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第7課:赦(ゆる)しが持つ癒(いや)しの力


第7課

ゆるしが持ついやしの力

応用のための提案

あなた自身の必要や状況に合わせて以下の提案に従ってください。

読書課題

以下の記事を研究する。既婚者の場合は伴侶はんりょと一緒に読んで話し合う。

「あなたがたには,ゆるすことが求められる」

第一副管長
ゴードン・B・ヒンクレー

ゆるしの精神と,愛と思いやりのある態度をもって,自分を苦しめる原因となった相手に接するのは,イエス・キリストの福音の真髄です。わたしたちに必要なのはこの精神です。全世界もそれを必要としています。主はその真髄を教え,自らその模範を示されました。それに勝る模範はありません。

カルバリの十字架上で苦痛に耐えておられたときでさえ,御自身を過酷な十字架につけた実に卑劣な憎むべき人々に対して,主はこのように言っておられます。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34

わたしたちはだれもこれほど寛大にゆるすようには求められていませんが,赦す気持ちと憐れみの心をもって人々に接する義務は,主によってわたしたちに課せられています。主は啓示の中で次のように言明しておられます。「昔のわたしの弟子たちは,互いに機をうかがい合い,またその心の中で互いを赦さなかった。そして,この悪のゆえに彼らは苦しめられ,ひどく懲らしめられた。

それゆえ,わたしはあなたがたに言う。あなたがたは互いにゆるし合うべきである。自分の兄弟の過ちを赦さない者は,主の前に罪があるとされ,彼の中にもっと大きな罪が残るからである。

主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者をゆるす。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求められる。

あなたがたは心の中で言うべきである。すなわち,『神がわたしとあなたの間を裁き,あなたの行いに応じてあなたに報いてくださるように』と。」(教義と聖約64:8-11

わたしたちは,神から与えられたこの原則と,それと不可分の関係にある悔い改めの原則を適用する必要があります。家庭の中でささいな誤解がもとで激しい言い争いに発展してしまったときや,隣人との間の小さな意見の相違が果てしのない苦々しさを抱く結果に至った場合に,これらの原則が必要になります。仕事仲間と仲たがいし,歩み寄ることを拒否しているときなどにも必要です。ほとんどの場合,一緒に腰を下ろして穏やかに話す気持ちが双方にあれば,事態は万事円満に解決できるものです。そうでなければ,かえって敵意を募らせ,あれこれと仕返しを考えて時を過ごす結果になります。

教会が組織されたその年,預言者ジョセフ・スミスは彼を亡き者にしようとたくらむ人々によって何度か捕らえられ,言い掛かりをつけられましたが,それに対して主は啓示を通して次のように言われました。「だれでもあなたを法に訴えようとする者は,法によってのろわれるであろう。」(教義と聖約24:17)今の時代にも,執念深く恨みを晴らそうとする人々はいます。試合などで勝利を得ても少しも心の和まない人々がいます。そのような人は金銭的な報酬は得たとしても,一方ではもっと大切なものを失っているのです。

辛らつさを避ける

フランスの作家ギイ・ド・モーパッサンの作品に,オーシュコムという名の農民を描いた短編小説があります。オーシュコムは市の立つ日,町にやって来ます。広場の方に行こうとしていたら,ふと地面にひもの切れ端が落ちているのが目に入りました。彼はそのひもを拾い上げると,ポケットに入れました。ところが彼のその行為をじっと見ていた人がいました。町の馬具師で,以前二人は悶着もんちゃくを起こしたことがありました。

その日遅くなって,財布が盗まれたことが伝えられました。オーシュコムは馬具師の訴えによって捕らえられます。町長の前に連行されたオーシュコムは,自分が拾ったひもの切れ端を見せて無実を主張します。しかし,彼は信じてもらえず,ばかにされてしまいます。

翌日財布は見つかり,オーシュコムは無罪放免となります。しかし,虚偽の訴えによって侮辱されたことにひどく憤慨した彼は,それからというもの敵意を募らせ,何があってもひもの一件は忘れませんでした。ゆるし,忘れる気持ちのなかった彼は,ただそれだけを思い詰め,そればかりを話題にしました。やがて畑仕事も投げ出してしまいました。行く所,会う人ごとに,彼は自分が不当に扱われたことを触れ回りました。明けても暮れても,ただひもの件に一心不乱の有様でした。この一件が頭から離れなかったオーシュコムは,重い病気にかかり,とうとう死んでしまいます。臨終のうわごとにも,繰り返し,繰り返し言います。「短いひもでさ……ほんの短いひもで……。」(The Works of Guy de Maupassant〔出版年月日不詳〕34-38)

相手や環境が異なっても,この種の話は現代でも度々起こり得ます。自分を傷つけた人をゆるすこと,だれにとってもこれほど難しいことはありません。だれしも自分に対してなされた悪事についてはなかなか忘れられないものです。くよくよ考えていると,それはやがて心をさいなみ,精神をむしばむ病根となります。赦し,忘れること以上に現代において実行を必要とされる徳があるでしょうか。これを弱さのしるしと見なす人もいますが,はたしてそうでしょうか。非道な仕打ちを受けたことに腹を立て,それをいつまでも根に持って,あれこれ仕返しを考えることに精力を浪費しながら生活することは,強くも賢くもないと,わたしは思います。恨みを抱いていると心に平安がありません。「仕返し」のできる日を待ちわびて送る生活に,幸福はありません。

パウロは,人間の生活の「無力で貧弱な,もろもろの霊力」(ガラテヤ4:9)について述べていますが,苦痛の原因を作った相手に,尽きることのない苦々しい思いと復しゅう心を抱きながら人生をすり減らすのは,最も弱々しい貧弱な生活態度です。

ジョセフ・F・スミス大管長は,末日聖徒への反感が非常に強かった時代に教会を管理しました。スミス大管長は卑劣な非難の的となり,ユタ州においてさえも新聞記者たちから激しい中傷を受けました。嘲笑ちょうしょうされ,漫画で風刺されたのです。ところで,彼を笑いぐさにした人々に対して,スミス大管長はどのように答えたでしょうか。読んでみましょう。「彼らを一人にさせ,行かせなさい。望む言論の自由を与えなさい。彼らに思うままに話をさせ,自分の運命を書かせなさい。」(『福音の教義』327)ゆるし,忘れるという並外れた寛大な心の持ち主であったスミス大管長は,きわめて積極的に働きを進め,数々の著しい業績を上げて教会をさらに発展させました。その結果,スミス大管長が亡くなったとき,かつてスミス大管長を嘲笑していた人々の多くは大管長を称賛する言葉を寄せたのです。

わたしはある夫婦から長々と話を聞いたことがありました。私の机をはさんで座った二人の間には苦悩が感じられました。かつては二人の愛も深く,本物であったに違いありません。しかし,互いに相手の欠点を口にする癖が高じて,だれにもあるような間違いでもゆるせなくなり,忍耐し合う気持ちを失いました。互いにあら捜しを始め,ついにはかつての愛もなくして離婚という破局に至ったのです。そうなれば寂しさと相手に対する非難しかありません。もしこの二人に悔い改めと赦しの気持ちが少しでもあったなら,二人は今もなお結婚生活を続け,新婚当初に豊かな恵みをもたらした夫婦愛を享有していたに違いありません。

ゆるしがもたらす平安

もしこの夫婦のように,人に対する憎しみという,毒のある思いを募らせている人々がいるなら,赦す力を主に請い求めるように申し上げたいと思います。このような望みを表すことが,まさに悔い改めそのものなのです。主に赦しの力を請うのは容易でないかもしれませんし,その力がすぐに得られるとも限りません。しかし,もし真剣に求め,その望みをはぐくんでいけば,赦しの力は得られるでしょう。また,たとえ赦した相手がなお苦しめ脅かし続けたとしても,あなたには和解のために自分にできることはすべて行ったということが分かるでしょう。そして,ほかの方法では得られない平安な気持ちが心の中に広がっていくのを感じるでしょう。この平安は,主から来る平安です。主はこのように言っておられます。

「もしも,あなたがたが,人々のあやまちをゆるすならば,あなたがたの天の父も,あなたがたをゆるして下さるであろう。

もし人をゆるさないならば,あなたがたの父も,あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイ6:14-15

放蕩ほうとう息子

わたしは,あらゆる文学作品の中でルカによる福音書第15章に出てくる話ほど,心を打つすばらしいものはないと思います。それは,悔い改めた息子と,その息子をゆるす父親の物語です。父親の忠告を受け入れず,自分を愛してくれる人々もはねつけたうえ,相続財産を放縦な生活で使い果たしてしまった息子の話です。彼は身代を食いつぶして,食べ物にも窮する有様でしたが,どこにも頼る当てがなくなりました。そこで「彼は本心に立ちかえって」(ルカ15:17),父親のもとに戻って来ました。はるか遠くに息子が帰って来るのを認めた父親は,「走り寄り,その首をだいて接吻せっぷんし」ました(ルカ15:20)。

わたしは,皆さんにこの物語を読んでいただきたいと思います。父親,母親である方は皆,繰り返しお読みになってください。この物語はどの家族にも当てはまる大変幅広い意味を持っているだけでなく,全人類にも関係する含蓄を秘めています。というのも,わたしたちは皆,悔い改めて天父の恵みであるゆるしにあずかり,その後御父の模範に従う必要のある放蕩ほうとう息子,娘ではないでしょうか。

御父の愛しておられる御子,わたしたちのあがない主は,ゆるしと慈愛をもってわたしたちに手を差し伸べてくださっていますが,同時に悔い改めを命じてもおられます。高潔な心をもって真に人を赦すなら,その命じられた悔い改めを実践することになるでしょう。主が預言者ジョセフにお与えになった啓示から引用してみましょう。

「それゆえ,わたしは,悔い改めるようにあなたに命じる。わたしの口のむちによって,わたしの憤りによって,またわたしの怒りによって打たれて,つらい苦しみを被ることのないように,悔い改めなさい。これらの苦しみがいかにつらいか,あなたは知らない。いかに激しいか,あなたは知らない。まことに,いかに堪え難いか,あなたは知らない。

見よ,神であるわたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。

しかし,もしも悔い改めなければ,彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。

その苦しみは,神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。……

わたしに学び,わたしの言葉を聴きなさい。わたしの御霊みたまの柔和な道を歩みなさい。そうすれば,あなたはわたしによって平安を得るであろう。」(教義と聖約19:15-18,23

これが主の戒めです。また,次のような模範的な偉大な祈りを残された主の約束なのです。「父よ,……わたしたちに負債のある者をゆるしましたように,わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイ6:9,12

「傷ついた者の手当てをする」

南北戦争という悲惨な出来事の中で,エーブラハム・リンカーンは次のような美しい言葉を残しました。「何人にも敵意を抱かず,すべての人に愛を持って,……傷ついた者の手当てをしようではないか。」(John Bartlett, Familiar Quotations〔1968年〕,640で引用)

兄弟姉妹の皆さん,傷ついた人々の手当てをしようではありませんか。辛らつな言葉によって傷ついている人,しつように不満の種をくすぶらせ,傷つけられた相手に「仕返し」をすることを考えて自ら傷ついている人が大勢いるのです。わたしたちはだれでも,この恨みを晴らしたいと願う心を少しなりとも持っています。しかし幸いにも,もし「完全と平和のきずなである慈愛のきずなを,外套がいとうのように身にまと」うならば(教義と聖約88:125),わたしたちはだれでもそのような心に打ち勝つ力を持てるのです。

「あやまちは人の常,ゆるすは神の業。」(Alexander Pope, An Essay on Criticism,2:1711)古傷の痛みをあれこれ思い出すところに平安はありません。平安は悔い改め,赦すことによって初めて得られるものなのです。これこそ次のように言われたキリストから来る平安なのです。「平和をつくり出す人たちは,さいわいである,彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9