2000–2009
従順による信仰
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従順による信仰

要は信頼の問題です。単純に言えば、「天の御父を信頼しているだろうか」「預言者を信頼しているだろうか」ということなのです。

わたしたちが住んでいるこの世界では、見た目と中身が必ずしも一致するわけではありません。わたしたちは時として気づかないうちに強力な力の影響を受けていることがあります。外観には人を欺く大きな力があります。

何年か前のこと、わたしは外観に欺かれそうになった経験がありまする一つ間違えば悲劇的な結果を招くことになっていたかもしれません。その日は、妻のいとことその家族がユタ州から我が家を訪問していました。オレゴン州の海岸は穏やかな夏の日を迎え、わたしたちは船に乗って海釣りに興じていました。心地よくさけ釣りを楽しんでいたのですが、たまたま後ろを振り返ると、2.5メートルもある巨大な波がわたしたちの方に向かって押し寄せているところでした。わたしはその波が船の横にまともにぶつかる寸前に大声で注意するのがやっとでした。船は何とかひっくり返らずに済みましたが、いとこのゲーリーは船から水中に投げ飛ばされました。わたしたちは皆、救命胴衣を着ていました。そして、半分水浸しになった船を、少し手こずりながらも、ゲーリーの浮かんでいる所まで寄せて、引き上げることができました。

わたしたちはいわゆるスニーカーウエーブ(訳注不意に襲う波の意)に襲われたのでした。スニーカーウエーブはそれほど頻繁に発生するものではなく、いつ起こるか予測する方法もありません。その日、オレゴン州とワシントン州の海岸で3つのボート事故が発生し、溺死者が5人出ていたことが分かりました。どの事故も同様に、何の前触れもなく海上に発生したスニーカーウエーブが原因でした。わたしたちのボートが砂州から出たときには、海は穏やかで、危険を予感させるものは何一つありませんでした。しかし、海はわたしたちを欺き、外観とはまったく違う姿を見せたのでした。

わたしたちはこの人生という旅をするときに、人を欺くもの、また見かけと違うものに対する警戒と用心を怠ってはなりません。うっかりしていると、人生の思いがけない波が海のスニーカーウエーブと同様に死をもたらす可能性があります。

サタンの卑劣な策略の一つは、わたしたちをだまして、原則や神の戒めに疑うことなく従うのは盲従であると信じ込ませることです。サタンの目的は、人をだまして、この世的な生活を続け、利己的な野心に従っても差し支えないと信じ込ませることです、この目的を達成するためにサタンは、「盲目的に」預言者に従い戒めを守る人は自分で考えていないと言い聞かせます。サタンはこう教えるのです、「生ける預言者が、あるいは聖文から語りかける預言者たちが言っているというだけの理由でそれに従うのは、知的な人のすることではない。」

主の戒めに対する無条件の従順は、盲従ではありません。十二使徒定員会会長の代理のボイド・K・パッカー長老は、1983年4月の大会でこの件について次のように教えました。「末日聖徒が従順なのは、強制されているからではありません。ある霊的な真理を理解し、自らの選択の自由により神の戒めに従うと決心しているからなのです』… … わたしたちは盲目だから従うのではありません。見えるからこそ従うのです。」(「自由意志と規制」『聖徒の道』1983年7月号、ll5-ll6)

この従順を「信仰による従順」と呼んでも差し支えないでしょう。信仰によって、アブラハムは従順にイサクを犠牲としてささげようとしました。信仰によって、ニーファイは真鍮しんちゅうの版を手にしました。信仰によって、幼い子どもは従順に高い所から父親の強い手の中に飛び込みます。要は信頼の問題です。単純に言えば、「天の御父を信頼しているだろうか」「預言者を信頼しているだろうか」ということなのです。

サタンが入を欺くもう一つの方法は、この世の知恵と学問こそ知識の唯一の源だから、それに従うべきであると信じ込ませることです。預言者ニーファイの弟ヤコブはサタンの計画を理解し、このように警告しました。

「おお、悪しき者のあの狡猜こうかつな策謀よ。おお、人の虚栄と意志の弱さと愚かしさよ。人は学識があると自分は賢いと思い、神の勧告に聞き従わない。そして自分独りで分かると思って神の勧告を無視するので、彼らの知恵は愚かであって役に立たない。そして彼らは滅びるのである。」(2ニーファイ9:28)

ヤコブは学問を身に付けるべきはないと忠告したわけではありません。ヤコブは続けて、神の勧告に聞き従うのであれば学識があるのはよいことである、と教えています。

神の戒めのうちどの戒めに従うかは自分で選んでもかまわないと信じるようになる人々がいます。そのような人々は、無視してもよい小さな戒め、生命に別状はないと思われる戒め、さして重要とは思われない小さな戒めといった具合に、多くの戒めに自分の都合に合わせてラベルをはります。例えば、祈りをささげること、安息日を尊ぶこと、聖文を読むこと、什分じゅうぶんの一を納めること、集会に出席することなど、リストはさらに続きます。

天の御父はきわめて明確な方法で御自分の子どもたちに語られます。福音の教えの中には、使徒パウロの語ったような不確かな音は一切ありません(1コリント14:8参照)。御霊みたまが語られる言葉や御霊が与えてくださる気持ちが何を意味しているのかについて疑問を差し挟む余地はありません。わたしたちは導きのない状態で放置されてはいません。聖文が、預言者が、愛にあふれる両親と指導者たちが与えられているのです。

わたしたちはどうして時々道からそれてしまうのでしょうか。どうしてサタンの欺きに身を任せてしまうのでしょう。サタンの欺きにどのように対処すればよいのか答えるのは簡単ですが、実践するのは難しい時があります。ハロルド・B・リー大管長は1970年10月の大会で、主およびサタンについて、また、人を欺くサタンの力に対処する方法について次のように語りました。

「主がこの神権時代に教会と世に対する業を終えられる前に、わたしたちは困難な時期を切り抜けなければならない。… … これからサタンのカは強大なものとなっていくだろう。現在その力は至る所に見られる。… … わたしたちは主が預言者を通じて下さる言葉や戒めによく従わなければならない。……信仰と忍耐を必要とするものもあるであろう。」(「イエスの証あかしをなすに雄々しくあれ」『聖徒の道』1982年7月号、110)

リー大管長はさらに続けて「教会の権能ある者から与えられる勧告は必ずしもわたしたちの好みに合うとは限らない。なぜならそのような勧告は個人的な考えと一致しなかったり、社会生活のある部分に干渉したりする可能性があるからである。しかしながら、わたしたちがそのような勧告を、あたかも主御自身の口から出た勧告であるかのように、耳を傾け、実行するならば、サタンに欺かれることなく、すばらしい祝福を受けることになる」という内容の警告を加えました。

つまり従順になるということです。この原則は今後も変わることはないでしょう。それは永遠の幸福の計画に含まれているのです。この世でも次の世でも、人の福利にとってこれほど重要な教義をわたしは知りません。すべての聖文が従順について教え、従順の原則を教えなかった使徒や預言者は過去に一人としていないのです。

時には、律法の与えられた理由を理解できなくても従順になる必要があります。従順になるためには信仰が必要です。預言者ジョセブ・スミスは、従順について「神が求められることは何でも正しい。たとえずっと後にならないと理由が分からないものであっても、そうである」という趣旨の教えを述べました(Teaching of the Prophet Joseph Smith、ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕、256参照)。

わたしはあの夏の日あの海で救命胴衣を身に着けていたことに感謝しています。あのスニーカーウエーブがほかの人々にもたらした悲劇を避けられたことに感謝しています。わたしたちが欺かれサタンの誘惑の声に従うならば必ず被ることになる悲劇を避けるために、従順という救命胴衣をいつも身に着けていることができるよう祈っています。

天の御父が生きておられること、御父がわたしたちを愛しておられること、御父の戒めを疑うことなく守るならば、御父と、わたしたちの救い主、贖あがない主である御子イエス・キリストとともに、再び住むことができるとイエス・キリストの御名みなにより証します。アーメン。