完成への道
    脚注

    完成への道

    4つの信頼できる、具体的な徳を生活の中で実行し、自分のものと〔してください。〕すなわち、感謝の心、学びたいという願望、ひたすら自己修養に努める、進んで努力する姿勢です。

    若い女性会会長会の方々は実にすばらしいお話をしてくれました。そう思いませんか。わたしはこの立派な姉妹たちが今日きょう皆さんに話したことをすべて支持し、その意義を保証します。この姉妹たちはほんとうに天の御父に仕える人々であり、御父の聖い言葉を伝えてくれました。

    預言者ジョセブ・スミスはこのように記しました。「幸福こそ、わたしたちの存在する目的であり計画である。わたしたちがそこに通じる道に従っていけば、最後に到達できるものである。その道とは、徳、公正、忠実、聖きよさ、そして神のすべての戒めを守ることである。」1

    しかし、その道を見つけるにはどうすればよいのでしょうか。さらに、完成に導いてくれる道にとどまるにはどうすればよいのでしょうか。

    ルイス・キャロルが書いた古典『不思議の国のアリス』の中で、アリスは二つの分かれ道に差しかかりました。道は両方ともその先に伸びていましたが、方向は逆でした。チェシャ猫に出会ったアリスは、「わたしはどっちの道を行けばいいの」と尋ねました。

    猫は答えました。「それはおまえ次第だよ。どっちへ行きたいか分からなければ、どっちの道へ行ったって大した違いはないさ。」2

    アリスと違って、わたしたちは皆、自分が行きたい所を知っています。どの道を選ぶかが「大切」です。わたしたちがこの世で進む道は確かに、次の世で進む道に通じているからです。

    昔流行した陽気な歌の歌詞に、物議を醸すこんな一節がありました。「望んでいればそのとおりになるの。望み続けなさいよ。心配事はなくなるわ。」もっと最近の歌には失敗の公式がもう一つ歌われています。「心配しないで。楽しくやろうよ。」

    わたしたちが今晩のテーマとしている「聖なる場所に立つことはさらに適切です。わたしはその次に来る言葉にも価値を感じています。「あなたがたは聖なる場所に立ち、動かされないようにしなさい」3

    第8代大管長ジョージ・アルバート・スミスは次のように強く勧告しました。「幸福と日の栄えの王国に通じる街道にしっかりと足をつけて歩みましょう。時々ではなく、毎日、いつもです。なぜなら、主の側にとどまっているならば、また天の御父の影響を続けて受けているならば、悪魔はわたしたちを誘惑することなどできないからです。けれども、悪魔の領域に入り込むと、 … … 不幸になります。そして罪を悔い改めて、主のもとへ立ち返らないかぎり、その不幸は年々大きくなっていくのです。」4

    わたしはアロン神権を持つ若い男性に話をするときに、ある父親が大切な息子に与えた忠告を何回も引用してきました。それは、「自分がいるべきでない場所にいることが分かったら、そのときはすぐにそこを出なさい」というものです。ここカンファレンスセンターにいる若い女性の皆さんと世界中の集会所に集まっている若い女性にもこの同じ真理が当てはまります。

    一般論に終始している人にめったに成功は望めないが、具体論を展開する人はめったに失敗するものではないことをわたしは常々感じています。したがって、皆さんに、次に挙げる4つの信頼できる、具体的な徳を生活の中で実行し、自分のものとするよう強く勧めたいと思います。すなわち、

    1.感謝の心

    2.学びたいという願望

    3.ひたすら自己修養に努める

    4.進んで努力する姿勢

    です。

    第1は「感謝の心」です。ルカによる福音書第17章には10人のらい病人の話が記されています。救い主はエルサレムへ向かう途中、ガリラヤとサマリヤを通ってある村に入られましたが、その村外れで10人のらい病人に会われました。彼らはその病気のために村の人々から隔離されていたのです。らい病人たちは「遠くの方で」立ちとどまり、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と叫びました。

    救い主は深い同情と愛を込めて言われました。「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい。」彼らは行く途中で、癒いやされたことを知りました。聖書にはこのように記されています。「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、〔主の〕足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。」

    救い主は答えられました。「『きよめられたのは、10人ではなかったか。ほかの9人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか。』それから、その人に言われた、『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。』」5

    神の助けによって、らい病であった人々は、長い苦しみの果てに来る悲惨な死から救われ、新たな命を与えられました。一人の人が示した感謝の思いは主の祝福にふさわしいものでしたが、恩を忘れた9人の行動は主を落胆させました。

    昔のらい病と同じく、現代にも疫病があります。その苦しみは長く続き、人を弱め、滅ぼしていきます。それは至る所に見られます。あらゆるところに広まっているのどんよくです。その疫病は、利己心、貧欲どんよく、放縦、無慈悲、犯罪などと呼ばれていますが、ほかにも挙げていけばきりがありません。

    ある地区大会でゴードン・B・ヒンクレー大管長は次のように語りました。「わたしたちの住んでいる世界には汚れたものが余りにもあふれています。汚れはあらゆる所に見られます。路上にも、テレビにも、書物や雑誌の中にもあります。……まるで大洪水のように、醜く、汚れて、卑劣な姿をして世界中を飲み込んでいます。その汚れに巻き込まれてはなりません。……世界は道徳の標準を失いつつあります。行く手に待ち受けているのは悲しみだけです。幸福への道は、堅固な家族生活を取り戻し、道徳の標準を再び守ることの中にあるのです。その価値は何世紀にもわたって実証されてきています。」6

    ヒンクレー大管長の勧めに従うことによって、人生をこの地上で生きるすばらしい一時ひとときにすることができます。わたしたちには無限の機会が与えられています。良いものがたくさんあります。例えば、よく教える教師、力になってくれる友人、実り豊かな結婚生活、犠牲を払う親などです。

    父と母、家族、友達に感謝しましょう。若い女性の教師に感謝の気持ちを表してください。教師は皆さんを愛し、皆さんのために祈り、皆さんに仕えています。皆さんは教師にとって、また天の御父にとって大切な存在です。御父は皆さんの祈りを聞いておられます。平安と愛を与えてくださいます。御父と御子に近く生活してください。そうすれば、独りで歩むことはありません。

    第2は「学びたいという願望」です。使徒パウロはテモテに「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、 ……信者の模範になりなさい」と言いました。7

    何年も前に大管長会で働いたスティーブン・L・リチャーズ副管長は、物事を深く考える人でした。・リチャーズ副管長はこのように語りました。「同じ心の中に信仰と疑いが同時に存在することはあり得ません。一方が他方を消し去るからです。」信仰を求め、疑いを追い払うようわたしは皆さんに勧告します。

    主は「最良の書物から知恵の言葉を探し求め、研究によって、また信仰によって学問を求めなさい」と勧めておられます。8

    わたしたちは聖文から、預言者と両親の教えから、そしてひざまずいて神の助けを求めるときに受ける霊感を通して真理を見いだすことができます。

    理想を追求するに当たっては誠実でなければなりません。なぜなら、理想は星のようなものだからです。手で触れることはできませんが、星を頼りに歩んでいけば、目的地に着くのです。9

    今晩、若い女性の教師の方々もここに大勢出席しています。ある教師について書かれた次のような評価がすべての教師にぴったり当てはまるとわたしは信じています。「彼女は教室に、生徒を受け入れる温かな雰囲気をつくり出し、すばらしい結果をもたらした。すなわち、教室を、成長と学習の場、想像力を伸ばし、若人の心を活気づける場とした。」10

    第3に、「ひたすら自己修養に努める」について考えてみましょう。

    天の御父はわたしたち一人一人に、考え、理性を働かせ、決断する力を与えてくださいました。そのような力があるので、自己修養が必要となります。

    わたしたち一人一人には選択する責任があります。皆さんは「決断することがそれほど大切なのだろうか」と尋ねるかもしれません。わたしは申し上げます。決断が将来を決めるのです。永遠にかかわる決断には永遠の結果が必ずついて来るのです。

    選択を迫られるときに判断の尺度となる簡単な公式を紹介します。それは覚えやすいものです。「悪いことを行えば正しい人にはなれないし、正しいことを行えば悪い人にはならない。」皆さんの良心は、裁き人として懲らしめを与える前に、いつも友として警告を与えてくれます。

    主は預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示の中でこのように勧告しておられます。「人を教化しないものは、神から出てはおらず、暗闇くらやみである。神から出ているものは光である。」11

    一部の愚かな人々は神の知恵に背を向けて、気まぐれな流行の惑わしや偽りの人気の魅力、一瞬のスリルを追求します。物事を正しく考え、正しい選択を行い、正しく行動するには勇気が求められます。なぜなら、このような生き方はほとんどの場合、容易なことではないからです。

    自己修養のための戦いでは、少しは傷ついたり、疲れ果ててしまったりすることがあるかもしれませんが、必ずわたしたちを向上させてくれます、自己修養は決して生易しいことではありません。努力も苦労もせずに、自分を高めたいと考える人が非常に多くいます。一時的に後退することがあっても、自己修養の過程で最も大切な要素はもう一度挑戦する決意と勇気です。

    愛する若い姉妹の皆さん、わたしは皆さんを表す言葉として、1942年4月6日に大管長会が述べた次の言葉以上に適切な表現を知りません「清い若者、それは何と輝かしく、天使に近いものでしょう。そのような若者は、この世において言葉に尽くせぬ喜びを味わい、次の世において永遠の幸福を得ることでしょう。」12

    御父の王国において永遠の命を得ること、これが皆さんの目標です。これを成し遂げるにはどうしても、自己修養が必要です。

    最後に、わたしたち一人一人が「進んで努力する姿勢」を養いましょう。何年も前に、大管長会で奉仕したJ・ルーベン・クラーク副管長はこのように語りました。「わたしたちがこの世にいるのは努力するためであり、これを免除されている人はいない、とわたしは信じています。できるだけ早く若いうちに努力することの大切さを知る必要があると思います。成功や進歩を目指すなら、努力しなければなりません。それ以外に方法はありません。」13

    「押せ、肩の力もて」14というのはわたしたちの好きな賛美歌の一節であるだけでなく、努力するようにとの命令でもあるのです。

    たぶん例を挙げると分かりやすいでしょう。引き延ばしは確かに時間のどうぼうです。特に、熱心に努力するのを引き延ばす場合は、まさしくこのことが言えます。学校の試験に備えるために、怠らず勉強する必要があることを例に取ってみましょう。人生の試験についてはなおさら準備が必要です。

    学生生活を楽しむことに追われて、試験の準備を引き延ばしていたある大学生を知っていますも試験前日の夜遅くなって、この学生は試験の準備をしていないことに気づきました。彼女は言い訳を考えました。「さて、どちらがより大切だろうか。自分の健康ならば眠らなければならない。それとも苦労して勉強することだろうか。」恐らく皆さんはこの結末の想像がつくことでしょう。睡眠が勝利を収め、勉強は敗北しました。そして、試験はさんざんな結果でした。わたしたちは努力しなければなりません。

    したがって、これがわたしの提案する公式です。

    1.感謝の心

    2.学びたいという願望

    3.ひたすら自己修養に努める

    4.進んで努力する姿勢

    です。

    すべての人の人生には、絶望のあまり神の導きを、たとえ声に出して嘆願しなくても、必要とする瞬間が訪れます。わたしは全身全霊をもって証あかしします。天の御父は皆さんを愛し、心にかけておられ、決してお見捨てになりません。

    わたしが大切にしている個人的な経験を例に取って説明したいと思います。わたしは長年にわたり、割り当てを受けて、いわゆる鉄のカーテンによって遮られていたドイツのあの地域を訪れてきました。共産主義者の支配下で、ドイッのその地域に住んでいた人々はほとんどすべての自由を奪われていました。青少年の活動は制限され、行動はすべて監視されていました。

    ドイツのその地域を担当するようになって間もなく、その地で開かれた非常に感動的な大会に出席しました。霊感にあふれた歌や話が終わると、わたしはその古い建物の外で短い間、愛すべき10代の青少年と話したいという思いに駆られました。人数は比較的少数でしたが、皆わたしの話す言葉の一語一語を熱心に聞き入っていました。主の使徒の言葉と励ましに飢えていたのでした。

    大会出席に先立って、合衆国を出発する前ですが、わたしはチューインガムを3箱買うようにとの導きを受けました。そこで3種類の味のガムを買っておいたのです。ダブルミント、スペアミント、ジューシーフルーツです。さて、その青少年の集まりが終わると、ガムを一人に2本ずつ注意して配りました。皆が初めて口に入れるものでした。青少年たちはこのお土産を喜んで受け取ってくれました。

    それから何年か過ぎて、わたしはドレスデンを訪れました。かつて大会が開かれた所です。そのときには礼拝堂がありました。人々はすでに自由を手にしていました。神殿もあります。ドイツはもはや政治的な境界線によって分断されていませんでした。一つの国家となっていたのです。かつての青少年は子どもを持つ成人となっていました。

    大勢の人々が出席した霊的な大会が終わると、一人の母親とその娘がわたしを捜して話をしたいと言ってきました。皆さんの年ごろのその娘は幾らか英語を話しました。そしてこう言ったのです。「モンソン副管長、昔、地方部大会の後で青少年のために短い集会が開かれて、その後で一人一人にチューインガムを2本ずつ配ってくださったのを覚えていらっしゃいますか。」

    わたしは「はい、確かによく覚えていますよ」と答えました。

    その娘は続けて言いました。「母はその贈り物を頂いた一人です。母は1本のガムを小さくちぎって食べたそうです。それがどれほどおいしく、また大切なものだったかを話してくれました。」それから、母親がにこやかにうなずいているところで、娘は小さな箱をわたしに手渡しました。ふたを開けて見ると、もう1本のガムが入っていました。20年近い昔そのままの紙が巻かれていました。そして娘はこう言いました。「わたしたちはこれをあなたに受け取っていただきたいのです。」

    皆涙を流し、抱き合いました。

    しばらくして、母親が言いました。「昔、モンソン長老が大会においでになる前に、わたしは天のお父様がほんとうにわたしを気にかけてくださっていることを知りたいとお祈りしていました。わたしがその贈り物を取っておいたのは、天のお父様が確かに祈りを聞いてくださることを忘れないためと、娘にそれを教えるためでした。」

    今晩その贈り物をここに持って来ています。これこそ、御父とその御子イエス・キリストが天から助けを与えてくださるという信仰と確信のしるしなのです。

    復活祭を明日に控えた今宵こよい、わたしたちの罪を贖あがなってくださった御方、どのように生きるべきか、どのように祈るべきかを教えてくださった御方に思いをはせましょう。主はわたしたちがそれをどのようにしたらよいかを自らの行いによって示してくださいました。馬屋で誕生し、かいばおけで揺られたこの神の御子、主イエス・キリストは御自分に従うようわたしたち一人一人を招いておられます。「ああ、喜びの言葉『主は生けりと知る』」15イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。