2010–2019
福音の音楽

福音の音楽

福音の音楽とは聖霊がもたらす霊的な喜びであり,人の心に変化をもたらします。

何年も前のことです。ラジオである若い医師のインタビューを聞きました。アリゾナ州にあるナバホ・ネイション〔訳注―ナバホインディアン指定居留地〕の病院に勤務している医師です。ある夜,長い髪を三つ編みにしたアメリカ先住民の男性が,緊急治療室に入って来たそうで,そのときのことを話していました。クリップボードを持ってその老人に近づき,「どうしましたか」と尋ねたのですが,老人は無言のまま,まっすぐ前を見詰めています。医師は,少しいらだちを感じながら,こう言いました。「症状を言ってくださらないと治療できません。なぜ病院に来たのか教えてください。」

老人は若い医師を見て,言いました。「あなたは踊りますか。」医師はこの奇妙な質問について考え,はたと思いつきました。ひょっとしたら,この患者は部族の祈とう師ではないだろうか。祈とう師とは,古代昔からの部族のしきたりに従って,薬を処方するのではなく,歌や踊りを通じて病人を癒やそうとする人です。

「いいえ」と医師は答えました。「踊りません。あなたは踊りますか」老人はうなずきました。そこで,医師はこんなお願いをしました。「踊り方を教えてもらえますか。」

そのとき老人から返ってきた答えに,わたしはその後何年も考えさせられることになります。「踊り方を教えることはできますが,あなたは音楽を聴かなければなりません。」

わたしたちは家庭でダンスのステップをうまく教えてはいても,音楽を聴くように家族を教えるのはそれほどじょうずではないことがあります。年老いた祈とう師がよく知っていたように,音楽なしで踊るのは大変です。音楽なしで踊ると格好が悪くて踊りには見えず,恥ずかしくさえあります。音楽なしで踊ってみたことがありますか。

教義と聖約の第8章で,主はジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにこう教えておられます。「まことに見よ,あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」(2節)ダンスのステップは思いで学びますが,音楽は心で学びます。福音に当てはめれば,ダンスのステップはわたしたちの行いであり,音楽は聖霊によってもたらされる霊的な喜びです。この喜びは心の変化をもたらし,あらゆる正しい望みを生み出します。ダンスのステップは訓練すれば習得できますが,ダンスの喜びは,音楽が聴けるようになって初めて体験できるものです。

教会員の行動を見てばかにする人もいます。もっともなことです。音楽が聴こえない人にとっては,踊っている人が奇妙に見えたり格好悪く見えたり,聖文の言葉を借りれば,「特異」(訳注―この部分は,口語訳聖書では「神につける民」と訳されているが,欽定訳聖書〔英文〕の”peculiar”の本来の意味で訳出している。)に見えたりすることが,よくあるからです(1ペテロ2:9)。例えば,赤信号で車を止めてふと見ると,隣の車の運転手が踊りながら声を張り上げて歌っていたということはありませんか。車の窓は閉まっていますから,音は聞こえません。実に奇妙な光景でしょう。わたしたちの子供がダンスのステップを学ぶだけで,福音の美しい音楽を聴いたり,感じたりすることを学ばないとしたら,その子供は,やがて踊るのが嫌になったり,踊るのをやめてしまったりするでしょう。または,これも悲しいことですが,周囲で人が踊っているために,仕方なく踊るようになるかもしれません。

福音を教えようとするとき,わたしたちが皆直面する問題は,ダンスのステップを教えるだけで終わらせないためにはどうするかということです。子供の幸福は,福音の奏でる美しい音楽を聴き,大切にする能力に左右されるからです。この問題には,どう対処すればよいのでしょうか。

第1に,わたしたちは自分の生活をいつも正しい霊的周波数に合わせなければなりません。デジタル時代が到来する前のことですが,好きな局の放送を聴くために,わたしたちはその局に周波数がぴったりと合うまで,つまみを慎重に回したものです。その周波数に数字が近づくまでは,雑音しか聞こえません。しかし,ついに周波数が合うと,好きな音楽がきれいな音で聞こえました。わたしたちは生活の中でも,御霊の音楽を聴くためには,正しい周波数に合わせる必要があります。

バプテスマの後で聖霊の賜物を受けると,わたしたちは改宗に伴う天の音楽に満たされます。わたしたちの心は変化し,「悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように」(モーサヤ5:2)なります。しかし,御霊は不親切や高慢,嫉妬のあるところにはとどまることができません。生活の中から御霊のかすかな影響力が遠のくと,あっという間に福音の豊かな響きが不協和音に代わり,ついには何も聞こえなくなってしまうことになりかねません。アルマは次のような的を射た質問をしています。「贖いをもたらす愛の歌を歌おうと感じたことがあるのであれば,今でもそのように感じられるか尋ねたい。」(アルマ5:26

両親の皆さん,福音の音楽と調和していないのであれば,調和させる必要があります。昨年の10月にトーマス・S・モンソン大管長が言ったように,わたしたちの足の道に気をつけなければなりません(「あなたの足の道に気をつけよ 」『リアホナ』2014年11月号,86‐88参照)。どうしたらよいかをわたしたちは知っています。天が奏でる福音の音楽を初めて聴いたときに歩いたのと同じ道を歩くのです。キリストに対する信仰を働かせ,悔い改め,聖餐を取ります。すると,聖霊の影響力が強く感じられるようになり,福音の音楽が,また生活の中で奏でられるようになるのです。

第2に,自分で音楽が聴ける人は,最善を尽くしてその音楽を家庭で奏でなければなりません。それは強制することのできるものではありません。「いかなる力も影響力も,神権によって維持することはできない,あるいは維持すべきではない」のです。つまり,父親や母親という立場を盾に取ることなく,声を張り上げてまくしたてることもなく,「ただ,説得により,寛容により,温厚と柔和により……偽りのない愛により,〔また〕優しさ……によ〔って〕」,福音の音楽を奏でるのです(教義と聖約121:41-42)。

こうした特質が家庭で力となり,影響力を持つのはなぜでしょうか。それは,このような特質が聖霊を招くからです。このような特質があるからこそ,わたしたちは心の波長を福音の音楽に合わせることができます。このような特質があると,家族全員が,自然に楽しくダンスのステップを踏むようになります。脅したり威嚇したり,強制したりする必要はありません。

子供が小さいときには,「偽りのない愛」という子守歌を歌うとよいでしょう。言うことを聞かないときや,夜,なかなか寝ようとしないときには,「寛容」という子守り歌を歌う必要があるかもしれません。10代のときには,口論や脅迫という耳障りな音は排除し,代わりに,「説得」という美しい音楽を奏でるとよいでしょう。また,子守り歌の2番,「長く耐え忍ぶ」を歌ってもよいかもしれません。「温厚と柔和」という一そろいの特質を完全なハーモニーで奏でるという方法もあります。助けを必要としている隣人に親切な行いをするという音楽を奏でるときには,子供たちにも一緒に歌うよう勧めるとよいでしょう。

全てを一度にはできません。ベテランの音楽家は皆知っていますが,美しい音楽を奏でるには根気よく練習しなければならないのです。音楽を奏でようと努めても最初は不協和音しか出ないかもしれません。しかし,批判的なことを言っても修正できないことを忘れてはなりません。家庭における不協和音は部屋の中の暗闇のようなものです。暗闇をしかりつけても何も変わりません。暗闇を追い出すには光を当てなければならないのです。

ですからあなたの家族合唱団のベースの声がうるさすぎて威圧的だったり,家族オーケストラの弦楽器の音が少々かん高く,鋭すぎたり,またはせっかちなピッコロが調子外れだったり音楽についてこられなかったとしても,忍耐することです。家庭で福音の音楽が聴こえないときには,次の言葉を思い出してください。練習し続けてください。神の助けがあれば,いつの日か福音の音楽が家庭に満ちて,言葉に言い尽くせない喜びを味わうときが来るはずです。

たとえ演奏がうまくいっても,音楽で全ての問題が解決できるわけではありません。わたしたちの生活には依然として,クレッシェンドやデクレッシェンド,スタッカートやレガートがあるでしょう。それがこの地上で生きるということなのです。

しかし,ダンスのステップに音楽をつけると,時として複雑な夫婦や家族のリズムも,バランスよく調和の取れた状態に近づくことがよくあります。最もつらい試練ですら,音楽に豊かな悲しい調べを加え,心を震わすモチーフとなります。神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴り,聖霊は常にあなたの伴侶となり,あなたの笏,すなわち明らかに力と影響力を指す笏は,義と真理の不変の笏となります。そして,あなたの主権は永遠の主権となり,それは強いられることなく,とこしえにいつまでも,あなたに流れ込むことでしょう(教義と聖約121:45-46参照)。

わたしたちの生活,わたしたちの家族がそのような状態となるよう,イエス・キリストの御名によって祈ります,アーメン。