2000–2009
犠牲――永遠の投資
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犠牲――永遠の投資

「犠牲は驚くべき原則です。……犠牲を通して、人々の間の深い愛、そして救い主イエス・キリストに対する深い愛を養うことができます。」

一人の母親として、旧約聖書で最も心を打たれる物語は、幼い息子のイサクをいけにえとしてささげるよう主から求められたアブラハムの物語です。イサクが山へ連れて行かれたときに、サラは少なくとも100歳にはなっていたことでしょう。わたしが思うに、アブラハムはサラへの配慮から、自分が何をしようとしているかを明かさなかったのではないでしょうか。それはつまり、アブラハムは自分一人でこの大きな信仰の試しに耐えなければならないということでした。

ロレンゾ・スノー大管長は以前、このように述べました。「霊感を受けなければ、そしてその霊感を受けるため自己の中に神のような属性を備えていなければ、……この世のいかなる人も、アブラハムのように行動することはできない。」(Teachings of Lorenzo Snow、クライド・J・ウイリアムズ編〔1984年〕116)

アダムを筆頭に、あらゆる旧約の預言者は犠牲の律法を守ってきました。犠牲は日の栄えの律法において不可欠な要素であり、あらゆる犠牲の中で最も栄えある犠牲である救い主イエス・キリストにわたしたちの目を向けさせるものです。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長は次のような言葉で、犠牲を見事に定義しています。「犠牲なしに、神を真に礼拝することはできません。……『御父は御自分の御子を差し出され、御子は御自分の命を差し出されました。』そして、わたしたちは自分の財産、……時間、……力、……才能、……信仰、……〔そして〕証あかしを差し出さないかぎり、礼拝していることにはなりません。」(Teachings of Gordon B. Hinckley〔1997年〕565)

兄弟姉妹の皆さん、犠牲の律法はわたしたちを俗世から分け隔てるものの一つです。聖約の民であるわたしたちは、礼拝し、与える機会に恵まれていますが、はたして、犠牲の原則を完全に自分のものとしているでしょうか。救い主の教えを受けた金持ちの青年の話が心に浮かんできます。彼はこう尋ねました。「ほかに何が足りないのでしょう。」(マタイ19:20参照)イエスは彼に言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を〔すべて〕売り払い……なさい。……そして、わたしに従ってきなさい。」(マタイ19:21)

救い主に従うために、犠牲が助けとなる3つの方法について考えてみましょう。それは、家族を教えること、貧しい人や乏しい人に与えること、そして自ら伝道活動に携わることです。まず、わたしたちはどのようにしたら家族に犠牲を教えることができるでしょうか。わたしの祖父アイザック・ジェイコブはわたしにとって偉大な模範でした。祖父は羊の牧場を経営しながら4人の息子を伝道に送りました。大恐慌の時期に伝道に出たのはわたしの母で、彼女はカナダで伝道する召しを受けました。

祖父はある日銀行から呼ばれて、母の伝道のために毎月50ドルも送金していることについて問われました。そのころ祖父を取り巻く状況は厳しいものとなっていました。祖父は融資を受けており、年12パーセントという高い金利を払っていたのです。銀行は納得せず、母を伝道から呼び戻すようにと言いました。

翌日祖父は次のように答えました。「もしあの娘が帰って来るようであれば、羊はあなたたちにあげましょう。羊をあなたたちの家まで連れて行きます。」この返事に銀行家たちは驚きました。彼らは、以前から祖父に任せて羊を飼育する事業を展開しており、ほかに飼育を任せられる人がいなかったからでした。やがて母の伝道が無事に終わりました。祖父の模範によって、家族は犠牲の大切さを学んだのです。

犠牲をささげることを家族に教えるときに、自分の欲しいものをあきらめることも教えるべきです。南北戦争の将軍ロバート・E・リーにまつわるこのような話があります。あるとき、リー将軍は一人の女性から、どのように子どもを育てたらよいかと尋ねられました。すると彼はこう語りました。「子どもに無私の精神を教えなさい。」(ジョセフ・パッカード、Recollections of a Long Life〔1902年〕158参照)

子どもたちに物を与えすぎないようにしなければなりません。与えすぎると子どもたちから喜びを奪いかねません。求める気持ちを起こさせなければ、手に入れる喜びを子どもたちが得ることはありません。

一人暮らしの隣人を助けたり、友達を必要としている人と親しくなったりするために、自分の時間と持っているものを差し出すことによって犠牲をささげることを子どもたちに教えているでしょうか。他人の必要に注意を向けていると、自分の必要はさほど重要ではなくなります。真の喜びは、人々のために犠牲をささげることによってもたらされます。

第2に、わたしたちは貧しい人や乏しい人に対してもっと惜しみなく与えることができます。わたしは会員の皆さんを訪れる度に、忠実な末日聖徒が示している善意に圧倒される思いがします。祖母に育てられたコロンビアのある青年は、靴の修理店を幾つか所有し、ワードの管理人として働いていました。彼は伝道に召されたとき、自分の伝道費用を賄うだけでなく、ほかの宣教師を支援する基金をも提供したのです。

食糧や衣類、家具を分け与えることについてはどうでしょうか。主はわたしたちに自分の財産をむさぼってはならないと命じておられます(教義と聖約19:26参照)。わたしたちは恵まれて多くの地域にデゼレト産業を有しています。子どもたちに自分の衣装だんすを定期的に調べて、流行遅れになっていない衣類をほかの人たちに着てもらうために提供するよう教えることができます。

持ち物を分け与えることによって、わたしたちは多くの報いを受けます。ベニヤミン王は次のように述べ、この原則をみまえ人々に確認しています。「神の御前を罪なく歩めるよう、日々罪の赦しを続けて受けるために、……それぞれ持ち物を貧しい人に分け与えるようにしてほしい。例えば、飢えている人に食べさせ、着る物のない人に着せ、病人を見舞い、各々の入り用に応じて霊的にも物質的にも助けを与えることである。」(モーサヤ4:26)与え、分け合う機会は口々の生活の中で数多く見つけることができます。

犠牲の第3の分野は、伝道活動です。わたしたちは割り当ての一・部として、全世界のワードや支部を訪問していますが、年配の宣教師の需要が非常に大きいことを痛感しています。彼らは宣教師たちに愛を注ぎ、地元の会員たちに教会の教義と文化を教えることによって、わたしたちの想像を超える卓越した働きを行っています。

最近ヒンクレー大管長は裕福な地域のステーク大会に出席しました。そのステークから伝道に出ている年配の夫婦は、わずか4組でした。大管長はもっと多くの会員が伝道に携わるよう鼓舞するために、彼らが伝道に行っても子どもや孫たちは寂しさを感じないことを約束しました。Eメールの発明によって、これら年配の宣教師と毎日でも愛を込めた手紙をやり取りすることができます。

皆さんの長年の経験は人々に祝福をもたらし、一方、皆さんも、人々のすばらしさを知って驚かれることでしょう。世界中の伝道部が皆さんを必要としています。胸躍る体験に身を投じる意欲と伝道する望みを求めて祈ってください。それは、キャンピングカーで旅行するよりもロッキングチェアーに体を横たえて毎日を過ごすよりも、はるかにすばらしい経験となることでしょう。

若い方々は宣教師となる日を、胸を弾ませて待ち望んでいると思います。わずか1週間前、教会の若い女性は皆、別の若い女性をそれぞれ一人ずつ活発にするよう勧められました。若い女性とともに、若い男性の皆さんがこの働きに加わったらどれほどすばらしいことが起こるでしょうか。

皆さんの多くは、非常に優れた働きを行っています。若い女性のミーガンは教会員でない二人の友達のために何か月も祈って準備しました。そして一人はセミナリーに登録し、一人は宣教師から福音を学ぶようになりました。最近、その二人の若い女性はバプテスマを受けました。教会は皆さんを必要としています。ヒンクレー大管長は皆さんの学校のホールまで足を運んで友達に教えることはできません。けれども皆さんにはできます。主は皆さんを頼りにしておられます。皆さんは、福音への愛を友達に伝えています。わたしたちはその勇気を誇りに思っています。

犠牲は驚くべき原則です。わたしたちが時間と才能、そしてすべての所有物を進んで差し出すと、礼拝の最も理想的な形の一つとなります。犠牲を通して、人々の間の深い愛、そして救い主イエス・キリストに対する深い愛を養うことができます。犠牲を通して心を変えることができます。犠牲をささげることによって、御霊みたまに近く生活するようになり、世俗的な事柄への欲望を抑えることができます。

ヒンクレー大管長は次のような言葉で、偉大な真理を教えています。「イエス・キリストの福音に従って生活することは犠牲ではありません。与えるよりも多くのものが戻るとき、それは犠牲を表しません。それは投資、……いかなるものにも勝る投資です。……その配当は永遠であり、無窮です。」(Teachings of Gordon B. Hinckley、567-568)

わたしたちがこの投資を一人で行うよう望まれていないことを知ると、とても励まされます。いにしえのアブラハムのように、わたしたちは天の力を通し霊感を受ける神のような属性を備えています。兄弟姉妹の皆さん、これまで申し上げた事柄を実践することによってわたしたちが犠牲の律法をさらに自分のものとし、この偉大な原則によってさらに救い主イエス・キリストに近づけるよう、イエス・キリストの御名みなによりお祈りします。アーメン。