あなたがたの行うことを神聖にしなさい
    脚注

    あなたがたの行うことを神聖にしなさい

    神聖にすることについて思いを巡らし、探求を続けるならば、無理にからぬことですが、求められるかもしれない事柄を考えて内なる心が震えるます。しかし、主は次のような慰めの言葉を授けてくださっています。「私の恵み[は]あなたがたに対して十分あ[る]。(教義と聖約77:8)

    この話は、不完全ながらも信仰の家族とともに努力を重ねている人々に向けてのものです。そしていつもと同じように、自分に言い聞かせるつもりでお話しいたします。

    神聖にする、つまり神から何かをささげるように命じられた場合、わたしたちは物質的な財産を提供する意味だと考えがちです。しかし究極的には、自分自身を神にささげることにほかならないのです。キリストは「心や精神、思い」という言葉を鍵かぎとして第一の戒めをまとめておられますが、これは、気が向いたときだけでなく常に求められていることです(マタイ22:37参照)。これを守ればその結果として、わたしたちの行うことは神聖なものとなり、自分自身に永遠の幸いをもたらすものとなるでしょう(2ニーファイ32:9参照)。そのような態度は、感情や思考、言葉や行いを従順に一致させることを意味し、無関心とはまったく反対のものです。「なぜならば、仕えたこともなく、見も知らぬ他人で、心の思いと志を異にしている主人を、どのようにして人は知ることができようか」とあるからです(モーサヤ5:13)。

    多くの人は神聖にすることを無視します。あまりにも捕らえどころがなく、しかも遠大なものに思えるからです。しかしながらわたしたちの中の良心的な人々は、前進と引き延ばしが相半ばするために、神から霊感されて不満足を経験します。そこでわたしは、神聖にすることが大切であると確認するために、愛を込めてこの話をしたいと思います。皆さんの今後の旅路への励ましとなり、またそれぞれが経験する様々な困難への慰めとなれば幸いです。

    霊的な従順さは瞬時に達成されるものではありません。改善の積み重ねと、踏み石を一歩一歩進むことが求められます。もともと踏み石は一歩一歩進むためのものです。「子供が父に従うように、 ……喜んで従〔う〕」とき、やがてわたしたちの意志は「御父の御心みこころにのみ込まれて」しまいます(モーサヤ15:7;3:19参照)。そうでなければ、いかに努力していても常にこの世の渦にさらされていると感じ、部分的ではあっても道をそれてしまうのです。

    物質的なささげ物を例にして話すことにしましょう。アナニヤとサッピラは資産を売ったときに「その代金〔の一部〕をごまかし」ました(使徒5:i-11参照)。あまりにも多くの人が特定の「一部」に固執し、妄想さえも所有物のように扱っています。このように、ほかに何をすでにささげていようと、最後の一部をささげるのが最も難しいのです、一部でもささげる方が何もささげないよりはいいことは認めますが、それは「会社で社会事業に寄付しているから」と言い訳して断るのとかなり似通っています(ヤコブの手紙1:7-8参照)。

    例えば、与えられているある特定の才能を自分のものと誤解している人がいます。もしわたしたちが神よりもその才能に頼り続けるならば、第一の戒めを完全に守っていることにはなりません。なぜなら、神はいかなる瞬間にも「息を与え」てくださっているのですから、神以外のものに息を異常に消費するのは薦められません(モーサヤ2:21)。

    つまずきの石は、時間と金銭では惜しみなく神に仕えても内なる自分をすべてささげていないときに現れます。つまり、まだ完全に主のものになっていないのです。

    中には与えられた特定の仕事が夕暮れを迎えることをなかなか受け入れられない人がいます。しかし、イエスの群れが大きくなることについて「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と述べたバプテスマのヨハネを模範にしてください(ヨハネ3:30)。今受けている責任だけを神の愛の尺度だと誤って解釈すると、手放したくない気持ちに拍車がかかるだけです。兄弟姉妹、わたしたちの個人としての価値は「大いなるもの」としてすでに神によって定められています。株式市場のように上がり下がりすることはないのです。

    また、かの金持ちで義にかなった青年のように、自分に足りないものに進んで取り組もうとしないために用いられない踏み石があります(マルコ10:21参照)。その結果、残った利己心が露呈するのです。

    こうした躊躇ちゅうちょは様々な形を取ります。例えば、月の栄えの王国に属するのは「高潔な」人々で、偽りの証あかしを持つ人々でないことは明らかです。しかし、それでも彼らは「イエスの証に雄々しくない者」なのです(教義と聖約76:75、79)。イエスについて雄々しく証する最善の方法は、着実に主に似た者となることです。そして、そのキリストのような属性をわたしたちに刻み込んでくれるのが、神聖にするということなのです(3ニーファイ27:27参照)。

    これまで述べてきた課題を達成していくに当たり、幸いにも霊的な従順さが手段として効果を及ぼします。時にはそれは、この世の命も含めて様々なものを「手放す」ことであり、あるいは「しっかりつかまる」ことであり、あるいは次の踏み石を使うことなのです(1ニーファイ8:30参照)。

    しかし、先を見通す目がないと、数メートル先も非常に怖くなることがあります。強力なパロとその軍勢から逃れようとする古代イスラエルの民を神がどのようにお助けになったを知っていたにもかかわらず、近視眼的なレーマンとレムエルは、一介の地方の人物であるラバンについて神の助けが得られるとの信仰がありませんでした。

    また、上司や趣味の分野での先輩に必要以上にへつらうならば、神から目をそらすことになりま曳真の神ではなく「他の神々」を喜ばせることもまた、第一の戒めを破ることになるからです(出エジプト20:3参照)。

    わたしたちは時々自分の特異性を弁護することすらあります。その目障りな部分をあたかも自分の個性だと考えるのです。主の弟子になるということは、預言者ジョセフ・スミスが証しているように、ある意味で「体をぶつけるスポーツ」にたとえられます。

    「わたしは大きな粗い石に似ています。……わたしが唯一磨かれるときといえば、それは、何かほかのものと接触することによって、すなわち、 ……加速された力でぶつかることによって、削り取られるときですもこのようにして、わたしは、全能者の矢筒の中で、滑らかな研ぎ澄まされた矢となるのです。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith)、ジョセブ・ブイールデイング・スミス選〔1976年〕、304)

    ひざがかがんでも心がかがむまでには時問がかかるので、神にすべてをささげようとしないために人類の最も優秀な頭脳が神の業に参加できないでいます。「思ってもみない」ことを学んだモーセのように柔和になる方がはるかにいいのです(モーセ1:10)。しかし悲しいことに兄弟姉妹、選択の自由や個性が微妙に交錯する中で、なかなか一歩を踏み出せないことが多いのです。心を主に従わせることは勝利にほかならないのです。なぜなら、そうすることによってより広くより高い神の道へと導かれるからです(イザヤ55:9参照)。

    皮肉にも、良いことであるにもかかわらず、あまりにも一生懸命になるために神への献身がないがしろにされることがあります。例えば、スポーツや身体強化に夢中になっている人がわたしたちの中にいます。自然を敬っているにもかかわらず、自然をお造りになった神を無視している人がいます。良い音楽にのめり込んでいる人、同様に価値ある職業を無上のものとしている人もいます。そのような状況の中でしばしば顧みられないのが「もっと重要な」ことです(マタイ23:23。1コリント2:16も参照)。実行可能な最も良いことへとわたしたちを導いてくださるのは、至高者御一方だけなのです。

    イエスは強調を込めて、二つの大いなる戒めにほかのすべてのものがかかっていると宣言されました。逆ではありません(マタイ22:40参照)。重要さで劣る他のものを懸命に追求するあまり、第一の戒めがないがしろにされてはなりません。重要さで劣るものを礼拝することはないからです。

    義にかなった働きの刈り取りを楽しむ前に、まずは神の手を認めようではありませんか。そうでないと次のような合理化が頭をもたげます。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た。」(申命8:17)また、(ギデオンの思慮深い小さな軍隊を除く)古代イスラエルの民が「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と大言壮語したように、自ら「誇〔って〕」しまうのです(士師7:2)。自分自身の「手」を自慢すると、すべてのことの中に神の御手みてを認めることが2倍難しくなります(アルマ14:11;教義と聖約59:21参照)。

    最も偉大な人物の一人モーセはメリバと呼ばれる地で、水を巡って騒ぐ民に辟易へきえきしていました。ほんの一瞬、モーセは「軽率なこと」を口にします。「われわれがあなたがたのために……水を出さなければならないのであろうか。」(詩篇106133;民数20:10。申命4:21も参照)この代名詞の問題(訳注モーセは「主が」と言うべきところを「われわれが」と言ってしまった)を通じて主は偉大な人物モーセを教育し、さらに大いなる者とされました。わたしたちもモーセのように柔和になることができます(民数12:3参照)。

    イエスは決して、決して、決して焦点を失われませんでした。各地でたくさんの善い業を行われたにもかかわらず贖罪しょくざいが待ち受けていることをいつも御存じだったイエスは、先を見通してこう願い求められます。「父よ、この時からわたしをお救いください。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」(ヨハネ12:27。5:30;6:38も参照)

    皆さんやわたしが愛や忍耐、柔和さをはぐくんでいくにつれて、神と人に自分をささげなければなりません。さらに言えぱ、機会に恵まれた人生の旅路の中で、わたしたちとまったく同じ環境に置かれている人はほかにいないのです。

    踏み石はあまり踏み込みたくないような新しい領域にわたしたちを連れて行くかもしれません。したがって、踏み石を上手に使う人はほかの人々を強力に啓発してくれる人だと言えま義わたしたちが通常いっそう注意を払うのは、心の中でひそかに称賛する人々に対してです。空腹の放蕩ほうとう息子は家の食事を思い出しましたが、同時にほかの記憶にも駆り立てられ、こう言いました。「立って、父のところへ帰〔ろう。〕」(ルカ15:18)

    完全に主に従うように努力するとき、ほんとうにどうしても神にささげなければならないものはわたしたちの意志だけになります。通常主にささげるささげ物とそれを生み出した恵みに、「送り主へ返送」というスタンプが押してあっても当然なのです。そのお返しとして主が一つのささげ物を受け取られるときですら、十分忠実な人々は「〔神が〕持っておられるすべて」を受けるのです(教義と聖約84:38)。何と驚くべき交換率でしょう。

    一方、以下のような厳然とした事実が残っています。神はわたしたちに命と選択の自由、才能と機会を授けてくださいました。また、財産を与えてくださいました。さらに、現世の期間を割り当て、人生を全うできるようにしてくださいました(教義と聖約64:32参照)。そのような見方に従えば、バランスに関する重大な過ちを犯すことはありません。こうした過ちには、ダブルカルテットを聴いてタバナクル合唱団と間違うよりはるかにこっけいなものがあります。

    ヒンクレー大管長はわたしたちが聖約の民であるべきことを強調する中で、聖餐せいさんや什分じゅうぶんの一および神殿の聖約を重要視し、犠牲をささげることを「贖罪の真髄そのもの」と述べています。まさに至言です。(Teachings of Gordon B. Hinckley〔1997年〕、147)

    驚くべき従順さを示されたのは救い主でした。主は贖罪の苦悩と苦悶くもんに直面されたとき「その苦い杯さかずきを飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った」のです(教義と聖約19:18)。わたしたちも小さく不完全なスケールではありますが、試練に遭います。そして、何らかの形でそれを取りのけていただくことを願うのです。

    このことを考えてください。もしもイエスがもっと多くの奇跡を行われたとしても、ゲッセマネとカルバリでの人知を超えた奇跡は行われなかったとしたら、主の業の重要性はどうなっていたでしょうか。ほかの奇跡によって、ある人々は命が延ばされたり、苦痛が軽減されたりしました。しかしこれらの奇跡は全人類の復活という最も偉大な奇跡と比べられるでしょうか(1コリント15:22参照)。パンと魚を何倍にもすることによって、腹をすかした群衆は満たされました。でも、食べた群衆はまたすぐに空腹になります。しかし、命のパンを食べた人は二度と飢えることがありません(ヨハネ6:51、58参照)。

    神聖にすることについて思いを巡らし、探求を続けるならば、無理からぬことですが、求められるかもしれない事柄を考えて内なる心が震えます。しかし、主は次のような慰めの言葉を授けてくださっています。「わたしの恵み〔は〕あなたがたに対して十分であ〔る。〕」(教義と聖約17:8)わたしたちは心から主を信じているでしょうか。主はまた、弱さを強さに変えると約束してくださいました(エテル12:27参照)。わたしたちはほんとうに進んでその変化に身をゆだねているでしょうか。完全を求めるのであれば、主に対してもすべてをささげる必要があります。

    わたしたちの意志がますます御父の御心にのみ込まれてしまうということは、実はわたしたち自身が高められ、広げられ、「〔神〕が持っておられるすべて」を受ける力が増すことなのです(教義と聖約84:38)。さらに言えば、わたしたちの意志がもっと主の御心と似たものにならずに、主から「すべて」を託されることが可能でしょうか。また、すべてをささげていない者が主の「すべて」の意味を正しく理解できるでしょうか。

    率直に申し上げて、何であってもすべてをささげないとき、わたしたちは自らの可能性を裏切ることになります。したがって、「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と尋ねる必要はないのです(マタイ26:22)。それよりも、わたしたち個人のつまずきの石について、「主よ、これですか」と尋ねましょう。わたしたちは以前から答えを知っていて、主の御言葉よりも自分自身の決意が必要なのかもしれません。

    神の寛大な計画における最高の幸福は、進んで自らを高め、犠牲を払いながら神の荘厳な王国への旅路を進む人々のために最終的に取っておかれるのです。兄弟姉妹の皆さん、「来てください。旅をともに続けましょう。」(「来たれ、旅を共に続けん」『賛美歌』135番参照)「伸べられた腕」をお持ちの主(教義と聖約103:17;136:22参照)、イエス・キリストの御名みなにより申し上げます。アーメン。