2010–2019
信じることを選ぶ

信じることを選ぶ

救い主は,御自身を信じて従うことを選ぶ人々を導く光として主の福音を与えてくださっています。

去る1月,7歳のセイラー・グツラーとその家族は自家用機でフロリダからイリノイに向かっていました。セイラーの父親が操縦をしていました。日暮れ直後に,飛行機は故障に見舞われ,ケンタッキーの非常に起伏の多い地形の真っ暗な丘に逆さまに墜落しました。その事故で,セイラーを除いて全員が死亡しました。彼女はその衝突で手首を骨折しました。切り傷と擦り傷も受け,靴も失くしました。気温は華氏38度(摂氏3度)で,冷たい雨の降るケンタッキーの冬の夜でした。セイラーはショートパンツにTシャツ,それに片方の靴下しか身に着けていませんでした。

母親と父親を探して叫びましたが,応える人は誰もいませんでした。勇気を振り絞って,セイラーは助けを求めて裸足でその険しい地帯を歩き始めました。川を渡り,溝を越え,頑張ってブラックベリーのいばらの中を通り抜けました。ある小高い丘の上から,セイラーは2キロほど離れた遠くに光を見つけました。その光に向かって,暗闇の中,茂みの中をつまずきながら進み,セイラーはついに見ず知らずの親切な男性の家にたどり着きました。その男性は,すぐにセイラーの面倒を見てくれました。セイラーは無事でした。すぐに病院に搬送され,回復できるよう助けを受けました。1

セイラーは,遠くに光を見つけ,野生地帯や遭遇した悲劇の大きさ,負ったけがにもめげずに,その光に向かって頑張って進んで行ったので,生き延びたのです。セイラーがその夜,どのようにしてその場を切り抜けたのか想像することはできません。しかし,わたしたちが分かるのは,セイラーがその遠くにあった家の光に助けてもらえる可能性があることに気づいたということです。希望があったのです。セイラーは,状況がどんなにひどくても,その光の中に助けを見いだせると確信したからこそ勇気を得たのです。

セイラーが経験したような恐ろしい経験をする人はほとんどいないでしょう。しかし,わたしたちは皆,どこかの時点で,それぞれ自分の霊的な険しい荒れ野を乗り越え,精神的に困難な旅を経験しなければなりません。そうした状況の中にあって,どんなに暗く希望がないように見えても,探し求めるならば,そこにはいつでも,わたしたちを呼び寄せ,助けと救済への希望を与えてくれる霊的な光があるのです。その光は,世の光である,全人類の救い主から照らされる光です。

霊的な光に気づくことは物理的な光を見ることとは異なります。救い主の霊的な光を認識することは,進んで信じることから始まります。神は,まず初めにわたしたちが少なくとも信じようとする望みを持つことを求めておられます。預言者アルマは次のように教えています。「もしあなたがたが目を覚まし,能力を尽くして……ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば,たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。〔救い主の〕言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで,その望みを育ててゆけ。」2

信じようとする望みを持ち,救い主の言葉をわたしたちの心の中に「受け入れる」ようにというアルマのわたしたちへの呼びかけは,信じることと信仰には,わたしたちの個人的な選択と行動が求められるということを思い起こさせてくれます。わたしたちは,「目を覚まし,能力を尽く〔さ〕」なければなりません。わたしたちは与えられる前に求めなければなりません。見いだす前に捜さなければなりません。開かれる前にたたかなければなりません。わたしたちはそこで次の約束が与えられるのです。「すべて求める者は与えられ,捜す者は見いだし,たたく者には開かれるからである。」3

救い主が地上で教え導いておられたとき,御自身のことを信じようとしない者たちに向けて発せられた言葉ほど,わたしたちに信じるように勧める熱烈な言葉はありません。

「もしわたしが父のわざを行わないとすれば,わたしを信じなくてもよい。

しかし,もし行っているなら,たといわたしを信じなくても,わたしのわざを信じるがよい。そうすれば,父がわたしにおり,また,わたしが父におることを知って悟るであろう。」4

わたしたちは皆,日々試しに遭います。それは,わたしたちが主を信じて主の福音の光がわたしたちの内で大きくなるよう育むことを選ぶか,あるいは,信じないで暗闇の中を独りで歩み続けるのかという,生涯続く試しなのです。救い主は,御自身を信じて従うことを選ぶ人々を導く光として主の福音を与えてくださっています。

墜落の後,セイラーには選択肢がありました。暗闇の中,飛行機のそばで独り恐怖におびえながらじっととどまることもできました。しかし,長い夜が待っていました。そしてただ寒くなる一方でした。セイラーは別の道を選びました。丘を登り,そこで地平線に光を見たのです。

セイラーが夜通しその光に向かって進むにつれて,その光は輝きを増しました。それでも,セイラーにとってその光が見えないときがあったことでしょう。おそらく,峡谷や木の陰,茂みの中を通っているときに,光が視界から消えたこともあったでしょうが,セイラーは進み続けました。光が見えているときは常に,それがセイラーには自分が正しい方向に進んでいるという証拠となりました。セイラーにはまだその光が何かははっきりとは分かりませんでした。しかし,分かっていることに基づいて,すなわち,正しい方向に向かって進んでいる限りまたその光が見えることを信じ,そう願いながら,歩き続けました。そうしたことで,セイラーは自分の命を救ったのかもしれません。

わたしたちの人生もまた,そのようなものとなり得ます。傷ついたり,疲れたり,そして,人生が真っ暗で寒々しく思えたりするときがあるかもしれません。地平線に光がまったく見えなかったり,諦める気持ちになったりするときがあるかもしれません。もしわたしたちが進んで信じるならば,信じたいと望むならば,信じることを選ぶならば,救い主の教えと模範が進む道を示してくれるでしょう。

信じることを選ぶ

ちょうどセイラーがその遠くの光に安全を見いだすことができると信じなければならなかったように,わたしたちも救い主,すなわち,救い主の永遠の光であり癒やしの憐れみが実際に神からのものであることを信じるよう心を開くことを選ばなければなりません。各時代の預言者たちは,わたしたちにキリストを信じるように励まし,さらに懇願してきました。預言者の勧めは次の根本的な事実を反映しています。すなわち,神はわたしたちに信じるよう強制されることはなさいません。その代わり,わたしたちを教えるために生ける預言者や使徒を遣わし,聖文を与え,主の御霊を通して呼び寄せ,わたしたちを信じるように招いてくださるのです。わたしたちは,そうした霊的な招きを受け入れ,主がわたしたちを呼ぶのに掲げておられる霊的な光を内なる目で見ることを選ばなければならない民です。信じることを決断することは,わたしたちが行う決断で最も重要な決断です。その決断はわたしたちのその他の決断を形作ります。

神は,わたしたちを祝福したいという完全な願いをお持ちですが,わたしたちに戒めを守るよう強制されることがないのと同様,わたしたちに信じるように強制されることもありません。それでも,主を信じるようにという主のわたしたちへの呼びかけ,すなわち小さな信仰を働かせ,主の御言葉を受け入れるようにという呼びかけは,今日も有効です。救い主は次のようにおっしゃいました。「父は,どこにいる人でもすべての人に,悔い改めてわたしを信じるように命じておられることを,わたしは証する。」5

信じること,証,および信仰は受動的な原則ではありません。これらは何の努力もなしにわたしたちに生じることはありません。信じることとはわたしたちが選ぶものなのです。つまり,それを望み,そのために努力し,犠牲を払うのです。わたしたちが偶然祈ったり什分の一を支払ったりしないのと同様,わたしたちは偶然救い主や主の福音を信じるようになることはありません。ちょうど戒めを守ることを選ぶように,わたしたちは積極的に信じることを選ぶのです。

信じることを行動に移す

セイラーは,初めは茂みの中を進みながら自分がしていることがうまくいくかどうかは分かりませんでした。セイラーは自分がどこにいるかも分からない状態で,けがをしていました。周りは寒く暗くなっていました。しかし,セイラーは墜落した現場を離れ,救助が受けられるという希望をもって,遠くに光が見えるまで這いつくばって擦りむきながら危険を承知で道を進んで行きました。一旦,その光を見つけたら,見えたものを忘れずに,それに向かって最善を尽くして進んで行ったのです。

わたしたちも同じように,疑うことを選ぶのではなく,むしろ信じる心をもって霊的な光を見いだせるという希望を受け入れなければなりません。わたしたちの行動は,わたしたちが信じていることの証拠であり,わたしたちに信仰があることの事実となるのです。祈るとき,聖文を読むとき,わたしたちは信じることを選んでいるのです。断食するとき,安息日を聖く保つとき,神殿で礼拝するとき,わたしたちは信じることを選んでいるのです。バプテスマを受けるとき,そして,聖餐を受けるとき,わたしたちは信じることを選んでいるのです。悔い改め,神からの赦しと癒やしの愛を探し求めるとき,わたしたしたちは信じることを選んでいるのです。

決して諦めない

ときどき,霊に関わる成長が鈍く見えたり,一時的に止まっているように見えたりすることがあります。ときどき,足場を失ってしまったように,間違いを犯してしまったように,また,救い主を見いだすための最善の努力がうまくいってないように思えることがあります。もし皆さんがこのように感じているならば,決して諦めないでください。主と主の福音と主の教会を信じ続けてください。その信じていることに自分の行動を一致させてください。自分の信仰の光が弱くなったときは,主の福音と主の教会に見いだせる救い主の愛と恵みに対する希望により,自分の内にある疑念を払拭してください。主は皆さんを受け入れるためにいつも立って待っていてくださることを約束します。皆さんはやがて,自分ができる最善の選びをしてきたことが分かるようになります。主を信じるという皆さんの勇気ある決意は,皆さんにとって永遠の計り知れない祝福となるでしょう。

信じることの祝福

わたしは自分の人生で救い主の憐れみ深い愛を感じてきました。わたしは自分自身が暗黒にいるときに救い主を探し求めてきました。そして救い主はその癒やしの光をもってわたしに手を差し伸べてくださいました。自分の人生で大きな楽しみの一つは,妻のキャシーとともに旅行をして,世界の隅々にいる教会員と会うことです。こうしたすばらしい出会いを通して,わたしと妻は神の子供たちへの神の愛を学びました。この出会いを通して,わたしは限りない幸福の可能性が,主イエス・キリストの教えに従うことを選ぶ人々にとって祝福となることを知りました。わたしは,主と主の贖いの力を信じることが,「この世において平和を,また来るべき世において永遠の命を受ける」6真の道であることを学びました。

イエス・キリストは,わたしたち全てにとって光と希望の源であられることを証します。わたしたちが皆,主を信じることを選ぶことができるようお祈りします。イエス・キリストの御名により,アーメン。