家族のリソース
第12課:模範と訓戒によって子供たちを教える


第12課

模範と訓戒によって子供たちを教える

応用のための提案

あなた自身の必要や状況に合わせて以下の提案に従ってください。

  • 子供や孫,おいめい,あるいはほかの知り合いの子供たちに何が必要か深く考える。行動や言葉を通してこれらの子供たちを教える計画を立てる。

  • 『教師,その大いなる召し』(36123 300)127-143ページ,『家族ガイドブック』(31180 300)4-11ページにある家庭で教えることに関する資料を復習する。既婚者の場合は伴侶はんりょと一緒に読んで話し合う。

読書課題

以下の記事を研究する。既婚者の場合は伴侶はんりょと一緒に読んで話し合う。

この世での最大のチャレンジ
良い親であること

十二使徒定員会
ジェームズ・E・ファウスト

親であることは神聖な召しである

わたしは,この世での最大のチャレンジと呼ぶテーマについてお話ししたいと心に感じています。それは良い親としての特権と責任に関する事柄です。この問題については親の数と同じくらい多くの意見があり,すべての答えを知っていると言える人はほとんどいません。わたしももちろんそう言うつもりはありません。

わたしの一生のうちで現在ほど,教会員の中に優れた若い男性や女性が大勢いることはないように思われます。このすばらしい若人のほとんどは,責任感が強く愛情深い両親の保護の下に,良い家庭で育ったことを示しています。それにもかかわらず,最も良心的な親の中には何か間違いを犯したように感じている人もいます。以前わたしが愚かなことをしたとき,母が「わたしはどこで失敗したのかしら」と嘆いたのを覚えています。

主はこのように教えておられます。「あなたがたの子供たちを光と真理の中で育てるようにと命じた。」(教義と聖約93:40)わたしにとっては,人が努力すべき事柄の中で,このこと以上に大切なことはありません。

父親,母親であることは大きなチャレンジであるばかりでなく,神聖な召しでもあるのです。献身的な努力を要する仕事です。デビッド・O・マッケイ大管長は,親であることは「人類に与えられた最大の信頼である」と述べています(The Responsibility of Parents to Their Children〔パンフレット,発行年月日不詳〕,1)。

成功した家庭を創造する

人が出会うチャレンジで,良い親であること以上に大きなものはほとんどありませんが,またこれほど大きな喜びを与えてくれる機会はほかにありません。確かに,神を敬い,幸せで,尊敬すべき,社会に役立つような子供を育てること以上に重要な仕事は,この世にはないのです。親にとって,両親とその教えを敬う子供を持つこと以上に満たされた幸福はないでしょう。それは親であることの栄光です。ヨハネは「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に,大きい喜びはない」(3ヨハネ1:4)とあかししています。わたしの考えでは,子供を教え,育て,訓練することは,人生で直面するいかなるチャレンジよりも多くの知性,直感的理解力,謙遜けんそんさ,力強さ,知恵,霊性,忍耐力,労力を必要とします。これは,名誉や礼儀といった道徳の基礎がわたしたちの周りで崩れている時代には,特に当てはまります。成功した家庭を築くためには正しい価値観が教えられ,規則が守られ,標準が維持され,永遠に変わらぬ戒めがなければなりません。親が道徳的価値を教え,敬うことに対し,多くの社会ではほとんど助けを与えていません。かなりの文化がその本質的価値を失い,大勢の若人たちはそのような社会の中にあって道徳に不信を抱き始めています。

社会全体が腐敗し,道徳的標準がないがしろにされ,多くの家庭が破壊されている昨今にあって,次の世代すなわち子供たちを指導することによりいっそうの注意と努力を傾けることこそ,わたしたちの最大の願いです。そのためにはまず子供たちの主要な教師を強めなくてはなりません。最も重要な教師は親と家族であり,家庭こそ最も良い環境であるはずです。何とかして家庭をもっと堅固なものにするようさらに努力し,周囲の不健康で,浸透してゆく道徳的腐敗に対抗する聖所としなければなりません。家庭の中の調和,幸福,平安と愛は,人生のチャレンジに立ち向かうのに必要な強い心を子供に与えてくれます。ジョージ・ブッシュ大統領夫人,バーバラ・ブッシュは数か月前,ウェルズリー・カレッジ卒業生に向かって次のように述べました。

「どんな時代であろうと,どんな時勢であろうと不変のものが一つあります。父親,母親である皆さん,子供があるならば,まず子供たちを優先しなければなりません。本を読んだり腕の中に抱いたりして愛を示さなくてはなりません。家族としての皆さんの成功,社会としてのわたしたちの成功は,ホワイトハウスの中で起こることにではなく,皆さんの家庭の中で起こることにかかっているのです。」(Washington Post,1990年6月2日付,2)

良い父親母親であるためには,子供の必要を満たすために親自身の必要や望みをわきに置くことを求められます。このような犠牲を払うことによって,良心的な親たちは気高い性格を形成し,救い主御自身が教えられた無私の真理を実行することを学びます。

独り身で家族をまとめるために超人的な仕事を抱えて奮闘し,犠牲を払い,苦労している人たちをわたしは大いに尊敬しています。そのように英雄的な努力をしている方々をこそ,わたしたちたちは尊敬し,助けるべきです。しかし母親または父親のいずれの仕事も,それぞれの役目を果たす親がいればずっと簡単になります。子供たちは両親双方の力と知恵を試したり要求したりすることがよくあるのです。

何度くらい家族で一緒に祈りますか

数年前,スタンリー・スムート監督はスペンサー・W・キンボール大管長の面接を受けました。「1日に何度くらい家族で一緒に祈りますか」とキンボール大管長は尋ねました。

スムート監督は答えました。「家族の祈りを1日2回しようと思っていますが,たいてい1回になります。」

キンボール大管長は答えました。「これまでは,家族の祈りを1日に1回することで大丈夫だったかもしれません。しかし将来は,家族を救うつもりならば,それでは足りなくなるでしょう。」

家庭の夕べを気楽な気持ちでたまにしか持たないなら,将来子供たちを十分な道徳的強さで守れるかどうか疑問に思えてきます。家族の聖文研究をたまにしか行わないなら,将来,子供たちが住む社会の道徳的腐敗に抵抗するのに必要な美徳を子供たちに武具として身に着けさせるには不十分でしょう。子供たちが純潔,誠実,正直や人間としての基本的な礼儀を学ぶ所が,この世の中で家庭以外にあるでしょうか。これらの価値はもちろん教会でも教えられますが,親の教えはもっと不変のものとなるのです。

両親は模範を示さなければならない

親が子供に危険を避けるように教えるとき,「わたしたちは世の中のことについて経験を積んでいて賢いから,あなたたちより危険な誘惑に近づいても大丈夫」などと言うのは愚かなことです。親の偽善を見ると子供は疑い深くなり,家庭で教えられたことに不信を抱くようになります。たとえば,子供には禁じている映画を親が見るならば,親の信用というものはなくなります。子供に正直であるよう期待するならば,親が正直でなくてはなりません。子供に徳高くあるよう期待するならば,親が徳高くあらねばなりません。尊敬すべき者になるよう望むならば,まず自分が尊敬すべき者にならねばなりません。

そのほかにも子供たちに教えるべき価値のある教えがあります。両親や家族はもとよりほかの人を尊敬すること,ほかの人の信仰や愛国心の象徴を敬うこと,法律や秩序を守ること,ほかの人の所有物を尊重すること,権威ある人に敬意を払うことなどです。パウロは子供たちが「まず自分の家で孝養をつく〔す〕……ことを学〔ぶ〕」(1テモテ5:4)べきであると述べています。

子供たちをしつける

親にとっていちばん難しいチャレンジの一つは,子供たちを正しくしつけることです。子供の育て方は子供の個性によって違ってきます。子供は皆それぞれ異なっており,独特です。一人の子供に合う方法だからといって,ほかの子供にも合うとは限りません。子供をいちばん愛しているその子自身の親以外に,しつけが厳しすぎるとか優しすぎるとか言えるほどの分別のある人はいないのではないでしょうか。親にとってそれは祈りの気持ちで識別すべき事柄です。確かに,最も力があり支えとなる原則は,子供のしつけは罰よりも愛によって動機づけられなければならない,ということです。ブリガム・ヤング大管長はこのように勧告しています。「人を懲らしめるように求められるとしても,香油を塗って手当てを施せないほどの懲らしめは決して与えないでください。」(Discourses of Brigham Young,ジョン・A・ウィッツォー選〔1954年〕,278)しかしながら,子供を育てるには指導としつけを欠かすことはできません。もし親が子供のしつけをしないならば,社会が親の好まないようなしつけを施すことになります。しつけがなければ,子供たちは家庭や社会の規律のどちらも守ろうとはしません。

しつけのおもな目的は従順を教えることです。デビッド・O・マッケイ大管長はこのように述べています。「もし親が子供に従順を教えられず,家庭で従順がはぐくまれなければ,社会が従順であることを要求し,そうさせるだろう。それゆえに,もし家庭がまだその務めを果たしていないならば,社会が課する残忍で非情なしつけに子供たちを冷淡に任せることになる。それよりも,親切と同情心,思いやりに満ちた家庭で教える方がずっとよい。」(The Responsibility of Parents to Their Children,3)

子供たちに働くことを教える

子供たちをしつけ,責任感を身に付けるように教えるための不可欠な要素は,働くことを学ばせることです。大人になるにつれて,わたしたちの多くの者が「わたしは仕事が大好きです。座ってほかの人が働くのを何時間でも眺めていられます」と言った人のようになります(Jerome Klapka Jerome, The International Dictionary of Thoughts,ジョンP・ブラッドリー,レオ・F・ダニエルズ,トーマス・C・ジョーンズ編〔1969年〕,782で引用)。ここでもまた,働くことの原則を教える最良の教師は親自身です。初めてわたしが父や祖父,叔父おじや兄弟たちと一緒に働いたとき,わたしにとって働くことは楽しみでした。きっと彼らを助けるというよりむしろ困らせる方であったに違いありませんが,それは楽しい思い出となり,学んだ教訓は貴重な体験となっています。子供たちは責任感と独立心を学ぶ必要があります。リーハイが教えたように,子供たちが「思いのままに行動することができ,強いられることはない」(2ニーファイ2:26)ように,親は自分の時間を割いて教え,実際に行い,説明しているでしょうか。

世界的に偉大な園芸家の一人であるルーサー・バーバンクはこのように述べています。「もし,子供たちに対するのと同じ程度に植物の世話をしていたならば,わたしたちは現在,雑草のジャングルに住んでいるでしょう。」(Elbert Hubbard’s Scrap Book〔1923年〕,227で引用)

両親への特別なチャレンジ

子供たちもまた道徳的な選択の自由から恩恵を受けており,それによってわたしたちすべての者は,進歩し,成長し,発達するための機会が与えられているのです。その選択の自由によって,子供たちは利己主義,浪費,放縦,自己破滅に代わるほかの道を選ぶことができます。子供たちはしばしばごく幼いうちからこうした選択の自由を表すことがあります。

子供に対し良心的で愛情深く,関心を持ち,できるかぎり正義の原則に従って生きてきた親の皆さん,どうか慰めを得てください。ある子供たちの行動にかかわりなく,皆さんは良い親なのです。人の話に耳を傾け,従い,教えを受け,学ぶ責任は子供たち自身にあります。親は必ずしも子供の過ちの責任を負うことはできません。なぜなら,親であっても子供に良い行動を取らせることを保証できないからです。ソロモンの知恵やヨブの忍耐力さえ要するような子供も中にはいるのです。

経済的に豊かであったり,あるいは子供を甘やかしすぎたりする親たちには特別なチャレンジが訪れることがよくあります。そのような環境に育った子供は,親が自分の要求を満たすまで親の規律に従わず,ある意味で親を人質のように扱います。ニール・A・マックスウェル長老はこのように述べています。「子供たちに寛大すぎる親は,自分が子供をどうすることもできないことにすぐに気がつくでしょう。大勢の子供たちが親に甘やかされすぎたために問題を起こしているのです。」(Ensign,1975年5月号,101で引用)自分自身で働かずに得たものに対しては心から感謝できないのが人間の本性のようです。

自分の子供が友人に受け入れられ好かれるようにある親たちが過度に気を遣うのは,確かに皮肉なことです。しかもそのような親に限って,自分の子供が仲間と一緒に間違ったことをしているのではないかと心配するのです。

子供たちが価値観を自分のものとするよう助ける

一般に,家庭で親が実践している高い価値観を取り入れ,自分のものにしている子供は,麻薬やアルコール類,不道徳から遠ざかろうと決心するものです。友達の悪い模範や飲酒,性的な不道徳,姦通,不正直,その他の悪徳を魅力的に見せるメディアの巧妙な説得に遭って難しい決断をしなければならないときも,このような子供たちはたいてい親の教えを守ります。彼らはヒラマンの2,000人の若者に似ています。その若者たちは,「……母親から,疑わなければ神が〔死から〕救ってくださると教わっていた」のです(アルマ56:47)。「そして彼らは,……母親たちの言葉を告げて,『わたしたちは,母たちがそれを知っていたことを疑いません』と言いました。」(アルマ56:48

子供の人生に親の教えや価値観をしっかりと定着させるには,神に対する堅固な信仰が大きな力になると思われます。この信仰が自分自身の一部になると,子供は強い精神力を持てるようになります。それでは,教えなければならないすべての大切な事柄の中で,親は何を教えるべきでしょうか。聖文には,親は子供に「……生ける神の子キリストを信じる信仰,およびバプテスマと……聖霊の賜物たまもの」と「悔い改め……の教義」を教えるようにとあります(教義と聖約68:25)。これらの真理は家庭で教えなければなりません。公立の学校で教えることはできませんし,また政府や社会も奨励するものではありません。もちろん,教会のプログラムは役に立ちますが,家庭の中でこそ最も効果的に教えることができるのです。

無数の愛の糸

親が子を教えるには,特別な仰々しい機会は必要ありません。わたしたちはこれを偉大な教師,救い主から学びます。チャールズ・ヘンリー・パークハーストは次のように言いました。「キリストの生涯の完成された美しさは,小さな気づかれることのない美しい行為の積み重ねにほかなりません。たとえば,ヤコブの井戸で女と話されたこと,若い役人に神の国に入ることを妨げるひそかな野心を示されたこと,弟子たちに祈りの仕方を教えられたこと,弟子たちが朝食を取れるよう炭火をおこして魚を焼かれたこと,一晩中漁をしてこごえ,疲れ,失望して岸に戻って来る弟子たちを待っておられたことなどです。これらすべてはキリストが人々に対して抱いておられた関心の本質と性格をいとも簡単に示してくれます。すなわち,非常に具体的で,細やかであり,小さな事柄に力を貸し,取るに足りないことにも心を砕いておられるのです。」(“Kindness and Love,” Leaves of Gold〔1938年〕,177で引用)

親であることはこれと同様です。愛や信仰,しつけ,犠牲,忍耐,仕事など無数の糸によって小さな事柄が大きな事柄となり,家族のつづれ織りが織られていくのです。

聖約の子供たち

この教会の忠実な親たちにとって励みとなるすばらしい霊的な約束があります。それは永遠の結び固めから生まれた子供たちが,聖約を大切に守った勇敢な先祖たちになされた神の約束を受けることができるということです。親が聖約を守るならば,神もその聖約を守ってくださいます。こうして子供たちはこれらのすばらしい聖約と約束の祝福にあずかり,相続人となるのです。これは彼らが聖約の子供であるからです(オーソン・F・ホイットニー,Conference Report1929年4月,110-111参照)。

この世で苦闘し犠牲を払っている尊敬すべき親たちに神が祝福を与えられますように。忠実な教会員である親が守っている聖約を神が特に尊ばれますように,そして聖約の子供たちを見守ってくださいますように。

愛に囲まれた食卓

七十人
リグランド・R・カーティス

家庭の大切さについて書かれた本は,たくさんあります。マリオン・G・ロムニー長老はかつて,「社会に見られる悪性の病は,家族の基盤が揺らぐことにその端を発する」1と語りました。きれいな家具のそろった大きくて豪華な家に住んでいる家族もあるかと思えば,家具もほとんど見当たらない小さくて質素な家に住んでいる家族もあります。しかし,一つ一つの家庭は,わたしたちの好きな賛美歌にあるように「愛ある家は,み国を映す」のです。2ほとんどの家庭の中で目にする最も大切な家具の一つは,食卓です。小さな食卓もあるでしょうし,大きな食卓もあるでしょう。また,食べ物や食器を置くスペースがほとんどないような小さなカウンター式の食卓もあるでしょう。ただ,どんな食卓であれ,そのいちばん大きな役割は,家族一人一人に栄養を与えることではないかと思います。

今日この特別な機会に,食卓が持つもっと深く,より大切な役割に皆さんの注意を向けたいと思います。食卓は,肉体の栄養よりもはるかに多くのものを得られる場所なのです。

食卓での福音に関する話し合い

普通,家族には年齢の違う二人以上の人がいます。家族全員は,食事をするだけでなく,できることなら全員で祈り,語り,耳を傾け,きずなを深め,学び,ともに成長するために集まる必要があります。ヒンクレー大管長の次の言葉は至言です。

「わたしの願いは,もっとうまく語りたいのですが,子供を救うことです。あまりにも多くの子供たちが苦痛と恐れ,孤独,失意の中を歩んでいます。子供には日の光が必要です。幸福が必要です。愛とはぐくみが必要です。思いやりと励まし,愛情が必要です。家の大小を問わず,すべての家庭が愛という環境を与えることができます。それが救いにつながる環境なのです。」3

ほとんどの家族の場合,いったん外に出ると,この世のいろいろな力に身をさらすことになります。それはラジオ,テレビ,ビデオ,そのほかわたしたちが家庭に持ち込む多くのものから強い影響を受けているのと同様です。

テーブル,たぶん食卓になろうかと思いますが,これを囲んでいる家族を思い描いてください。福音,聖餐せいさん会とその話,今月号の『リアホナ』に出てきた記事,学校であった出来事,総大会の話,日曜学校のレッスンについて話し合い,よい音楽を聴いたり,イエス・キリストとその教えについて話し合ったりしている家族です。このほかにも家族でできることはたくさんあります。両親だけでなく家族全員によって,一人一人が話すことができ,お互いに参加する十分な機会を与え合うというのは賢明なことです。

食卓での家族の祈り

テレビを消して,食卓を囲み,ひざまずいて祈り,助けを願い求め,御父の数々の祝福に感謝し,愛にあふれる天の御父について小さいときから教える家族に,どれほどすばらしい成長の機会が秘められているか考えてみてください。家族の祈りを小さいときから経験した子供たちは,やがて自分の家族を持つようになったときにも,家族でるようになるはずです。

トーマス・S・モンソン長老はこう述べました。

「主は『あなたがたの妻子が祝福を受けるように,あなたがたの家族の中で,わたしの名によって常に父に祈りなさい』(3ニーファイ18:21)と語られたとき,家族で祈ることを命じられたのです。

主への祈りをささげている典型的な末日聖徒の家族を一緒にのぞいてみましょう。父,母,そして子供たち一人一人がひざまずき,頭を垂れ,目を閉じています。家庭の中には,愛と一致,そして平安が満ち満ちています。『お父さんが正しい行いをし,主の戒めに忠実でありますように』という幼い子供の祈りを聞く父親にとって,かわいい子供の祈りのとおりに生活するのは難しいと思いますか。また『娘が結婚相手を選ぶに当たって主の導きを受けるように,また,神殿結婚をするため自らをよく整えることができるように』という優しい母親の祈りを10代の娘が聞くならば,その娘は心から愛する母親のこの謙遜な嘆願に添って生活するようになると信じられませんか。また父,母,そして一人一人の子供たちが真剣に,『息子が(あるいはお兄さんが),ふさわしい生活をし,やがて教会の伝道部で主の使いとして働く召しを受けられるように』と祈るような家族では,その息子たちが宣教師として奉仕することを強く望む若者に成長していく姿が見られるようになるのではないでしょうか。」4

多くの人は,「毎日,家族が一緒に集まり主への祈りをささげずに,どうして子供や親をこの世の中に送り出せるでしょうか」と言っています。賢明な両親は一日の予定を検討し,最低一度は家族全員で集まり,祈りの祝福にあずかれるよう計画します。すぐに,小さい子供たちも自分の順番が来たら祈れるようになり,家族の祈りの大切さを学ぶようになります。

家庭を幸福な場所とする

以前,わたしは次のような話をしました。「家庭は幸福な場所となるはずです,なぜなら家族全員がそのように行動するからです。幸福は家庭で作られると言われます。わたしたちは自分たちや子供にとって家庭が幸福で楽しい場所となるように努力しなければなりません。幸福な家庭は福音の教えを中心としています。そのためには,全員が絶えず心を込めて努力しなければなりません。」5

ある大家族の10代の少年が,自分は忙しいのに家族の祈りが長すぎる,と文句を言いました。次の日賢い母親は祈りの中で,その子について何も触れませんでした。祈りが終わると,その忙しい少年は「お母さん,ぼくのこと忘れたよ」と言いました。お母さんは優しく,「あなたは長いお祈りが嫌いでしょう」と説明しました。その忙しい少年は,「ぼくのことを忘れたらだめだよ」と文句を言いました。

食卓での聖文学習

食卓を囲んで聖典を開き,身に付けるべき多くの真理と教えについて話し合っている家族を想像してください。これこそまさに愛に囲まれた食卓です!

子供たちは学校以外でももっと本をたくさん読まなければならないと,教育専門家は言っています。毎日食卓を囲んで,子供たちと一緒に聖文を読むことで,子供たちに祝福を与えることができます。

家族が全員で食卓に集まる機会を作るには,かなりの調整と周到な計画が必要です。しかし,家族の一致,家族の霊的な成長,そして愛に囲まれて語り,耳を傾け,答えるときに築かれるお互いのきずな,これより大切なものがほかにあるでしょうか。わたしたちの成功の大部分は,何度も何度も努力することにあるのです。

家族のきずなを強める

今日こんにちの社会には家族と家庭を破壊しようとする力が満ちあふれています。賢い両親は家族のきずなを強め,家庭の中に霊的な雰囲気を作り出し,イエス・キリストと神殿活動に目を向けようと努力します。ハワード・W・ハンター大管長はこう言いました。

「わたしたちが互いにもっと親切にし,もっと礼儀を尽くし,もっと謙遜けんそんで,忍耐強く,ゆるし合えるように祈っています。……

2番目に教会員に勧めたいのは,その同じ精神をもって,主の神殿を,教会員であることの崇高な象徴とし,最も聖なる聖約を交わす至高の場所として確立することです。神殿に参入するふさわしさをすべての教会員が身に付けること,それがわたしの心の奥底からの願いです。」6

ハンター大管長の願いを実現するうえでいちばんの助けとなるのは,食卓を囲んで行う日々の活動です。

わたしたちは,それぞれの家庭で,自分以外の人に対する接し方を学ぶべきです。ゲーテがこのような言葉を残しています。「相手をその現状の姿で受け入れてしまうと,相手は進歩しない。しかし,偉大な可能性を秘めた価値ある存在として接すると,そのあるべき姿の人間に変わっていく。」7

家庭を礼拝の場所とする

ボイド・K・パッカー長老は次のように言いました。「天国の要素を幾つか家庭の中に持ち込めば,家族の一人一人が教会活動の中で成長していくことが保証されます。もちろん,家庭の夕べはその目的のために用意されており,あらゆる必要を満たすために組織できる家庭での集いです。それは礼拝堂で開かれるのと同じく教会の集会であり,またそうなり得るものです。」8

この勧告はディーン・L・ラーセン長老が話したことと一致しています。「わたしたちが礼拝できる場所は教会の建物だけとは限りません。わたしたちの家庭も信仰の場でなければなりません。毎日『家庭という教会』へ帰れるとしたら,それはすばらしいことです。主の御霊みたまが最も注がれ,容易にそれが受けられる場所は,わたしたち自身の家庭でなければなりません。」9

わたしたちの家庭でこれらがすべて実現されるように努力するに当たり,ハロルド・B・リー大管長の重要な言葉を心に留めておくとよいでしょう。「あなたが(そしてわたしが)行う主の仕事の中で最も大切なものは,自分自身の家庭という囲いの中にあるということを忘れないでください。」10

わたしたち一人一人がそれぞれの家庭と食卓を注意深く見直せるよう,また家庭の中に天国の要素をもたらし,イエス・キリストのみもとに来る努力を常に怠らないよう,切に祈るものです。

  1. “Scriptures As They Relate to Family Stability,” Ensign,1972年2月号,57。

  2. 「愛ある家は」『賛美歌』186番。

  3. 「子供たちに救いを」『聖徒の道』1995年1月号,60-63で引用。

  4. Pathways to Perfection(1973年)26-27。

  5. 「幸福は家庭で作られる」『聖徒の道』1991年1月号,13-14で引用。

  6. “President Howard W. Hunter: Fourteenth President of the Church,” Ensign,1994年7月号,4-5で引用。

  7. In Emerson Roy West, Vital Quotations(1968年),171で引用。

  8. 「家庭から始めなさい」『聖徒の道』1972年7月号,298-303。

  9. 「霊の時計を巻く」『聖徒の道』1990年1月号,59-61

  10. Strengthening the Home(パンフレット,1973年),7。