2000–2009
聖なる御霊の勧めに従う
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聖なる御霊みたまの勧めに従う

わたしたちの内にあって心を駆り立てるカは留なる源から出ており,それに従えば道をそれることのないように助けてくれます。このようにして有害な影響や危険な回り道からわたしたちを守ってくれるのです』

わたしは思いやり深い両親のもとわで価値観が教えられ実践される家庭に育ち,教会員となって福音の原則を受け入れる備えをすことができました。わたしは1959年の8月,19歳の誕生日を少し過ぎたころにバプテスマを受けました。改宗に先立って行われるこの儀式について深く考えていると,子どものころのある経験がよみがえってきました。

子どものころ住んでいた家の近くには,大きな屋敷がありました。その家は立派さくな地所に建っていて,高い柵さくで囲まれていました。柵は細長い木片を連ねて造られていて,子どものわたしにはそびえるような高い柵に見えました。恐らく6フィ一トぐらい〔約180センチ以上〕はあったでしょう。板が何枚か外れてしまった柵の破れ目から,よくのぞき見したものです。さながら望遠鏡で別世界を眺めているようでした。見事に手入れされた芝生,絶えず花が咲き乱れる庭,こぢんまりした果樹園は天国のようで,独特のたたずまいの家でした。あいにく警戒心の強い英国種のブルドッグのせいで,その眺めを楽しめるのはいつもほんのひとときだけでした。その犬は庭を見回っていて,だれかが柵の入り口に近づこうものなら,たちまち突進して来るのでした。その恐ろしい犬は庭から外へは出られませんでしたが,犬が柵に近づいて来て,くんくんと鼻を鳴らす音を聞くと,起こり得るあらゆる危険がまざまざと脳裏に浮かび,わたしは恐ろしさのあまり逃げ出すのでした。

屋敷に住んでいたライアン夫婦はともに学校の教師でした。二人とも貫禄かんろくがあって,屋敷の中でゆったりと過ごす私生活を楽しんでいるようでした。そのうえ好奇心を引かれることには,ライアン氏には右腕がなく,上着の袖そで口からのぞいている金属製の鉤がその代わりをしていました。わたしは少年特有の想像力で,ライアン氏が追いかけて来てその鉤かぎで襟えり首を捕まえ,わたしを奴隷にしてしまう様子を思い描いたものです。

10歳か11歳のころの,8月の朝のことを思い出します。前夜いつになく風が強かったある朝,家を出ると友人たちに声をかけられました。明らかに何かに興奮している様子で,こう尋ねてきました。「夕べの風,聞こえたかい。」

聞こえたと答えるやいなや,彼らは自分たちの発見について話し始めました。ライアンさんの家を囲む柵の一部が風で吹き飛んでしまったというのです。それがなぜそんなに興奮すべきことなのかわたしには分からなかったので,意味を説明するよう頼みました。

友人たちはますます夢中になって答えました。「りんごの木の所に行けるんだよ。」

それでも用心深くわたしは聞きました。「でも,ライアンさんはどうするの。」

「二人とも家にいないよ。親戚しんせきの家に行ってるんだ。」

「ても犬はどうするんだい。」わたしはさらに尋ねました。

「ペットの預かり所に連れて行かれたよ」と答えが返ってきました。

友人たちは綿密に調べ上げていました。そんなわけで,友達の言葉に太鼓判を押され,わたしたちは目的のりんごの木を目指して大急ぎで走り出しました。敷地に入ると木によじ登り,手早く実をもいで,ポケットやシャツの中までいっぱいに詰め込みました。あの犬かライアンさんが,それともその両方が庭に現れて自分たちを捕まえはしないかと気が気でなく,わたしの心臓はドキドキして,鼓動が早くなるのを感じました。不法侵入の現場から人目につかない近くの木立まで走って一息つくと,わたしたちはりんごにかぶりつき始めました。

まだ8月だったので,りんごは十分に熟していませんでした。その味は実際大変酸っぱかったのですが,熟していないりんごの酸味をもってしても,分捕り品を夢中になって食べるわたしたちを思いとどまらせることはできませんでした。どうしてあれほど衝動のままに行動してしまっ,たのか,わたしはいまだに説明すること・ができません。かなりの数のりんごをむさぼるように食べると,わたしは満足し,残りのりんごは一口ずつかじってから近くの茂みの中に投げ捨ててしまいました。急いで詰め込んだりんごに体が反応し始めるにつれて,わたしたちの浅はかな楽しみも消え入るばかりにしぼんでいきました。胃液と熟していないりんごが化学反応を起こして,腹痛と吐き気を催してきました。自分のしたことを後悔しながら座り込んでいると,あることに気がつきました。わたしの心の内にあるその感覚は,熟していないりんごが引き起こした苦痛以上のものであるということです。

そのより大きな苦しみは,自分のしたことが悪いことであると気づいた結果生まれたものでした。

友人たちに庭に忍び込もうと誘われたとき,わたしは落ち着かないものを感じたにもかかわらず,「いやだ」と言う勇気がなくて自分の感情を押し込めてしまいました。行動を起こした後になって,わたしは激しい後悔の念にさいなまれていたのです。残念なことに,わたしの行動が間違っていると警告してくれる促しの声を無視してしまったのです。

物理的な障害物や外部からの圧力が,わたしたちが聞違った道に進むのを妨げることがあります。しかしわたしたちそれぞれの内には,ある感覚があって,それは時に静かな細い声と呼ばれています。1 その声に気づいて従うなら,わたしたちは誘惑に屈することがないよう守られるでしょう。

後年,ボイド・K・パッカー長老の次のような言葉が,わたしの心の琴線に触れました。「ひとたび警告の声を退けてしまうと,必ず間違った道に踏み込むことになります。」わたしは盗みについて警告してくれた御霊みたまの声を無視してしまったときのことや,似たような経験を思い起こしました。また,自分の行動が引き起こす結果をよく考えるときに感じる気持ちや洞察について考えました。

預言者モルモンは次のような言葉で,これらの気持ちの源について認識を広めるよう教えてくれています。「善悪をわきまえることができるように,すべての人にキリストの御霊が与えられている。」2

わたしたちすべてがこの導きの賜物たまものを持っているという考えは,聖ヨハネによる福音書の中で救い主について記された次の聖文によって裏付けられます。「すべての人を照てらすまことの光があって,世にきた。」3

わたしたちの内にあって心を駆り立てる力は聖なる源から来ており,それに従えば道をそれることのないように助けてくれます。このようにして有害な影響や危険な回り道からわたしたちを守ってくれるのです。

例のりんごの事件から数週間たったころ,わたしは我が家のそばにある木立へと出かけて行きました。そこで友人たちと合流して一緒に活動かゲームをして遊ぶつもりだったのです。寄り集まっている友入たちに近づいて行くと,頭の上の方に煙が立ち昇っているのが見え,たばこのにおいがしました。友人の一人がたばこを手に入れ,みんなで吸っていたのです。友人たちは一緒に吸わないかと誘ってきましたが,わたしは断りました。加わろうとしないのは弱虫の証拠だと言って,何度もしつこく誘われました。やがて非難は軽蔑けいべつの言葉を交えた嘲笑ちょうしょうに変わりました。しかし友人たちは何を言おうが何をしようが,わたしの決心を変えさせることはできませんでした。わたしは,回復された福音についても知恵の言葉についても,何も知らずに育ちましたが,友人たちの輪に加わってはならないという内なる気持ちによって思いとどまることができたのでした。

自分がした決意について思い返しながら我が家に向かっていると,わたしは心地よいものを感じました。その日思い描いていた楽しみは実現せず,友達なしで時間を過ごす方法を見つけなければならなくなりましたが,自分自身について幾つかの事柄を発見しました。ほんとうの幸福の源や,周りの状況や結果はどうであれ正しい決断をすることで得られる活力について学んだのです。

預言者ジョセブ・スミスが神から受けた啓示は,以下の聖句の中で,生来備わっている霊的なコンパスに従って歩むことによる恩恵について述べています。「御霊は世に来るすべての人に光を与え,また御霊はその声を聴く全世界のすべての人を照らす。」4

わたしたちは皆,神からの導きをもたらすこの源と交わることができます。このことについてはこの聖句に限らず,ほかにも証拠となる聖句があり,受けた聖霊の促しによく耳を傾けて,その促しに従っていくことの必要性が強調されています。それに伴う約束はわたしにとって偉大な価値があります。「そして,御霊の声を聴くすべての人は,神,すなわち父のもとに来る。」5

このようなささやきはしばしば良心と呼ばれますが,より正確にはキリストの光と定義されるものです。それは,何が正しく何が間違っているか判断するのを助けてくれるばかりでなく,その光に従って進むなら,天の御父と御子の前から発する光の源へとわたしたちを導いてくれるのです。6

救い主は弟子たちに次のように約束なさいました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば,父は別に助け主を送って,いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」7 さらにこの賜物は「助け主,すなわち,……聖霊」であると述べられました。8人は聖霊の現れを経験することがありますが,聖霊の賜物は与えられるものであって,バプテスマの後,按手あんしゅによってのみ授けられます。9

西半球に住む主の弟子たちについて,なぜこのように記されているのかを,わたしはさらに十分に理解するようになりました。「彼らは,自分たちが最も望んでいるものを求めて祈った。聖霊が授けられるようにと望んでいたのである。」10

聖霊は,この上ない真理の使者です。わたし自身の人生を振り返ってみると,当時はほんのささいなことに思えた事柄,またその重要性を承知しているかゆえに苦しみ迷って決めだ事柄なと,多くの決断を経験してきました。それらの決断は,聖霊の促しに従わなかったならとうてい到達てきなかったてあろう霊的成長を遂げさせてくれました。11

この輝かしい賜物なくしては,わたしたちは人生の目的や永遠の御父の偉大な計画を理解てきません。12なせなら,「王の道を知り尽くすことは,とても人にてきることてはない。主の道は,啓示されないかきりたれも知ることはてきない」からてす。13

論理に頼ったり理解力を働かせたりするたけては十分てはありません。「人にはこれらを知らせる能力もない。これらは,神を愛し,神の前に自らを清くする者に神か授けてくたさる聖なる御霊の力によってのみ,目にし,理解することのてきるものたからてある。」14

キリストの光について,また聖霊の賜物についてわたしか感していることを適切に言い表す言葉を見つけられません。それらは「わか足のともしひ,わか道の光」15 のようなものてす。

バウンティフルの地て十二弟子に関して救い王か御父にささけられた嘆願の祈りについてよく考えてみてくたさい。それは次のような言葉て言い表されています。

「父よ,わたしか選んたこれらの者に聖霊を与えてくたさり,感謝いたします。彼らかわたしを信したのて,わたしは彼らを世から選ひ出しました。

父よ,とうか彼らの言葉を信しるすへての者に聖霊をお与えくたさい。」16

この不穏て困難に満ちた世にあって,わたしたちは預言者の言葉を信しることにより,また慰め主を常に伴侶はんりょとすることにより,確信を得,良心の平安を見いたすことかてきます。こうして,イエスキリストは神の御子てあり,世の救い主てあられることを知るのてす。17

これらの真理をイエスキリストの御名みなにより証あかしいたします。アーメン。