……わたしはこの仕打ちに甘んじて耐え,柔和であった。群集はこれに驚き,わたしが静かに解放されるのを許し,彼らの多くは険しい表情を浮かべていた。わたしに寄せた彼らの同情はわたしの心を動かし,わたしは御霊と神の愛に満たされ,迫害者やほかのだれに対しても憎しみを抱くことはなかった。」(Manuscript History of the Church, vol.A-1, p. 327–28,josephsmithpapers.org; spelling, capitalization, and punctuation standardized)
「〔ジャックス〕姉妹が〔まき散らされた啓示の書〕を幾つか拾い上げていると,暴徒が近づいてきて,こう言い放ちました。『ご婦人,これはあなたがたがこれから経験する苦しみの始まりに過ぎませんよ。』『ほら,あなたがたのビショップはタールと羽根まみれだ。』ビエナが見上げると,……太陽の輝きをしのぐほどの明るい光に包まれ歩くビショップの姿が見えました。ビエナは声を上げました。「神に栄光あれ!エドワードは,タールと羽根のゆえに,栄光の冠を授かることでしょう。」(Vienna Jaques, Statement, Feb. 22, 1859, Church History Library, Salt Lake City; spelling, capitalization, and punctuation standardized〔訳注—『聖徒たち』第1巻,174も参照〕)
これらの観点から,〔地元の教会の指導者は〕……条件を呑んで郡から去ることに同意することが賢明だと考えました。その条件とは〔すなわち〕これらの長老たちは出て行き,彼らの社会に対する影響力を行使して,まず聖徒の半分を1月1日までに,もう半分を1834年4月1日までに郡から去らせるというものでした。これらの期日が来る前に,神の導きがあり,彼らのために道を開き,平安のうちにそこに住むことができるようにしてくださることを望みました。暴徒の群衆は,聖徒がとどまっている間は聖徒を苦しめないことに同意しました。」(“A History, of the Persecution, of the Church of Jesus Christ, of Latter Day Saints in Missouri,” Times and Seasons, Dec. 1839, 18–19, josephsmithpapers.org; spelling and punctuation standardized)
教会指導者はなぜ,ジャクソン郡を立ち去ることに同意したのでしょうか。
ミズーリの教会指導者が,聖徒に課せられた要求に同意した後,オリバー・カウドリがオハイオ州カートランドへ向かい,預言者ジョセフ・スミスに進展を知らせたことを説明します。オリバーが移動しているころ,ジョセフ・スミスとカートランドにいたほかの教会指導者は,1833年8月6日付の手紙をミズーリの教会指導者に送りました。この手紙には,今日教義と聖約第94,97,98章として知られている啓示の写しが含まれていました。オリバー・カウドリがカートランドに到着した8月9日,ミズーリへの攻撃の知らせが届けられ,ジョセフ・スミスは深く心を悩ませました。8月18日,ジョセフ・スミスはさらにもう一通の手紙を送り,ジャクソン郡の財産を手放したり売却することのないよう聖徒たちに助言しました。1833年10月,ミズーリの教会指導者は,聖徒たちが自分たちの財産を守るための法的手段を見いだすべく弁護士を雇いました。これらの行動はミズーリの住民を激怒させ,力づくで聖徒たちを追放する決定が下されました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J.Dirkmaat and others [2014], 228–237, 258–69, 333.)
……女性と子供は方々へ逃げた。150人ほどからなる一団が草原へ逃げ込み,ほとんど食糧なしで数日間そこをさまよった。彼らの避難場所には,広がる大空しかなかった。そのほかの者たちは,ミズーリ川へ向けて逃げた。女性や子供が散らされる中,暴徒は男たちを追い,銃で撃たれる者,縛られる者,鞭で打たれる者もいれば,何マイルも追いかける者もいた。」(Autobiography of Parley P.Pratt, ed. Parley P.Pratt Jr. [1938], 101–2)
「わたしは190人の女性と子供たちの一団が,わずか3人の年老いた男性とともに30マイル(約50キロ)の平原を追われて行くのを目撃した。11月で,地面は薄くみぞれが凍りついている。わたしは彼らの後を簡単に追うことができた。株だけが焼け残った木が刺さって傷ついた足から血がしたたり,彼らの踏み後を転々と染めていたからである。」(Lyman Wight, in “Trial of Joseph Smith,” Times and Seasons, July 15, 1843, 264)
「川岸には,渡し船の両側に,男,女,子供,品物,荷車,箱,食糧などの列ができ,その間も船は絶え間なく往来していました。……数百人があちこちに散らばり,土砂降りの雨の中を,ある者はテントの中に,ある者はたき火の周りに集まっていました。夫は妻を,妻は夫を,親は子供を,子供は親の行方を尋ねました。……その光景は筆舌に尽くし難く,この光景を目にしたならば,地上のいかなる人の心も同情にあふれるに違いないでしょう。あの盲目の虐待者,盲目で無知な住民を除いては。」(Autobiography of Parley P. Pratt, ed.Parley P.Pratt Jr. [1938], 102).
「ミズーリ川の岸部で野営しながら船に乗るのを待っている間,〔わたしたちは〕全員を連れて行くだけの十分なお金がないことに気がつきました。一つあるいは二つの世帯が残らなければならず,もし残るとなると,殺される恐れがありました。そこで,渡船業者が彼らを乗せてくれるようにと〔期待しながら〕,ヒグビーという名の兄弟ら数名が魚を捕まえるために,夜,釣竿を垂らしました。一晩中,そして翌日もほとんどずっと雨が降りました。〔そして,〕釣竿を引くと2,3匹の小さな魚と,約6.5キロもの重さのナマズが釣れました。ナマズの腹を開いてみると,驚いたことに,きらきらと輝く銀の50セント硬貨が3枚見つかりました。これはまさに,一団が川を渡るために必要な支払額だったのです。これは奇跡と見なされ,わたしたちに大いなる喜びをもたらしたのでした。」(Mary Elizabeth Rollins Lightner, “Mary Elizabeth Rollins Lightner,” Utah Genealogical and Historical Magazine, July 1926, 197)