2010–2019
一致して救助する
2014年10月


一致して救助する

救い主を助けるためには,わたしたちは結束し,一致して働かなければなりません。どの人も,どの召しも大切です。

わたしたちは,モンソン大管長が「救助の手を差し伸べる」と言うのを何度も耳にします。1新約聖書にある記述が思い浮かびます。これは,会員と宣教師が救助の手を差し伸べるために,ワードの評議会を通してどのように協力できるかを示す最適な例です。その話はマルコ2章1節から5節にあります。ある教義や原則をわたしたちに教えるためにイエスが用いられた経験談は,いつも,最も感動的で分かりやすいです。

この話の登場人物の一人は中風を患っている男性で,助けなしに自分で動くことができず,家で救助を待つことしかできませんでした。

現代なら次のようになるのでしょう。4人の人たちがビショップから中風の男性の家に行くように割り当てを受けて,それを果たしていました。彼らが,扶助協会から一人,長老定員会から一人,アロン神権者から一人,そして最後になりますが重要な一人の専任宣教師の計4人であることが目に浮かびます。つい最近のワード評議会で,ワードの必要について評議した後,ビショップが「救助の割り当て」を要請しました。この男性を助けるという割り当てを受けたのがこの4人です。男性が自分で教会に来るのを待つことはできない状態でした。皆でその人の家に行き,彼を見つけなければなりませんでした。それで,彼らは出かけて行ったのです。男性がイエスのところに連れて来られました。

「すると,人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて,イエスのところに連れてき〔まし〕た。」(マルコ2:3)

しかし,部屋は人がいっぱいで,ドアから入ることができません。彼らは思いつく限りの手段を尽くしたに違いありません。でも,中に入れず,計画どおりにはいきませんでした。「救助」の過程には障害物がありました。しかし,4人は諦めませんでした。男性をドアのそばに置き去りにすることはせず,どうしたらその人をイエス・キリストのもとに連れて行って癒やしてもらえるのか,そのために次はどうすればよいか話し合いました。イエス・キリストの救いの業を助けることが難しすぎるなどということは,少なくとも彼らにとっては,あり得ませんでした。ある計画を思いつき,簡単ではありませんが,彼らはそれを実行しました。

「ところが,群衆のために近寄ることができないので,イエスのおられるあたりの屋根をはぎ,穴をあけて,中風の者を寝かせたまま,床をつりおろし〔ました〕。」(マルコ2:4)

彼らは男性を屋根に引き上げました。外には屋根に上がるための階段などなかったでしょうから,全員が屋根に上がるまで時間がかかったことでしょう。こんな様子ではなかったでしょうか。まず,ワードの若い男性が屋根に上がったことでしょう。若くて元気いっぱいの彼には難しいことではなかったでしょう。彼のホームティーチングの同僚で長老定員会の兄弟と背が高くたくましい専任宣教師が,下から一生懸命彼を押し上げたでしょう。扶助協会の姉妹が気をつけるよう声をかけ,励ましの言葉をかけたでしょう。それから男性たちは屋根をはがしました。その間,自分の力で動いて,自由になるために癒やされるのを待っているその男性を姉妹は慰め続けていたことでしょう。

この救助の割り当てには全員の一致した働きが求められました。中風の男性を屋根から降ろすという正念場では,注意深く,力を合わせなければなかったはずです。4人は一致し,協調しながら作業しなければなりませんでした。どんな不和も許されず,中風の人をそれぞれが同じ速度で降ろさなければならなかったはすです。誰かが他の三人より早く綱を放していたら,その人はベッドから落ちてしまったことでしょう。その人は力が弱いために,自分の力でつかまっていることができなかったのです。

救い主を助けるためには,わたしたちは結束し,一致して働かなければなりません。どの人も,どの召しも大切です。わたしたちは主イエス・キリストにあって一致していなければならないのです。

ようやく,中風の人はイエスの前に寝かされました。「イエスは彼らの信仰を見て,中風の者に,『子よ,あなたの罪はゆるされた』と言われた。」イエスはその人に憐れみを示されて,肉体だけでなく,霊的にも癒やされました。「子よ,あなたの罪はゆるされた。」(マルコ2:5)なんとすばらしいことでしょうか。わたしたち皆にも同じことが起きてほしいと思いませんか。わたしなら絶対にそう思います。

わたしたちの生活の中で,霊的な中風を患っている人,つまり,自分自身の力では教会に戻ってくることのできない人を知りませんか。その人は,わたしたちの子供の一人かもしれません。親や伴侶,あるいは友人かもしれません。

教会の各ユニットに,以前よりかなり多くの専任宣教師がいる現在,ビショップや支部会長がワード,あるいは支部評議会をより効果的に活用するのは賢明なことです。ビショップはワード評議会に参加する会員に,助けを必要としている人たちの名前のリストを持って来るように勧めてください。ワードの評議会の参加者は,助けるための最善の方法を入念に話し合います。ビショップはそこでの提案を注意深く聞き,責任を割り当てます。

ワードにとって,こうした救助の取り組みに大きな力となるのが専任宣教師たちです。宣教師たちは若く,力にあふれています。彼らは,ともに働く一人一人の名前を載せたリストを喜んで受け取ってくれます。ワードの会員と協力して働くことは宣教師にとって楽しいことなのです。宣教師たちは,こうしたことが新しい求道者を見つけるすばらしい機会となることを知っています。彼らは主の王国を確立することに自らをささげています。彼らは,このような救助の取り組みに加わるとき,自分たちがよりキリストのようになるという強い証を持っています。

最後に,この聖典の話に隠されているもう一つの宝について話したいと思います。5節に「イエスは彼らの信仰を見て」(強調付加)と書かれています。彼らの信仰という点に,以前は気づきませんでした。一つとなったわたしたちの信仰は,他の人々の幸福にも影響を与えます。

イエスは誰について話したのでしょうか。そこに含まれていたのは,中風の人を運んだ4人,中風の人自身,彼のために祈った人々,そして,その場でイエスの説教に耳を傾け,間もなく起こる奇跡に心の中で静かに喜びの声を上げていた全ての人たちだったことでしょう。さらに,伴侶,親,息子あるいは娘,宣教師,定員会会長,扶助協会会長,ビショップ,そして遠くにいる友人も含まれていたかもしれません。わたしたち皆が互いに助け合うことができます。わたしたちはいつも,困っている人たちを救助することに熱心に携わらなければなりません。

イエス・キリストが奇跡の神であられることを証します。イエス・キリストはわたしたち全員を愛しておられ,肉体と霊の両方を癒やし,救う力をお持ちです。人々を救う使命を果たされる主をわたしたちが助けるとき,わたしたちもその過程の中で救助されるのです。主イエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。

  1. トーマス・S・モンソン「救助の責任」『リアホナ』2013年10月号,5参照