモーセやアルマやジョセフのように,そのような神聖な出会いは,わたしたちが試練に遭うときに安全に守り,正しい方向に進むための霊的な碇となるでしょう。

神聖なものを選んで放棄することはできません。ましてや神聖なものを軽々しく捨ててしまう人々は思いが暗くなり(教義と聖約84:54参照),悔い改めなければ,受けている光も取り去られてしまいます(教義と聖約1:33参照)。神聖なものに支えられずに,世俗の海の中をさまようことになるでしょう。反対に,神聖なものを神聖に保つ人々は次のように約束されています。「神から出ているものは光である。光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして,その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」(教義と聖約50:24

主の祝福によってわたしたちが常に天から受けたものに気づき,忘れず,それを神聖に保つことができますように。そうするときに,試練に耐え,現代の困難な問題を乗り越えることができると証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。