2010–2019
個人の平安―義の報い
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個人の平安―義の報い

人生の様々な試練にもかかわらず,救い主の贖罪とその恵みのおかげで,義にかなった生活をすることで個人の平安が報いとして与えられます。

最近の経験によって,平和に関する教義について,とりわけ,わたしたち一人一人に,永続する個人の平安を得させてくださるイエス・キリストの役割について大いに考えさせられました。

ここ数か月のうちに起きた二つの出来事に深く心を動かされたのです。その一つは,かけがえのない6歳の少女エミリー・パーカーの葬儀で話をしたときのことです。エミリーはコネチカット州ニュータウンで起きた悲惨な銃撃事件で,幼い子供19人を含む25人の犠牲者とともに命を失いました。わたしは彼女の家族に深い哀悼の意を寄せると同時に,多くの人々の心から平安が消えてなくなっていることに気づきました。そのような中にあって,エミリーの両親のロバート・パーカー,アリッサ・パーカー夫妻には強さと信仰がはっきりと見て取れました。

二つ目の経験は,コートジボワールのアビジャンで,何千人もの忠実な教会員と集会を持ったときのことです。1西アフリカにあるこのフランス語圏の国は,これまで経済的困窮と軍の圧政に耐え,近年の二つの内戦が2011年に入ってから終結を迎えたばかりでした。それでも,彼らとともにいるとき,わたしは特別な平安を感じたのです。

わたしたちから平安を奪ったり,深く傷つけられたりするような出来事はしばしば起こります。

2001年9月11日の,アメリカ合衆国の各地を襲ったあの邪悪な攻撃を忘れられる人がいるでしょうか。あのような出来事に遭遇すると,平安や安心感といった思いがいかに一瞬のうちに打ち砕かれてしまうものか思い知らされます。

当時,我が家の長男とその妻は,ニューヨーク市の世界貿易センタービルから3ブロック離れた所に住んでおり,最初の子供の誕生を心待ちにする日々でした。事件当日,1機目の飛行機がビルの北棟に激突したとき,アパートの屋上に行き,その光景を目にした二人は,ぞっとしました。何か悲惨な事故が起きたと考えたのです。それから,今度は南棟に2機目の飛行機が激突するのを目の当たりにしました。二人はすぐに,これは単なる事故ではなく,マンハッタン島の南部が攻撃を受けているに違いないと察しました。南棟が崩れ落ちたとき,二人の住んでいたアパートはマンハッタン島の南部一帯に降り注いだ粉塵に覆われました。

目撃した光景に気が動転し,さらに攻撃を受けることを案じた二人は,より安全な地域を目指して,リンカーンセンターの近くにある教会のマンハッタンステークの建物へと向かいました。建物に到着した二人は,自分たちと同様にステークセンターに集まるという判断をしたマンハッタン島南部に住む教会員がほかにも数十人いたことを知りました。二人はわたしたちに電話をかけてきて,自分たちの居場所を知らせてくれました。わたしたちは息子たちの無事を知って安心しましたが,彼らの居場所を聞いても驚くことはありませんでした。近代の啓示によって,シオンのステークは防御であり,「嵐と激しい怒りが全地にありのままに注がれるときに,その避け所となる」と教えられているからです。2

二人は1週間以上アパートに戻ることができず,罪のない人々の命が失われたことにひどく打ちのめされていましたが,二人とも後々に影響の出る損害は特に受けませんでした。

こうした出来事について思い巡らすにつけ,世界全般の平和と個人の平安との間に見られる教義上の違いに深い感銘を受けます。3

救い主がお生まれになったとき,おびただしい天の軍勢が神を賛美し,こう宣言しました。「いと高きところでは,神に栄光があるように,地の上では,み心にかなう人々に平和があるように。」4

しかしながら,神の御子の降誕に続くこの永遠に特筆すべき時期にあってさえも,ヘロデ王がベツレヘムの無垢な幼子たちを虐殺したことは衝撃的な話として語り継がれています。5

選択の自由は,幸福の計画に不可欠です。この自由があるからこそ,愛や犠牲,個人の成長といった,わたしたちが永遠に進歩するうえで必要な経験が得られるのです。また選択の自由によって,死すべき状態にあるわたしたちはあらゆる苦痛や苦悩を経験します。それらの苦しみは,自分たちの理解が及ばない事柄が原因となる場合もあれば,ほかの人々による破壊的で邪悪な選択の結果である場合もあります。天上における戦いは,まさに,地上における救い主の働きを理解するうえで不可欠な,わたしたちの道徳的な選択の自由をかけた戦いだったのです。

マタイによる福音書第10章で述べられているように,救い主は十二使徒に教えを授け,御自身の使命はこの世にあって普遍的な平和を実現するのではないことをお認めになりました。使徒たちは,彼らが訪れたふさわしい家に平安を残すよう告げられましたが,彼らは「おおかみの中に送〔られ〕るようなものである。……また……わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし,最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という警告を受けました。634節では,次のような興味深い宣言がなされています。「地上に平和をもたらすために,わたしがきたと思うな。」7キリストが地上で教え導いておられる間,地上に普遍的な平和が存在していなかったことは明白ですし,それは現在でも同じです。

教義と聖約に向けた主のはしがきの中で,数多くの非常に重要な原則が教えられています。悔い改めない人々に関して,世に来るすべての人々に与えられる御霊(キリストの御霊)は,8「いつでも人を励ますわけではない」99と記されています。また「平和が地から取り去られ〔る〕」10とあります。これまで預言者たちは平和が実際に地上から取り去られていると宣言してきました。11ルシフェルはまだつなぎ置かれておらず,この世で権勢を奮っています。12

世界中の善良な人々の義にかなった願いは,世に平和がもたらされることです。これまでもそうでしたし,これからも常に変わらないでしょう。この願いがかなえられるという望みを,わたしたちは決して捨ててはなりません。しかし,ジョセフ・F・スミス大管長はこう教えました。「人類が神の真理と神の言葉を受け入れ,……神の力と権能を認めるまで,世に平和と愛の精神はもたらされないのです。」13

わたしたちは全世界の平和を心から望み,祈り求めています。しかし,義にかなった人々に約束されているそのような平和を実現する役割は,わたしたち一人一人に,そして個々の家族にあります。この平和は,救い主の使命と贖いの犠牲によって約束された賜物なのです。

この原則については,教義と聖約に次のように的確に表現されています。「しかし,義の業を行う者はその報いを受ける,すなわち,この世において平和を,また来るべき世において永遠の命を受けるということを知っておきなさい。」14

ジョン・テーラー大管長は,平和は望ましいものであるだけでなく,「神の賜物です」15と教えました。

わたしが今お話ししている平和は,単なる一時的な平穏ではありません。それは永続的な深い幸福感であり,霊的な満足感です。16

ヒーバー・J・グラント大管長は救い主の平安について,このように説明しています。「主の平安はわたしたちの苦しみを和らげ,打ち砕かれた心を持つ者を癒し,憎しみの感情を取り除き,平安と幸福感で心を満たす隣人愛を抱かせてくれます。」17エミリー・パーカーの両親に会ったとき,救い主の平安が二人の苦しみを和らげ,打ち砕かれた心を癒す助けになっていました。あの銃撃事件の直後に,パーカー兄弟が犯人に対して赦しを表明したことは注目に値します。グラント大管長が述べたように,救い主の平安は,「憎しみの感情を取り除〔く〕」ことができるのです。裁きは主がなさることです。

コートジボワールの聖徒たちは,国内で内戦が続く間,イエス・キリストの福音に従う生活に心を向けることで,特に,先祖のために家族歴史と神殿活動に焦点を当てることで平安を見いだしました。18

わたしたちは皆,平和を切望します。平和とは,単に戦争や暴力,対立,争いがなく安全であることではありません。わたしたちが何者であるかを救い主は御存じであって,深刻な試練や悲劇のさなかにあってさえ,わたしたちが主を信じる信仰を持ち,主を愛し,その戒めを守っているのを承知しておられることを知ることで,平安がもたらされるのです。リバティーの監獄にいる預言者ジョセフ・スミスに与えられた主の答えは,心に慰めをもたらします。

「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。

その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。」19

神は「無秩序の神ではなく,平和の神である」ことを忘れないでください。20 神に背く者に平安はないのです。わたしたちは皆,現世における選択の自由が提示された天上の会議に参列しており,自らの選択の自由を誤って使うことにより,この世の苦痛や言い表せないほどの悲劇にさえ遭遇することを知っていました。そのために,わたしたちは怒ったり,困惑したり,無力になったり,傷ついたりするかもしれないことを理解していたのです。しかし,わたしたちは,救い主の贖罪がこの世のあらゆる不公平に打ち勝ち,埋め合わせをし,平和をもたらしてくれることも知っていました。マリオン・D・ハンクス長老は,次のようなウーゴ・ベッティの言葉を額に入れて壁にかけていました。「神を信じるとは,すべての戒めが正しいことが証明され,想像もできなかったすばらしい報いが待っているということを知ることである。」21

平安の源は何でしょうか。多くの人々はこの世の方法で平安を探し求めます。これまでに成功したことがなく,今後も成功する見込みのない方法です。平安は,ばく大な富や権力,名声を手に入れることで見いだせるものではありません。22楽しみや気晴らし,レジャーを追い求めることによっても見いだせません。これらはどれも,たとえどれほど多くを手に入れたとしても,永続する幸福や平安を生み出すことはないのです。

エマ・ルー・セインが大好きだった賛美歌は,実に的を射た疑問を投げかけています。「平和はいずこにありや。ほかに癒しなき時,慰めはいずこにありや。」23その答えは救い主です。救い主こそ平和の神であり,「平和の君」であられるのです。24

どのようにすれば救い主の近くにいられるでしょうか。神の御前に自らへりくだり,常に祈り,罪を悔い改め,打ち砕かれた心と悔いる霊をもってバプテスマの水に入り,イエス・キリストの真の弟子になることは,義にかなった人々の示す優れた模範であり,その報いとして永続的な平安が与えられます。25ベニヤミン王が,キリストの贖罪について霊感あふれるメッセージを語り終えると,群衆は地に伏しました。「主の御霊が彼らに降られた。そして彼らは,罪の赦しを受け,良心の安らぎを得たので,喜びに満たされた。それは,彼らが……イエス・キリストを深く信じたためである。」26悔い改めと義にかなった生活は良心の安らぎをもたらしますが,これは満足感を得るために欠かせません。27重大な罪を犯したときには,平安を得るために告白が必要です。28罪に苦しむ人がその重荷を主にゆだね,贖罪による祝福を求めることによって得られる平安に匹敵するものは,恐らくほかにありません。教会で好んで歌われる別の賛美歌もこう歌っています。「重荷はみもとに 頼みてゆかん」29 

現在,何万人もの若い男性や若い女性,夫婦宣教師たちが,わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストの使者となる召しを受け入れていることを知って,心から喜んでいます。彼らは回復された平和の福音を世に携えて行き,1度に一人ずつ,一家族ずつ,義にかなった働きをして,この平安を天の御父の子供たちにもたらしているのです。

教会は,キリストに従う者たちが平安を得る避け所です。この世の若者の中には,自分は霊的ではあるが,宗教的ではないと言う人もいます。霊的な事柄を感じ取ることは,望ましい第一歩です。しかし,わたしたちが仲間から手を差し伸べられ,教えを受け,神の善い言葉で養われる場所は教会の中なのです。さらに大切なのは,家族を結び合わせる神聖な儀式や聖約を施し,わたしたち一人一人に日の栄えの王国におられる父なる神とイエス・キリストのみもとに戻る資格を得させてくれるのは,教会にある神権の権能であるということです。彼らが主と聖約を交わすことによって,これらの儀式が平安をもたらしてくれるのです。

神殿は,そうした神聖な儀式の多くが執り行われる場所であり,この世からの平安に満ちた避け所でもあります。神殿の敷地を訪れたり,神殿のオープンハウスに参加したりする人々も,この平安を感じます。フィジー・スバ神殿のオープンハウスと奉献式は,わたしが特によく覚えている経験の一つです。フィジーでは政治的な騒乱が続いており,反乱軍がスバの繁華街で放火や略奪行為に及び,国会議事堂を占拠し,議員を人質にしていました。国内が戒厳令下にあったのです。フィジー国軍は教会に対し,限られた人数しかオープンハウスに集まる許可を与えてくれなかったので,奉献式に集ったのはごく少数のグループだけでした。一般の会員たちは,安全を考慮して招待されませんでした。このような神殿の奉献式は,最初のノーブー神殿が非常に困難な状況の下で奉献されて以来,初めてのことでした。

オープンハウスに招待された人物の一人に,インド人を先祖に持つ美しいヒンドゥー教徒の女性がいました。国会議員の一員である彼女は,当初人質として拘束されていましたが,女性であるという理由で解放されたのです。

日の栄えの部屋で,この世の喧噪から解放されたその女性は,涙を流しながら,自分を包み込んでいる平安な気持ちについて言い表しました。聖霊が慰めを与え,神殿の神聖な特性について証されるのを,彼女は感じたのです。

救い主は平和の真の源です。人生の様々な試練にもかかわらず,救い主の贖罪とその恵みのおかげで,義にかなった生活をすることで個人の平安が報いとして与えられます。過越を祝うためにひっそりと集まった部屋で,救い主は使徒たちに,彼らは祝福として「助け主,すなわち,……聖霊」を受けると約束されました。それから,次のような重大な意味のある言葉を口にされました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。」30その後,御自身が執り成しの祈りをささげられるまさにその前にこう言われたのです。「これらのことをあなたがたに話したのは,わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」31

これについてエライザ・R・スノーは,見事に書き記しています。

「神を賛めたたえ

絶えず喜べよ

悩みは多くも

主は『われに頼れ,平和得よ』と言う」32

以上のことを,イエス・キリストの御名により証します,アーメン。