家族のリソース
第14課:子供に福音の原則を教える(その2)


第14課

子供に福音の原則を教える

その2

応用のための提案

あなた自身の必要や状況に合わせて以下の提案に従ってください。

  • 家族で一緒に奉仕できる活動を計画する。

  • 子供や孫,めいおいなどと一緒に家事を行う。仕事をしている間話をする。手伝おうとしている子供に批判的にならずに,教えるいい機会だと思って話をするとよい。

  • 『若人の強さのために』(36550 300)の次の部分を読む。「メディア-映画,テレビ,ラジオ,ビデオカセット,本,雑誌」(11-12),「音楽とダンス」(14-15),「性的な清さ」(15-17)。読んだ後で,この資料をあなたとともに読み,話し合う必要があるのはあなたの子供たちのうちだれであるかを判断する。

読書課題

以下の記事を研究する。既婚者の場合は伴侶はんりょと一緒に読んで話し合う。

子供たちを教えなさい

十二使徒定員会
ボイド・K・パッカー

この会場やその他の場所に集まっておられる人々が多いことは,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に与えられている真理に対して,抑え難い渇きを感じている人が多いことを表しています。

皆さんにとって最も価値のある事柄は何であろうかと祈っていたときに,わたしの心にわいてきた思いがありました。それは,あと3週間で,わたしは75歳の誕生日を迎えるということです。わたしはこれを「年上の中年」と呼びたいと思います。

わたしは50年以上もの間,教師を務めてきました。わたしがこれまで学んできた事柄はきっと皆さんのお役に立つことでしょう。

わたしは次のことを経験から学びました。すなわち「人生はわたしたちに自分が知りたいとは思わなかった事柄を教えてくれる。そして,この厳しい教訓が最も価値あるものになり得る」ということです。

わたしは「年上の中年」になる過程でほかにも学んだ事柄がありました。一人の医者と患者の次の会話について考えてみてください。

医者。「どうなさいました。どこか具合が悪いのですか。」

患者。「わたしの記憶力なんです,先生。何か読んでも,覚えていられないんです。部屋に来てもなぜ来たのか思い出せません。物を置いた場所も忘れてしまいます。」

医者。「ところで,どれくらい前からその状態になりましたか。」

患者。「どれくらい前からって,何のことですか。」

さて,これで笑った人は60歳未満か,または自分に思い当たるところがある人です。

子供たちが幼いうちに教える

人は年を取ると,若いときのように学んだり,記憶したり,あるいは研究したりすることはできません。預言者アルマが次のように勧告したのはそのためではないでしょうか。「忘れずに若いうちに知恵を得なさい。まことに,神の戒めを守ることを若いうちに習慣としなさい。」1

聖句や詩の言葉を覚えることが,わたしには次第に難しくなってきています。若いころは1,2度繰り返すと覚えられたものです。何度も口に出して言ったり,特に書いたりすると,ほぼ永久に心に残ったものです。

青少年期は容易に学べる時期です。教会の指導者たちがごく早い時期から子供と青少年の教師に強い関心を抱いてきたのはそのためです。

子供と青少年に福音と人生の教訓について教えることはきわめて大切です。

主はその第一の責任を両親に課し,次のように警告されました。

「シオンにおいて,……子供を持つ両親がいて,8歳のときに,悔い改め,生ける神の子キリストを信じる信仰,およびバプテスマと按手あんしゅによる聖霊の賜物たまものの教義を理解するように彼らを教えなければ,罪はその両親のこうべにある。」2

これが青少年を教えるこの教会の基本的な目的です。すなわち,まず家庭で教え,次に教会で教えるのです。

知識を蓄える

わたしが学んだもう一つのことは,若いときに学んだことは忘れないということです。若い心に蓄えた知識は,必要とされるときのために長年保ち続けることができるのです。

例を挙げて説明しましょう。わたしは教会員の中に監督の助言を無視したり,あるいは逆に極端に監督に依存したりする傾向にある人がいることをとても心配しています。

そこでわたしは総大会で監督について話すことにしました。

わたしはよく祈って準備しました。すると,50年前のある会話が心に浮かんできました。それは教師としてのわたしに必要なものでした。ほんとうに必要でした。ここで,総大会でお話ししたとおりにその会話を引用します。

「以前,わたしがステークの高等評議員としてエメリー・ワイトとともに働いていたころのことです。それまでエメリーは10年間,郊外にあるハーパーワードで監督を務めていました。彼の妻のルシールは,ステークの扶助協会会長でした。

ルシールはわたしに,ある春の朝,近所の人がエメリーを尋ねて来たときのことを話してくれました。彼女が,エメリーは外で畑を耕している,と伝えると,彼はとても心配そうにこう言うのです。その日の早朝,畑を通りかかったとき,彼はすきにつながれたエメリーの馬たちがうねを列の半分まで作ったところで,手綱たづなをだらりと下げて立っているのに気づきました。しかしエメリーの姿はどこにも見当たりません。その人は大して気にも留めませんでしたが,随分時間がたってから再び畑を通りかかって,いまだに馬がそのままでいるのを見たのです。彼はさくをよじ登り,畑に入って馬のところに行きました。やはりエメリーはどこにもいません。そこで彼はルシールに確認しようと思い,急いでやって来たわけです。

ルシールは静かにこう答えました。『大丈夫,心配しないで。きっとだれかが困って,監督を迎えに来たのよ。』

畑で何時間もじっと立っていた何頭かの馬の姿は,教会の監督と彼を支える副監督の献身を象徴しています。監督,副監督は皆,比喩的表現で言うと,だれかが助けを必要とするときには,作りかけのうねの中に馬を置いたまま行くのです。」3

わたしはそれまでその経験を話で使ったことがありませんでした。思いつきもしませんでした。

わたしは大会でその話をする前に心の中にそれをしっかりとどめておきたいと思い,エメリー・ワイトの娘さんが住んでいる所を調べました。彼女は昔の家でわたしに会うことに同意し,あの日彼女の父親が耕していた畑をわたしに見せてくれるとのことでした。

ある日曜日の朝早く,わたしの息子の一人がそこに連れて行ってくれました。息子は何枚も写真を撮りました。

それは美しい春の朝のことでした。畑は何年も前と同じように,耕されたばかりでした。その上でかもめがえさをついばんでいました。

記憶が呼び覚まされ,昔の会話を思い出すことが,わたしにはよくあります。それは聖文に述べられている以下の真理そのものです。ちなみに,わたしは若いときにこの聖句を覚えました。

「また,あなたがたは何を言おうかと,前もって思い煩ってはならない。ただ絶えず命の言葉をあなたがたの心の中に大切に蓄えるようにしなさい。そうすれば,それぞれの者に必要な部分が,必要なそのときに授けられるであろう。」4

さらに,知識を大切に蓄える人々には次のような約束が与えられています。

「あなたがたを受け入れる者がだれであろうと,わたしもそこにいるであろう。わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊みたまはあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう。」5

それはわたしにとって良い教訓でした。しかし,教訓はそれで終わりではありませんでした。

わたしは若いころ絵を描き,木彫りをしていました。ほとんど独学でした。子供たちが成長するにつれ,わたしは人生について学んだ事柄や,少年時代に彫刻や絵画について学んだ事柄を彼らに時間を取って教えました。

彼らが大きくなった後も,わたしはくつろぐ手段として木彫りを続けました。鳥を彫り,またほかの彫刻にも多くの時間を費やしました。「これを彫るのに何時間かかりましたか」と尋ねられると,わたしはいつもこう答えました。「分かりません。それが分かったらやめたでしょう。」

自分の手を使って作業する何時間もの間,わたしは創造のすばらしさを深く考えました。そして霊感が下されるのです。木を彫りながら話を彫り出したようなものです。

彫刻はわたしに安らぎを与えてくれます。時々少しストレスがたまったり,いらいらしたりすると,妻はこう言ったものです。「また彫刻を始めたらいいんじゃないですか。」

もしも「年上の中年」のわたしの記憶がもう少し鋭敏であれば,木彫りの一つを指して,それにまつわる話を紹介することができたかもしれません。わたしはそのような静かな時間に,「同時に二つの事柄を行える」ことを学んだのです。

教えることから刈り入れをする

わたしはもう彫刻をすることはできません。三焦点眼鏡を使っており,また子供時代のポリオが原因で今では多少指の関節が硬直しているわたしにとって,その作業はあまりに細かすぎるのです。そのほかに,わたしの召しから来るプレッシャーが大きくなって,彫刻と話の準備の両方に傾けられる時間には限りがあります。

今はもうわたしの彫刻の腕はひどく落ちています。しかし,子供たちはそうではありません。彼らがまだ若いときに教えたからです。

畑でじっと立っているその馬たちの姿がわたしの心に焼きついていました。わたしはすきに手綱たづなをつながれて畑にじっと立っている監督の馬たちを描けるのではないかと思いました。

それでも,わたしは最後に絵を描いてから9年もたっていたので躊躇ちゅうちょしました。しかし,非凡な才能と霊感を備えた二人の友人が,監督の馬を描くのを助けようと申し出てくれました。また,7月は,幹部として旅をすることからも解放されていました。そこで,わたしは絵に取り組むことにしたのです。

わたしはその二人の友人から多くのことを学びました。実際,二人は今もわたしの絵に手を加えてくれています。しかし,わたしは二人の息子からもっと多くの助けを受けました。一人の息子はうねを作った畑の写真を撮ってくれました。わたしはいつも,「木」や「カンバス」に何かを描くとき,あるいは「言葉」を述べるとき,極力正確であろうと努めているからです。

これがもう一つの教訓です。わたしは子供たちが若いときに学んだ事柄を子供たちから引き出すことができたのです。

別の息子はわたしの絵と対を成すものとして,監督の馬のブロンズ像を造ることにしました。わたしたちは互いに多くの時間をかけて助け合い,報いを得ました。

彼は,50年以上もの間,手も触れられずにつるされていた古い馬具を一組納屋から持って来ました。ほこりを払って,家に持って来たのです。そして,一つの馬具をよく調教のできた乗馬用の馬に着けました。着け方が上手だったので,馬は静かにしていました。そして彼は,その馬を詳細にスケッチしました。

また,息子の隣人が古いすきを幾つか集めていて,その中に適度な古さのものがあったので,息子はそれもスケッチしました。

こうして,わたしたちが息子たちに与えたものが戻って来たのです。わたしたちのほかの子供たちと同じように,彼らも,まだ若いときに両親であるわたしたちが教えたことを土台にして,新たなものを積み上げてきたのです。わたしたちの寿命がこの世で延ばされるとしたら,第2の刈り入れがあります。すなわち,孫がそれです。また恐らく第3の刈り入れもあるでしょう。

眠っている才能の目覚め

わたしはほかにも学んだことがあります。わたしはかつて,子供のときに聞いた言葉に促されて絵を描いたことがあります。それはウィラードの山々を描いたものです。年配の人々はその山々を「大管長会」と呼んでいました。空に向かってそびえ立っているこれら3つの巨大でがっしりとした山々は,教会の指導者を象徴していました。

それは9年前のことになります。わたしの息子は以前にわたしをユタ州ウィラードに連れて行き,その山々を写真に収めたことがありました。わたしたちは陰影やコントラストのはっきりしている時期にもう一度そこへ行きました。

そうした年月を経た後で,わたしは絵を描くことについて休眠状態から目覚めなければなりませんでした。最初,それは大変な葛藤かっとうでした。何度も恐れてやめようとしました。しかし,友人の一人はこう言ってわたしを発奮させてくれました。「お好きなように。そうやって君も,絵を描くことをあきらめた大勢の人たちの仲間入りをするんだね。」

わたしは絵を続けることにしました。それは,やめることを妻が許さなかったからにすぎません。わたしは今,やめなかったことを喜んでいます。再び絵を始めたからには,恐らく,わたしはいつかもう1枚描くでしょう。それがいつになるかは,だれにも分かりません。

絵を描く作業に立ち返ろうとすることは,長年教会に活発でなかった人が,群れに戻ろうと決心するようなものだと思います。休眠してはいても,実際には失われていない事柄に対する気持ちを取り戻すのには,葛藤かっとうの時期があります。それには一人か二人の友人がいると助けになります。

これは学習,すなわち,人生における普段の経験から教訓を得るという原則です。

「監督の馬たち」という絵はもうすぐ仕上がります。わたしの息子の製作した像は鋳物工場にあり,ブロンズ像に仕上げられています。

ついでながら,彼の彫像はわたしの絵よりもかなり良い出来です。それは当然です。若いので,指と心がわたしよりも柔軟に反応できるからです。

「年上の中年」になると,古い骨が容易に曲がらず,さらに古い関節がそれほど速くは動かないことが分かってきます。60代半ばを過ぎると靴のひもを結ぶことは容易ではありません。床が遠くなります。

そこでまたこれが教訓になります。すなわち,「忘れずに若いうちに知恵を得なさい。まことに,神の戒めを守ることを若いうちに習慣としなさい。」6

「神の栄光は英知である。言い換えれば,光と真理である。」7

「わたしはあなたがたに,あなたがたの子供たちを光と真理の中で育てるようにと命じた。」8

子供たちには,わずか8歳で,天からの聖霊の賜物たまものが授けられます。

「助け主,すなわち,父がわたしの名によってつかわされる聖霊は,あなたがたにすべてのことを教え,またわたしが話しておいたことを,ことごとく思い起こさせるであろう。」9

「教える」また「思い起こさせる」という言葉に留意してください。

子供たちを教えることはそれ自体報いをもたらします。皆さんは子供を教えるときに,学ぶ子供たちよりも多くの事柄を,皆さん自身が学んでいることが分かったのではないでしょうか。

霊的な記憶を引き出す

この世的な知識を得ることと霊的な知識を得ることの間には違いがあります。学生たちはテストの日にそれを学びます。つまり,勉強していないことを思い出すことはきわめて難しいのです。

それはこの世的な知識について言えることです。しかし,霊的には,誕生前にさかのぼって記憶を引き出すことができます。わたしたちは若いときに理解の及ばなかった事柄を理解する感性を身に付けていくことができるのです。

詩人ワーズワースは,次の詩を書いたとき,前世について何かを感じたのです。

われらの誕生はただ眠りと前世の忘却とに過ぎず。

われらとともに昇りし魂,生命の星は,

かつて何処いずこにかしずみて,

はるかより来れり。

完全に忘れ去ったのではない,

過ぎ去りし昔を忘れしにはあらず,

また赤裸にて来たりしにもあらず,

栄光の雲をきつつ,

われらの故郷なる神のもとより来りぬ。」10

わたしは自分の記憶からこの詩を引き出しました。大学時代に英語の授業で覚えたものです。

最も重要な教訓は人生の普段の出来事から得られます。

ある人々はあかしを揺るぎないものとするために,感動に満ちた霊的経験を待ち望みます。しかし,それは正しいことではありません。自分が神の子であることについて確信を与えるのは,日常の事柄から得られる静かな促しと心に刻まれる思いです。しるしを求め,また驚くべき出来事を探して「的のかなたに」11目を向けるとき,わたしたちは自分の特権から遠く離れて生活をしていることになるのです。

わたしたちは神の子です。前世で神とともに住んでいたからです。時々その幕が少し開きます。そして,自分が何者であるか,また永遠の計画における自分の立場はどうかが示されるのです。その記憶,あるいは霊的な洞察どうさつを求めてください。それは,イエス・キリストの福音が真実であるというあかしの一つです。このような啓示は,わたしたちが教えているときに与えられるのです。

わたしはかつて,マリオン・G・ロムニー副管長(1897-1988年)がこう述べるのを聞きました。「わたしは自分が聖霊の影響力の下で語っているときは,必ずそうと分かります。自分が言ったことから必ず何かを学ぶからです。」

主は長老たちに次のように述べておられます。

「あなたがたは教えを受けるためではなく,わたしが御霊みたまの力によってあなたがたの手の中に置いたものを,人の子らに教えるために遣わされているのである。

あなたがたは高い所から教えを受けなければならない。自らを聖めなさい。そうすれば,あなたがたは力を授けられて,わたしが語ったように与えることができるであろう。」12

宣教師にとって改宗の刈り入れが乏しいときであっても,宣教師自身と教会には霊的な力が与えられます。宣教師は教えることによって学ぶからです。

執事定員会の会長は会議の席に着き,同僚の執事たちを教えなければなりません。13長老定員会の会長は聖約に従って定員会の会員たちを教えなければなりません。14

パウロはテモテに言っています。「あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを,さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい。」15

パウロは,教えること自体が利益をもたらすことを短い言葉で説明しています。

なぜ,人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて,自らは盗むのか。

姦淫するなと言って,自らは姦淫するのか。」16

自発的な指導者になる

先日,わたしは1通の謝罪の手紙を受け取りました。これまで度々そのようなことがありました。その手紙はわたしの知らない方からのものでしたが,わたしがかつて述べた話のことでわたしに対して長い間どれほどいらだちと怒りを感じてきたかがつづられていました。そして,ゆるしを求めていました。

わたしはすぐにゆるします。わたしは話をし,また赦しを伝える代理人にすぎません。

聖文には,イスラエルの民とニーファイ人にとって預言者たちと使徒たちの教えに耐えることがどれほど「厳しい」17ことであったかを示す参照箇所がたくさんあります。教えに抵抗し,教師に憤りを抱くことはきわめてたやすいことです。それは初めから預言者たちと使徒たちの定めでした。

至福の教えの一つはこう教えています。

「わたしのために人々があなたがたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである。

喜び,よろこべ,天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも,同じように迫害されたのである。」18

そのような謝罪の手紙には,よく次のような言葉が述べられています。「どうしてあなたがわたしにそのような不安とそのような罪悪感を抱かせる必要があったのか,わたしには理解できませんでした。」その後,彼らは葛藤かっとうから一つの洞察どうさつ,霊感,原因と結果の理解を得ます。そして最後に,福音の本来の姿を知り,理解するようになるのです。

わたしが話をするのは幾つかある主題の中の一つにすぎません。ある姉妹は,母親が子供たちとともに家庭にいることの重要性をわたしたちがなぜ強調するのか,最後には分かるようになるかもしれません。いかなる奉仕も,利己心のない母親が示す人を高める力には及ばないことを彼女は理解するでしょう。かといって,知的,文化的,社会的教養を身に付けることをあきらめる必要もありません。それは適切なときに身に付きます。つまり,子供たちを教えることから得られる永遠の徳に伴って得られるものだからです。

子供を教える母親の教えに匹敵する教えはなく,それ以上に霊的な報いを与え,あるいは人を高めるものはありません。子育てに専念している母親は,聖文を学ぶ機会が十分にないと思うかもしれません。しかし,母親が受ける報いは少なくないのです。

グラント・バンガーター伝道部長は,ブラジルの彼の伝道部を巡回していたジョセフ・フィールディング・スミス大管長と教義について話をしていました。バンガーター姉妹はその話を聞いて,最後にこう言いました。「スミス大管長,わたしは子育てに専念してきましたから,夫のように聖文の知識を蓄えた人になる時間がありませんでした。わたしはグラントと一緒に日の栄えの王国に行けるのでしょうか。」

しばらくの間まじめに考え込んでいたスミス大管長は,こう答えました。「彼にパイを一つ焼いてあげれば恐らく大丈夫でしょう。」

妻が子育てをするときに自然に得られる霊的洗練性に男性が肩を並べることはかなり難しいでしょう。福音を十分に理解した男性は,妻なしには昇栄できないことが分かります。19夫のこの上ない望みとは,子供を教えるうえで,思いやりと責任感のあるパートナーとしてリードしていくことなのです。

教師への祝福

「熱心に教えなさい。そうすれば,わたしの恵みがあなたがた〔教師〕に伴うであろう。それは,理論において,原則において,教義において,福音の律法において,あなたがた〔母親,父親〕が理解する必要のある神の王国に関するすべてのことにおいて,あなたがた〔教師,母親,父親〕がさらに完全に教えられるためである。」20

この約束は生徒よりもむしろ教師に対するものであることに留意してください。

「熱心に教えなさい。そうすれば,わたしの恵みがあなたがた〔自分の子供たちや初等協会,日曜学校,若い女性,若い男性,神権組織,セミナリー,扶助協会で教える人々〕に伴うであろう。」そうすれば,次のことを知るようになります。

「また,天のこと,地のこと,地の下のこと,かつてあったこと,現在あること,すぐにも必ず起こること,国内にあること,国外にあること,戦争と諸国民の混乱,地上にある裁き,国々と王国に関する知識についても同様である。

それは,わたしが再びあなたがたを遣わすときに,〔教える〕あなたがたが,わたしがあなたがたを召したその召しと,あなたがたを任命したその使命とを尊んで大いなるものとするように,あらゆる点で備えられるためである。」21

パウロは若いテモテに預言しました。「終りの時には,苦難の時代が来る。」22また,こう述べています。「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて,悪から悪へと落ちていく。」23

しかし,わたしたちはなお安全でいることができます。子供に道を教えることが安全につながるからです。

「子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,それを離れることがない。」24

パウロはテモテに勧告しました。

「あなたは,自分が学んで確信しているところに,いつもとどまっていなさい。あなたは,それをだれから学んだか知っており,

また幼い時から,聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によってすくいに至る知恵を,あなたに与えうる書物であることを知っている。」25

この教会はイエス・キリストの教会です。主の教会です。イエス・キリストはわたしたちの模範であり,わたしたちのあがない主です。わたしたちは主のようになるよう命じられています。26

イエス・キリストは子供たちの教師でした。イエス・キリストはエルサレムの弟子たちに命じられました。「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。」27

わたしたちはほかのいかなる箇所によるよりも,ニーファイ人の間で救い主がなさった務めの話の中に,救い主の心の深さを見ることができます。

「さて,イエスは,幼い子供たちを連れて来るように命じられた。

そこで,彼らは幼い子供たちを連れて来て,イエスの傍らに降ろした。イエスはその真ん中に立っておられた。また,群衆は道を譲って,幼い子供たちが皆,イエスのもとに来られるようにした。

……イエスは……涙を流された。群衆はそのことをあかしした。また,イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。

そして,イエスはこれを終えると,また涙を流された。

また,イエスは群衆に語って,『あなたがたの幼い子供たちを見なさい』と言われた。

そこで彼らは,見ようとして天に目を向けたとき,天が開くのを見た。そして,天使がまるで火の中にいるかのような有様で天から降って来るのを見た。天使は降って来ると,幼い子供たちを取り囲み,幼い子供たちも火に包まれた。そして,天使は幼い子供たちに恵みを施した。

群衆はそれを見聞きして,あかしした。彼らは皆,自分自身で見聞きしたので,その証が真実であることを知っている。」28

わたしはそのあかしが真実であることを知っています。わたしは主について証し,主の御名みなによって子供たちを教える皆さん全員を祝福します。