2000–2009
闇を出て驚くべき主の光の中へ
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闇 やみ を出て驚くべき主の光の中へ

救い主のいの象徴は、闇の中でつまずく必要がないことをわたしたちに思い起こさせてくれます。主の光を常に共にすることができるのです。

旧約聖書の偉大な預言者イザ旧ヤは、こう預言しました。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、 ……すべて国はこれを流れて〔来る。〕」1 ジョン・テーラー大管長はこれらの国の国民について、このように語りました。「彼らはやって来て、このように言うでしょう。わたしたちはあなたがたの宗教が教える原則について何も知りませんが、あなたがたが正直な人であって、公平と義によって治めていることは分かります。」2

「暗闊から」引き出される

ソルトレーク・シティーで開催された2002年冬季オリンピックおよびパラリンピックを通して、わたしたちは数多くある預言の一部が成就される様子を目にしました。世界中の国民とその多くの指導者がやって来ました。彼らはわたしたちがこの地域の友人やほかの宗教を持つ隣人と一緒になって奉仕する姿を目にしました。彼らはわたしたちの目に宿る光を見て、わたしたちが差し出す手の感触を確かめました。まばゆいばかりに輝く尖塔せんとうを持つ「主の家の山」3を全世界の35億の人々が目にしました。世界中の人々がタバナクル合唱団のすばらしい歌声に聴き入りました。ホールで公演されたミュージカル、「ライト・オブ・ザ・ワールド:命への賛歌人の霊、神の栄光」(Light of the World: A Celebration of Life—Spirit of Man、 Glory of God)を見るために数十万の人々が詰めかけました。わたしたちはこの公演を通してイエス・キリストに対する信条を明らかにしました。これらとそのほか多くの手段によって、末日聖徒イエス・キリスト教会が引き続き「暗黒から、また暗闇から」4引き出されていることをわたしはへりくだって感謝したいと思います。

オリンピックの期間を通じて、オリンピック聖火、光の子、そしてテーマである「内なる炎を燃やせ」5など、様々な形で光が表現されてきました。恐らく最も忘れることのできないのは選手たちの目に輝いていた光でしょう。しかし最も大きな感動を与えたのは競技自体や競技で繰り広げられた見事な技の数々ではありませんでした。これらが象徴している深遠な真理、つまりわたしたち一人一人の内にある光の源でした。今朝、わたしは次のような質問をした方々にお話しします。「わたしが見たり感じたりした光は一体何だろうか。それはどこから来るのだろうか。そして、わたしとわたしの愛する人たちがそれをいつも受けるにはどうすればよいのだろうか。」

キリストの光と聖霊の賜物

わたしたちは皆、キリストの光と呼ばれる光を持って地上にやって来ます。「わたしが世に来るすべての人を照らすまことの光である」6と救い主は言われました。

「これは万物の中にあり、万物に命を与える光で〔す。〕」7

「いつも善を行うように誘い、促す」8 この光は、「善悪をわきまえることができるように、すべての人に… … 与えられている」9 のです。

キリストの光を使って正しいものを見分け、それを選ぶことによって、わたしたちはさらに大いなる光へと導かれます。それは聖霊の賜物です。福音と神の聖なる神権の回復によって、この末日におけるイエス・キリストの弟子たちは、聖霊の賜物を授ける力を持っていることを証あかしします。聖霊の賜物は、神権の権能を持つ者が按手あんしゅによって授けます。そして、信仰と悔い改めの原則に従い、罪の赦ゆるしのために水に沈めるバプテスマの儀式を受けた者が聖霊の賜物を授かるのです。

聖霊は神会の3番目の御方であり、霊の御方です。10聖霊は慰め主であり、神の御霊みたまであり、約束の聖なる御霊です。聖霊はイエス・キリストとその御業みわざ、そして地上における主の僕しもべたちの働きを証されます。聖霊はわたしたちの罪を取り除き、聖きよめる働きをされます。11聖霊はわたしたちを慰め、心に平安を与えてくださいます。聖霊を常に伴侶とする権利は、わたしたちがこの世で受けることのできる最大の賜物の一つです。なぜならば、聖霊の導きと清めの力によって、わたしたちは神の御前みまえに戻ることができるからです。12

暗闇と光

子どものころにわたしたちは電灯のスイッチを入れることによって暗闇を追い出せることを学びました。夜、両親が出かけているときなどは、家中の電灯をともしたものです。わたしたちは物質界の法則が霊に関する法則でもあることを理解しました。つまり、光と闇は同時期に同じ空間で共存できないということです。

光は闇を追い払います。光があるときに、闇は消えるか去って行かなければなりません。もっと大切なことは、光が弱まったり、去って行ったりしないかぎり、闇は光に打ち勝つことができないということです。聖霊のもたらす霊的な光があるときに、サタンの闇は去って行きます。

愛する教会の若い男性、女性の皆さん、わたしたちは光と暗闇の力の間で繰り広げられている戦いに加わっています。イエス・キリストとその福音の光の側に立っていないと、暗闇の力によって破滅を迎えることになります。しかし、救い主は言われました。「わたしは光としてこの世にきた。」13 「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」14

主はわたしたちの光であり、文字どおり、わたしたちの救いです。15 皆さんがふさわしい生活を送っているならば、第三ニーファイで子どもたちを取り囲んだ聖なる火のように16、主の光はあなたと悪魔の闇とを隔てる防御の盾となります。皆さんにはその光が必要です。わたしたちにはその光が必要なのです。聖文と『若人の強さのために』を注意深く研究し、両親や指導者の教えに耳を傾けてください。知恵ある勧告に従うことによって、守りとなる福音の光を自分のものとしてください。

皆さんは「どうしたらそれができるのだろうか」と考えるかもしれません。その方法は一つしかありません。イエス・キリストを信じ、主の戒めを守ることによって、毎日その光を生み出すことを学ばなければなりません。

光を生み出す

わたしはこの冬に、自分の肺について多くのことを知る機会がありました。人間は酸素を蓄えられないことがよく分かりました。どんなに努力をしても、呼吸するために必要な空気を蓄えておくことはできません。刻々と、また呼吸する度に、わたしたちに命が与えられ、再生されていきます。これは霊的な光についても同じことが言えます。定期的に新たな光が必要です。悪魔の闇を遠ざけるには、日常の義にかなった行いによって霊の光を一日一日、思いを巡らす度に生み出さなければなりません。

少年時代にわたしはバスケットボールの練習が終わると、夜道を自転車に乗って家に帰りました。帰るときはいつも、小さな西洋梨の形をした発電機を自転車のタイヤに接触させるのでした。ペダルをこぐと、タイヤが小さな回転子を回し、それが電力を生み、1本の光の柱を発生させるのです。単純ですが、有効な装置でした。しかし、光を発生させるにはペダルをこがなければなりません。ペダルをこぐのをやめると、光は消えてしまうことをすぐに覚えました。ペダルをこぐことに「熱心に……携わ」17 ると、光はもっと明るくなって、目の前の闇は消え去ることも知りました。霊的な光を発生させるには毎日霊的なペダルをこがなければなりません。祈り、聖文を研究すること、断食、奉仕、そして福音に従った生活をし、戒めを守ることによって霊の光は生まれます。「神の戒めを守る者は真理と光を受け」18 ると主は言われました。「光を受け、神のうちにいつもいる者は、さらに光を受ける。そして、その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」19兄弟姉妹の皆さん、わたしたちが父なる神とイエス・キリストの御前に立つときそこは真昼のような輝きを放つのです。

時々人々は次のような質問をします。「なぜ聖餐せいさん会へ行かなければならないのだろうか。」あるいは「なぜ知恵の言葉を守り、什分じゅうぶんの一を納めなければならないのだろうか。」「なぜ片足をバビロンに入れてはならないのだろうか。」その理由を説明しましょう。霊のペダルをこぐには両足が必要だからです。福音に患実に従って生活しないかぎり、つまり「心と、勢力と、思いと、力」20を尽くして生活しなければ、闇を追い出すだけの霊的な光を発生させることができないのです。

この世において、暗闇は遠く離れた所にあるわけではありません。いつも近くに潜んでいて、入り込む機をうかがっているのです。「もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」と主は言われました。21

それは物資界の法則と同じように予告することが可能です。戒めに従わないことによって、あるいは聖餐を受けず、祈らず、聖文を研究しないことによって、御霊の光を明滅させたり、弱めたりすると、悪魔の暗闇は必ず入り込んできます。「あの邪悪な者が来て、 ……不従順によって、 ……光と真理を取り去る」のです。22

聖文には、「光なき暗やみに手探り」し、「酔うた者のようによろめ」く者がいると記されています。23よろめいている間に、わたしたちは薄暗い環境に慣れてしまって、光の中を歩くことのすばらしさを忘れてしまうかもしれません。

光に通じる道

「暗黒の霧」24から抜け出して、この世においては幸福に、来るべき世においては永遠の命に通じる道へと導いてくれる方法が一つあります。主はイザヤに言われました。「わたしは目しいを彼らのまだ知らない大路おおじに行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光と……する。」25

預言者ニーファイはその道について説明しています。「したがって、わたしの愛する同胞はらからよ、もしあなたがたが十分に固い決意をもって御子に従い、神の前に決して偽善と欺きを行うことなく誠意をもって行動し、罪を悔い改め、バプテスマによって、まことに、あなたがたの主であり救い主である御方に従い、主の言葉のとおりに水に入り、バプテスマを受けることによって、キリストの名を喜んで受けることを御父に証明するならば、見よ、そのとき、あなたがたは聖霊を受ける。すなわち、そのとき火と聖霊によるバプテスマを受ける。」26

バプテスマのときに交わし、聖餐を受けるときに新たにする聖約、すなわちイエス・キリストの御名を受け、いつも御子を覚え、御子の戒めを守ることには、いつも御子の御霊を受けるという約束が含まれています。わたしたちは常に光を共にすることができます。27 救い主の贖いの象徴は、闇の中でつまずく必要がないことをわたしたちに思い起こさせてくれます。主の光を常に共にすることができるのです。

「そのように、あなたがたの光奄……輝かし……なさい」

ニューヨーク州ロングアイランドで成長したわたしは、闇に包まれた外洋を航海する人々にとって光がどれほど大切かを理解していました。灯台が機能しなかったらどれほど危険なことでしょうか。灯台の明かりがともされなかったとしたら、どれほど大きな惨事を招くことでしょうか。

聖霊の賜物を持つわたしたちは、人々の光となれるように聖霊の導きに誠実に従わなければなりません。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」28 と主は言われました。

だれがわたしたちを頼ってくるのか、わたしたちには分かりません。救い主が言われたように、わたしたちは「彼らが立ち返って悔い改め、十分に固い決意をもってわたしのもとに戻って来るようにならないとは言い切れないからである。彼らがそうするならば、わたしは彼らを癒いやそう。だからあなたがたは、彼らに救いをもたらす者になりなさい。」29

主の光の特別な証人

さて、兄弟姉妹の皆さん、光と闇との間で繰り広げられているこの最後の大きな戦いにおいて、わたしは「キリスト・イエスの〔弟子〕として、 ……苦しみを共に」30する機会に感謝しています。わたしはパウロと声を合わせて宣言します。「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。」31 わたしは特別な証を述べたいと思います。イエス・キリストは「世の光であり命であられ〔ます。〕まことに、決して暗くなることのない無窮の光で〔す。〕」32

主は現世における母マリヤと全能の神である御父からお生まれになったべッレヘムの光です。

主はバプテスマのヨハネによって水に沈められるバプテスマを受けられた光であられ、聖霊は鳩はとが降るように御霊の現れを主に示されました。

主は御父の御心にかなう光です。主は、十二使徒、預言者、七十人によって組織された古代の教会の頭に立つ光です。

主はゲッセマネの園とゴルゴタの上において成就された贖いの光であって、全人類が永遠の救いにあずかれるように世の罪を御自身に受けられました。

主は、空になった墓の光であって、栄光を受けた骨肉の体をお持ちの復活された主であり、死の縄目を断たれ、墓に対して永遠の勝利を収められた御方です。

主は、再び同じ有様ありさまで戻って来ることを約束して、弟子たちの前で天に昇って行かれた光です。

主は御父とともに現れて、預言者ジョセフ・スミスを通して、主御自身が地上で務めを果たしておられたときに設立したと同じ教会を回復された光です。

主は預言者と副管長、そして十二使徒に啓示を与えることによって今日こんにちの教会を導いておられる光です。

主はわたしとそして皆さんの光であり、贖い主であり、救い主です。

わたしは神が生きておられることを知っています。主は「暗やみから驚くべきみ光に」33わたしたちを招いてくださったことを知っています。主の回復された福音の光が全世界に広められて、あらゆる人に聞いて選ぶ機会が与えられ、主の教会が「暗黒の荒れ野から出て来て、月のように美しく、太陽のように輝き」、主の「栄光が地に満ちますように」34お祈りします。イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。