「使徒22-28章」『聖文ヘルプ:新約聖書』
聖文ヘルプ
使徒22-28章
使徒パウロは,エルサレムとカイザリヤの宗教指導者と町の指導者の前で,自分を擁護する説教を5回行いました。これらの説教により,パウロが王たちの前で証をする,という主の預言は成就しました。そのうちの二回で,パウロは自らの改宗談について述べています。パウロはまた,イエス・キリストがエルサレムで二度自分に御姿を現されたことを証しました。パウロはローマへの旅により,福音を「地のはてまで」携えて行く,というキリストから託された務めを果たしました。
リソース
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背景と文脈
パウロがローマ市民としての権利を行使したのはなぜか
パウロは,自分はローマ市民であると宣言して,鞭打たれることに抗議しました。ローマの市民権には,裁判なしに鞭打ちから守られるなど,重要な特権を伴っていました。
「道」とは何か
この箇所で,ルカは「初期のキリスト教運動を『道』と呼んでいます。」「道」という言葉は,「わたしは道である」というイエス・キリストの宣言に由来すると一般的に理解されています。
ペリクスとフェストについて,どのようなことが分かっているか
ペリクスはローマの総督だった時代に,その残虐さで知られていました。ペリクスは最終的にその務めから解任されましたが,その理由は恐らく「疑わしい管理行為」だったのでしょう。ペリクスはパウロを二年間牢獄に監禁し,金銭を奪おうと企んでいました。また,パウロを牢獄にとどめることで,ユダヤ人の好意を得ようとしました。ペリクスの後継者であるポルキオ・フェストは,パウロよりもユダヤ人に同情を示しました。
パウロはなぜカイザルに上訴したのか
パウロは,フェストの望みどおりに裁判を受けるためにエルサレムに戻れば,命が危険にさらされることに気づきました。そこで,パウロは代わりにカイザルに上訴することにしました。ローマ市民であったパウロは,自分の裁判を直接ローマのカイザルの前で行うよう訴える権利を持っていました。
ヘロデ・アグリッパ2世とは何者か
ヘロデ・アグリッパ2世(マルクス・ユリウス・アグリッパとも呼ばれる)は,ユダヤのヘロデ王朝の第7代にして最後の王で,紀元53年から93年までガリラヤ湖の北東の領域を治めました。彼はヤコブの殺害を命じ,ペテロを投獄したヘロデ・アグリッパ1世の息子です。また,バプテスマのヨハネの首を切らせたヘロデ・アンティパスの孫であり,ベツレヘムの幼子の虐殺を命じたヘロデ大王のひ孫でもありました。
ヘロデ・アグリッパ2世の王国はフェストの領土の北にありました。パウロがそこで投獄されているとき,アグリッパと妹ベルニケはカイザリヤのフェストを訪ねました。アグリッパはユダヤ人で,ユダヤの事情に詳しい人でした。フェストは,アグリッパがパウロに対する非難を理解し,カイザルに手紙を書くのを手伝ってほしいと思っていました。
パウロの示現に関する複数の記述は,どのように異なっているだろうか
パウロはエルサレムで,そして後にカイザリヤで自分自身を擁護したとき,ダマスコへの道で見たイエス・キリストの示現について話しました。使徒行伝にはこの出来事に関する記述が幾つかありますが,それぞれ少しずつ異なっています。例えば,光の表現方法がそれぞれに異なります。また,アナニヤが按手によってパウロの目を癒したという記述は一つだけです。別の記述では,パウロの友人たちが見たものについてはあまり詳しく述べられていません。これらの違いは,パウロが異なる理由で異なる聴衆に出来事を語ったために生じたと思われます。
パウロはアグリッパに話したとき,3つの異なる記録に含まれていた詳細をまとめて語りました。ダマスコへの道中でイエスが語られたこと,後にアナニヤがパウロに語ったこと,エルサレムでの示現でイエスがパウロに言われたことを話したのです。
預言者ジョセフ・スミスの最初の示現についても複数の記述があります。しかし,パウロの示現と同様に,最初の示現の複数の記述の間で相違があっても,ジョセフ・スミスが天の御父とイエス・キリストの示現を見たという真実性が損なわれるわけではありません。
パウロはアグリッパ王を納得させることができたのか
フェストとアグリッパの前でパウロが自分を擁護するために語ったことの中に,パウロの教え方をかいま見ることができます。パウロは,モーセをはじめとするすべての預言者が教えたこと,すなわち「キリストが苦難を受け」,死に,「死人の中から最初によみがえ〔る〕」ことだけを教えたと述べました。アグリッパ王がキリスト教を受け入れることを期待しつつ,パウロは大胆にも王が預言者を信じているかどうか尋ねました。アグリッパ王は,パウロの質問をかわして答えました。「欽定訳聖書で使われたもの以外の様々な写本には,アグリッパの言葉が次のように記されています。『そんなにすぐにわたしを改宗できると思ったのですか。』」その後,フェストとアグリッパは,パウロは死刑や投獄に値するようなことは何もしていないと結論づけました。
パウロはどのような意味で「それは,片すみで行われたのではない」と言ったのか。
パウロは,イスラエルの預言者たちが預言した,キリストの贖いの犠牲と復活について証しました。パウロは,アグリッパ王がこれらのことを知っていたと言います。「それは,片すみで行われたのではないのですから。」言い換えれば,パウロが証したことは秘密ではなく,公然と起こり,多くの人々が目撃したことなのです。
ここで言う「断食期」とは何か
「断食期」とは,恐らく贖罪の日を指しています。「贖罪の日」は通常,9月下旬または10月初旬でした。贖罪の日は,危険な嵐のために地中海を航海するのは安全ではないと考えられていた季節の始まりを表しました。
パウロは,これから起こることをどのようにして知ったのか
パウロは,ローマに向かう船に振りかかる危険を予見していました。また,船にとどまっているかぎり,だれも死ぬことはないと預言しました。これらの節は,パウロがイエス・キリストの使徒としての役割において,聖見者として行動した例を示しています。聖見者は隠された事柄を含め,過去と未来の事柄を知ることができるとモルモン書は教えています。
「ユーラクロン」とは何か
パウロは,船の乗組員に,クレテの南岸にある「良き港」と呼ばれる場所にとどまるように勧めましたが,乗組員らはパウロの勧告を拒みました。出航後,船は欽定訳聖書で「ユーラクロン」と表現されている嵐に遭遇しました。ほかの翻訳では,北東からの強風と呼ばれています。ユーラクロンは,生命を脅かすハリケーン級の風を伴う激しい地中海の嵐です。
パウロが難破した場所に住んでいたのはだれだったか
船に乗船していた人々は,メリタの別名でも知られるマルタと呼ばれる島で安全を見いだしました。欽定訳聖書で住民を形容するために「barbarous」(訳注:粗野な,残忍な,という意味)という言葉は使われていますが,彼らが野蛮な人々であったという意味ではありません。むしろ,彼らがギリシヤ人ではなく,見知らぬ言語を話す人々だったことを示しています。
ローマでパウロが経験したことについて,どのようなことが分かっているか
パウロは恐らく,ローマで福音を宣べ伝えた最初のキリスト教宣教師であったと思われます。ほかの町々で行ったのと同様に,パウロはまずユダヤ人に宣べ伝え,次に異邦人に宣べ伝えました。言い伝えによれば,パウロは自宅で軟禁されている間に,一部の人々に「獄中書簡」と呼ばれている,エペソ人,ピリピ人,コロサイ人への手紙,テモテへの第二の手紙,ピレモンへの手紙を書いたと言われています。パウロは二年間,ローマの自宅で軟禁生活を送りました。その後,ローマで再び投獄されるまで,アジア,ギリシヤ,そして恐らくスペインで教え導いたと思われます。言い伝えによると,パウロはネロのもとで迫害されている間に殺されました。紀元62年から68年の間のいずれかの時期のことです。
さらに学ぶ
預言者は聖見者である
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ジェフリー・R・ホランド「またこの地に預言者たちが」『リアホナ』2006年11月号,104-107
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「トピックと質問」「預言者」の項,「福音ライブラリー」
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Sheri L. Dew, “Prophets Can See around Corners,” (Brigham Young University–Hawaii devotional, Nov. 2, 2022), speeches.byuh.edu
イエス・キリストは道であられる
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ローレンス・E・コーブリッジ「道」『リアホナ』2008年11月号,34-36
メディア
ビデオ
「ダマスコへの道」(5:19)
「元気を出しなさい」(1:31)
画像
Arrest of Paul(「捕らわれたパウロ」), by Simon H. Vedder
Trial of the Apostle Paul(「使徒パウロの裁判」),by Nikolai Bodarevsky
Paul the Apostle(「使徒パウロ」),by Jeff Ward