2000–2009
み旨のまま行かん
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み旨むねのまま行ゆかん

(わたしたち)にとって,完全な改心は、主のぶとう園での働きを通して最もよく成し遂げられるのです。

この説教の題は,多くの世代にわたって忠実な主の僕しもべをしてきた、次の賛美歌からとったものです。

「山の上や,荒れる

海を越え行き

また戦いくさの場にも

主は召したまわん

わが知らぬ道へと

呼ぶ声小ちいさくも

主によりこたえつつ

み旨のま行かん」

(「み旨のまま行かん」『賛美歌』172番)

末日聖徒ではない女性の詩人によって書かれたこの詩は,あらゆる年代の忠実な神の子どもたちの献身を表しています。

息子イサクを連れてモリヤの山へ向かう苦しい旅に出たアブラハムは,主が行くように望まれた場所へ患実に赴きました(創世22章参照)。巨人ゴリアテの挑戦に立ち向かうために,イスラエルの軍隊の前に出て行ったダビデもそうでした(サムエル上17章参照)。自分の民を救うようにという霊感を受けたエステルは,内庭にいた王に進言するために生命の危険を冒しました(エステル4-5章参照)。エルサレムを出発したリーハイ(1ニーファイ2章参照)と,貴重な記録を取りに戻った息子ニーファイ(1ニーファイ3章参照)は,「主よ,み旨のまま行かん」という強い気持ちに突き動かされました。ほかにも多数の例を聖典から引用することができます。

こうした忠実な人々は皆,主の導きに従い,主の力と慈愛に対する信仰を示しました。ニーファイはこう説明しています。「わたしは行って,主が命じられたことを行います。主が命じられることには,それを成し遂げられるように主によって道が備えられており,それでなくては,主は何の命令も人の子らに下されないことを承知しているからです。」(1ニーファイ3:7)

わたしたちの周囲には,また初期の記憶の中には,末日聖徒の従順で忠実な奉仕の模範があり,霊を奮い立たせてくれます。よく知られた模範の一例は,J・ルーベン・クラーク副管長です。非常に大きな影響力を持った第一副管長として16年以上も務めた後,大管長会が再組織され,第二副管長に召されました。謙遜けんそんに進んで奉仕する模範により,何世代にもわたる人々に影響を与えてきたクラーク副管長は,教会員に向かってこのように述べました。「主に仕えるに当たって大切なのは,どこで奉仕するかではなくどのように奉仕するかです。末日聖徒イエス・キリスト教会において,人は正当に召されるべき職を受けます。いかなる人もその職を求めるべきではなく,また断るべきではありません。」(Conference Report、1951年4月,154)

それほど目立たなくても同様に重要なのは,主のぶどう園の遠く離れた地で,同じような信仰と献身を示して現在働いている無数の会員です。忠実な年輩の宣教師たちは,わたしの知るかぎり最も良い模範を示しでいます。

わたしは最近,50組を超える夫婦の宣教師推薦書を審査しました。全員が少なくとも3回すでに伝道に出ており,次の召しを受けるために申請書類を提出したのです。彼らの家は,オーストラリア,アリゾナ,カリフォルニア,ミズーリと各地にありました。年齢は60代および70代前半から,上は…これ以上言うのはやめておきましょう。ある夫婦は7度目の伝道を申請しており,すでに,テンプルスクウェア,アラスカ,ニュージーランド,ケニア,ガーナで奉仕しました。フィリピンにも派遣されました。同じような模範の例はほかにもたくさんあります。

こういった夫婦の書類に記された神権指導者の所見は,奉仕と犠牲の証あかしです。その幾つかを引用しましょう。

「喜んでどこへでも行き,必要に応じた期間,どんなことでもやります。」

「〔彼らは〕主のために自分の生活をささげる教会員の立派な模範です。」

別の夫婦はこのように記しています。「主が行くように望まれる所へ行きます。わたしたちが必要とされる所へ送られるように祈っています。」

これらの夫婦の資格に関する神権指導者の所見は,年輩の宣教師が非常に効果的に行っている奉仕の業をうまく要約しています。

「彼はプログラムを開始して軌道に乗せる力と,指導力に優れています。」

「彼らは,教会を『設立し』,発展させることに最大の喜びを感じています。ですから,教会が発展途上の地域へ割り当てられるのが適切だと思われます。二人は,どのような能力が求められる場合でも,喜んで奉仕します。」

「事務所で働くよりも,〔あまり活発でない会員〕や改宗者を対象に働く方が真価を発揮できるでしょう。」

「青少年を愛し,一緒に働く才能があります。」

「指導者の援助やフェローシッピングを非常に効果的に行えますし,そのような仕事が好きです。」

「身体的には少し弱くなっていますが,霊的には元気で,伝道への熱意に燃えています。」

「この兄弟は真の宣教師です。彼の名前はニーファイで,名前の由来にふさわしい特質を備えています。姉妹は立派な女性で,常にすばらしい模範を示しています。どこへ召されても,すばらしい働きをするでしょう。今回で5度目の伝道です。」(以前には,グアム,ナイジェリア,ベトナム,パキスタン,シンガポール,マレーシアで伝道しました。こうした困難な伝道を少し休んでいただくために,主の僕はこのご夫婦をノーヴー神殿で働くように召しました。)

別の夫婦は,英雄的存在であるこれらすべての夫婦宣教師を代表して,こう書いています。「どこへでも行き,頼まれたことを行います。それは犠牲ではなく特権です。」

これらの年輩の宣教師は特別な犠牲をささげ,献身的な働きをしています。伝道部長や神殿宣教師とその忠実な伴侶はんりょも,同様の働きをしています。皆,家庭や家族を離れ,一定の期間,フルタイムで奉仕しています。それと同じことが多数の若い宣教師にも当てはまります。故郷で自分の生活を続けるのをやめ,家族や友人と別れて,主の僕を通して告げられたとおりに主により割り当てられた場所で奉仕するために,(たいていは自費で)出て行くのです。

「一主よ,み旨のまま行かん

海,山,野を、越え

主よ,み旨のまま言わん

み旨に添いまさん」

(「賛美歌』172番)

ほかにも無数の教会員が,教会で責任を受けて,地元で奉仕しています。2万6,000に及ぶ監督会や支部長会をはじめ,彼らとともに,また彼らの指示の下で働く,定員会,扶助協会,初等協会,若い女性の忠実な会長会も同様です。さらに,ワード,支部,ステーク,地方部で働く無数の忠実な教師もいます。「常に教会員を見守り,彼らとともにいて彼らを強める」(教義と聖約20:53)ために,主の命令に従う無数のホームティーチャーや訪問教師もいます。これらの人は皆,この霊感された歌詞をともに歌うことができるでしょう。

「主によク語るとき

愛を語り得ん

罪の道にさまよう

入を探し得ん

主に導かれなば

道ぱ暗くとも

よきおとずれを響かせん

みこころのままに」

(『賛美歌』172番)

預言者ベニヤミン王が教えたように,「〔わたしたちが〕同胞はらからのために務めるのは,とりもなおさず,〔わたしたちの〕神のために務める」(モ門サヤ2:17)のです。また王は,こう警告しています。「これらのことはすべて,賢明に秩序正しく行うようにしなさい。人が自分の力以上に速く走ることは要求されてはいないからである。」(モーサヤ4:27)

イエス・キリストの福音は,改心するというチャレンジを与えています。また,すべきことを教え,天の御父が望まれるような人になるための機会を与えてくれます。神に従う男女にとって,完全な改心は,主のぶどう園での働きを通して最もよく成し遂げられるのです。

末日聖徒イエス・キリスト教会には無私の奉仕というすばらしい伝統があります。実際,この教会を際立たせている特徴の一つは,何千もの地元のワード,支部や,それを監督するステーク,地方部,伝道部に,報酬を受けている専門の教職者がいないという事実です。神の子どもたちのための神の計画の一環として,神の教会の指導と運営は,神と同胞に奉仕するために自分の時間を惜しみなくささげる神の子どもたちによって提供されているのです。彼らは,神を愛し神に仕えるようにという主の命令に従っています(ヨハネ14:15;教義と聖約20:19;42:29:59:5参照)。このようにして,男女は永遠の命という究極の祝福に備えるのです。

けれども,献身的な姿勢を改善する余地のある人もいます。わたしがステーク大会で採り上げるべき主題について,ステーク会長に提案を求めると,教会の召しを拒んだり,召しを受けてもその責任を果たさなかったりする会員がいるという話をしばしば聞きます。全力を尽くさない人や忠実でない人もいます。そういうことは常にありました。しかし,その結果は必ず生じます。

救い主は,マタイによる福音書25章に記された3つの偉大なたとえの中で,患実な人とそうでない人の違いについて話されました。婚礼の招待客の半分は,花婿が来たときに準備をしていなかったために,婚宴の席から外されてしまいました(マタイ25:1-13)。主人から与えられたタラントを活用することを怠った役に立たない僕は,主人と一緒に喜ぶことはできませんでした(マタイ25:14-30)。また,主が栄光の中にやって来るとき,主と同胞に仕えた羊とそうでなかったやぎを分けられました。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにした」(マタイ25:40)人々のみが,主の右手に置かれ,世の初めから用意されていた御国みくにを受け継いだのです(マタイ25:31-46)。

兄弟姉妹の皆さん,もし奉仕の務めを怠るようなことがあるなら,このことをよく考えてみてください。召しを拒んだり,召しを受けて行うと約束しながら果たさないとき,あなたはどなたに対して仕えるのを拒んだり怠ったりしているのでしょうか。わたしたち一人一人が次の霊感された言葉に従うようにお祈りします。

「世の広き畑はたけには

いやしき地あり

われそこに主のため

勧き果てん」

(『賛美歌』172番)

イエスは道を示されました。ゲツセマネとカルバリへ通じるつらい道を進むことをひるまれましたが(教義と聖約19:18参照),「しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と従順に天の御父におっしゃいま

した。

その前に,主はこのように教えられました。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。

自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。

たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。また,人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:24-26)

わたしたちは互いに奉仕し合う目的を思い起こす必要があります。御業みわざの一部を達成するためだけなら,別の折にイエスが教えられたように,神は「天の使つかいたちの軍団」をお送りになれるでしょう(マタイ26:53参照)。しかし,それでは主が定められた奉仕の目的を達成することにはなりません。わたしたちは天の両親のみもとへ戻ってともに住めるような神の子どもになるために,神と同胞に仕えるのです。

「主の愛を知りては

すべでをゆだねて

心の誠尽くさん

みこころのままに」

(『賛美歌』172番,3節)

10年ほど前,わたしはある帰還宣教師から来た手紙を読みました。彼は自分の人生において献身の度合いが深まった過程を説明していました。「自分が行くのにふさわしいと考えた所ではなく,主が求められた所へ送ってくれた」伝道の業を管理している人々に感謝していました。彼の話では,彼は「誇り高く,競争心旺盛おうせいな知性偏重主義の環境で育ち」ました。伝道へ出る前は,合衆国東部の著名な大学の学生でした。

「わたしは義務感とただの惰性から,〔宣教師の〕申請書に記入し,外国語を使って海外で伝道したいという何より強い願望を示すために,該当する欄に特別の注意を払って印を付け提出しました。ロシア語が堪能たんのうで,ロシア人の間で2年聞過ごす十分な能力を持つ学生であることを印象づけるように念入りに書きました。審査委員会がそのような資格を拒むことはよもやあるまいと確信して,文化的な冒険を通して教養を高める経験ができるものと確信して召しを待ちました。」

ところが,彼は合衆国で伝道するようにという召しを受けて動揺しました。召された州については,自分が学んだ言語を話す海外ではなく,英語を話す自分の国の中にあるということ以外は,何の知識もありませんでした。彼の言葉を引用すると,「働く対象となる人々はあまり教養のない人々ではないかと思いました。」続けてこう書いていました。「これでは平和部隊〔訳注:合衆国政府の後援による民間ボランティア組織〕か何かに入った方がずっとましじゃないかと感じて,もう少しで召しを断るところでした。」

幸運なことに,この誇り高い若者は召しを受け入れ,伝道部長の指示と勧告に従う勇気と信仰を見いだしました。その後,霊的な成長という奇跡が始まりました。このように書いています。

「〔この州の〕無教養な人々の間で奉仕を始めましたが,数か月間は四苦八苦でした。しかし,次第に御霊みたまの温かい働きが,わたしの霊を固く覆っていた高慢と疑いの壁を崩し始めました。キリストへの帰依の奇跡が始まったのです。神が実在し,すべての人は皆永遠の兄弟であるという思いが,わたしの混迷した精神にだんだんと強く広がってきました。」

たやすい道ではなかったと,彼は認めています。しかし,立派な伝道部長の影響力と,奉仕する人々に対して次第に感じるようになった愛により,それは可能となり,実際に起こったのです。

「最も重要な見地から見ると少なくともるわたしと同じ仲間であり,ほぼ確かにわたしより優れているこれらの人々を愛し,奉仕したいという望みが,だんだんと強くなってきました。わたしは人生で初めて謙遜ということを学びました。人の真価とは無関係な事柄〔にとらわれずに〕,人を評価することの意味を学びました。わたしと一緒に地上に来た人々の霊を愛する気持ちがわたしの心にわき上がっできました。」(中央幹部への手紙1994年2月)

奉仕の奇跡とは,このようなものです。詩人はこう書いています。

「わが知らぬ道へと

呼ぶ声小さくも

主によりこたえつつ

み旨のまま行かん」

(『賛美歌』172番)

イエス・キリストが主の道と主の奉仕へわたしたちを招いておられることを証いたします。また,わたしたちが主に従う信仰と強い意志を持ち,主から望まれているような者となる力を得ることができるようにお祈りいたします。アーメン。