2000–2009
主の望まれる者となるというチャレンジ
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主の望まれる者となるというチャレンジ

「世の教育機関はわたしたちにある事柄について知りなさいと教えます。それとは対照的に、イエス・キリストの福音は、わたしたちにある特牲を身に付けた者になりなさいとチャレンジするのです。」

使徒パウロは、主の教えと教師たちが与えられているのはわたしたちが皆「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ためであると教えました(エペソ4:13)。この状態まで到達するには、知識を得ることよりもはるかに多くのことが要求されます。福音が真実であることを確信するだけでは不十分です。福音によって心が変わることを目指して行動し、考えなければなりません。世の教育機関は、わたしたちにある事柄について知りなさいと教えます。それとは対照的に、イエス・キリストの福音は、わたしたちにある特質を身に付けた者になりなさいとチャレンジするのです。

聖書や近代の聖典は多くの箇所で、最後の裁きについて述べており、そのとき人はそれぞれの行いや働き、あるいは心の望みに応じて報いを受けると説明しています。しかしほかの聖文ではこの概念をさらに説明して、わたしたちの到達した状態によって裁きを受けることを指摘しています。

預言者ニーファイはわたしたちがどのような者になっτいるかによって最後の裁きを受けると説明しています。「そして、もし彼らの行いが汚れているならば、彼らは必ず汚れているに違いない。もし彼らが汚れているならば、決して神の王国に住むことはできない。」(1ニーファイ15:33、強調付加)モロナイはこう宣言しています。「汚れている者は汚れているままになり、義にかなった者は義にかなった状態にとどまり……。」(モルモン9:14、強調付加。黙示22:11-12;2ニーファイ9:16;教義と聖約88:35も参照)「利己心」や「不従順」あるいは神の要求に添わないあらゆる属性についても同じことが言えます。アルマは最後の裁きにおける悪人の「状態」について、もし言葉と行いと思いによって罪に定められるとすれば、「わたしたちは染みのない者とは認められない。……そして、このような恐ろしい状態の中で、わたしたちはあえて神を仰ぎ見ようとはしないであろう」と説明しています(アルマ12:14)。

これらの教えから、最後の裁きとは、善悪の行為ーーつまりわたしたちが何を行ったかを集計して評価するだけにとどまるのでなく、行いと思いがもたらす最終的な結果ーーつまりわたしたちがどのような人物になったかーーを確認することであると結論することができます。表面的な行動だけでは不十分です。福音の戒め、儀式、聖約は、天の口座に預金しておかなくてはならない行為のリストではないのです。イエス・キリストの福音は、天父がわたしたちに望んでおられる状態に到達する方法を示す設計図です。

この解釈を説明するために一つのたとえを紹介します。ある金持ちの父親が、自分の子どもは求められるだけの知恵がなく、才覚もないために、このままでは遺産を受け取ってもすべてを失ってしまうだろうと考えていました。そこでこの父親は子どもに言いました。

「わたしはおまえに富だけでなく、地位と名声をも譲りたいと考えている。持っτいるものをおまえに与えるのは簡単だが、わたしの今ある状態はおまえが自分で手に入れなければならないものだ。わたしが学んだように学び、わたしが生活したように生活することによって相続する資格を得るのだ。わたしが知恵と地位を手に入れた法則と原則を教えよう。わたしの模範に従って、わたしが身に付けたように身に付けるのだ。そうすればおまえはわたしのようになり、わたしのものはすべておまえのものになるだろう。」

このたとえは天の方法とよく似ています。イエス・キリストの福音は永遠の命と御父の完全という比類ない受け継ぎを約束し、それを手に入れるための律法と原則を明らかにしています。

わたしたちは改心という過程を経て永遠の命にあずかる資格を得ます。改心という言葉は多くの意味を持っていますが、ここでは、単に確信することではなく、性質を根本から変えることを意味します。イエスはこの意味を用いて、証あかしと改心の違いを使徒の長に教えられました。イエスは弟子たちに尋ねて言われました。「人々は人の子をだれと言っているか。」(マタイ16:13)続いて、こう尋ねられました。「『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。』

シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです。』すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。』」(マタイ16:15-17)

ペテロは証を持っていました。イエスがキリストであり、約束されたメシヤであられることを知っていたペテロはそれを宣言しました。証をするとは、知ること、そして宣言することです。

後にイエスは弟子たちに改心について教えられました。それは証をはるかに超えた重要なものです。天国でいちばん偉いのはだれかと尋ねた弟子たちに対して、「イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、

『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。

この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。』」(マタイ18:2-4、強調付加).

後に救い主は、真理の証を持っている者にとっても、改心することが大切であると確認しておられます。最後の晩餐ばんさんの席で与えられた崇高な教えの中で、主はシモン・ペテロに言われました。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったとき(訳注「あなたが立ち直ったとき」は、英文では「あなたが改心したとき」を意味するwhen thou art convertedとなっている)には、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

3年間イエスに従い、聖なる使徒職の権能を与えられ、キリストの福音を雄々しく教え、証し、主から幸いであると言われるほどの証を持っていたこの人でさえ兄弟を力づける、すなわち神の羊の群れを導くためには「改心」しなけなければなりませんでした。

このチャレンジから、イエスは天国に入りたいと願う(マタイ18:3参照)人々に、単に福音が真実であると証することとは別の次元の改心を求めておられたことが分かります。証するとは、知ること、そして宣言することです。福音はわたしたちに「改心する」ようチャレンジしています。改心するとは行うことであり、なることなのです。福音の知識と証のみに頼っている人は、幸いではあっても完成の状態にまで達していなかった使徒たちと同じ状態にいることになります。彼らは、イエスの「改心する」ようにとのチャレンジ強い証を受けました。強い証を持ってはいても、その証に基づいて行動しないため改心に至っていない人がいることをわたしたちは皆しっています。例えば、帰還宣教師の皆さん、あなたは今も改心することを求めているでしょうか。それともこの世的な風潮に流れてしまっているでしょうか。

福音が求めている改心は、聖文の表現によれば「再び生まれる」(例えばモーサヤ27:25;アルマ5:49;ヨハネ3:7;1ペテロ1:23)という経験から始まります。バプテスマの水に沈められ、聖霊の賜物たまものを受けることによって、わたしたちは「神の王国を受け継ぐ」ことのできるイエス・キリストの霊の「息子や娘」となり、「新たな者」となります(モーサヤ27:25-26)。

ニーファイ人を教えておられたときに、救い主は彼らがどのような者とならなければならないかについて述べておられます。主は、悔い改めて、バプテスマを受け、「終わりの日にわたしの前に染みのない状態でたてる」ために、聖霊をうけて聖められるようにチャレンジされました(3ニーファイ27:20)。そして主はこのような言葉で締めくくっておられます。「したがって、あなたがたはどのような人物であるべきが。まことに、あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(3ニーファイ27:27)

イエス・キリストの福音は、神の子どもとしてなるべき者に、わたしたちがなるために備えられた計画です。この染みのない完全な状態は、絶えず聖約と儀式を更新し、それに基づいて行動すること、正しい選択を積み重ねること、常に悔い改めることの結果としてもたらされるのです。「現世は人が神にお会いする用意をする時期である。」(アルマ34:32)

今こそ個人の改心と、天父が望んでおられるような人になることを目指して努力する時です。そうするときに、教会の召しを果たすときよりも家族と交わるときにこそ、大きいな進歩することができるということを忘れてはなりません。改心を成し遂げるためには善い夫、善い父親、善い妻、善い母親にならなければなりません。教会の指導者として成功するだけでは不十分です。昇栄とは永遠の家庭生活です。したがって、現在の家庭生活が昇栄に備えるためにもっとも適しているのです。

わたしたちがどのような者になるようチャレンジを受けているかについて使徒ヨハネは次のように述べました。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿みすがたを見るからである。」(1ヨハネ3:2。モロナイ7:48も参照)

改心することと主の望まれる者となることの重要性を知ることによって、地元の指導者が報告書の数字よりも、兄弟姉妹がどのような状態にあり、どのような状態になることを目指して努力しているかに焦点を当ててくださるように願っています。

ヘイルズ長老が今朝、非常にはっきりと教えたように、安らぎと静けさの中で生活するよりも、苦しみと逆境に囲まれて生活する方が、真の改心を早く成し遂げることが多いのです。父リーハイは息子のヤコブに、神は「〔彼〕の苦難を聖別して、〔彼〕の益としてくださる」と約束しました(2ニーファイ2:2)。預言者ジョセフ・スミスは「あなたの逆境とあなたの苦難は、つかの間にすぎない。その後、あなたがそれをよく堪え忍ぶならば、神はあなたを高い所に上げるであろう」という約束を受けました。(教義と聖約121:7-8)わたしたちのほとんどは、「苦しみの炉」と聖文中に呼ばれている状態をある程度は経験してきます(イザヤ48:10;1ニーファイ20:10)。障害を持つ家族の世話をするために全生活をささげている人もいます。愛する入の死を経験する人、あるいは結婚や出産という義にかなった目標を失ったり遅らせなければならない人もいます。人格が損なわれてしまった人、拒絶されている、ふさわしくない、あるいは憂うつだと感じている人もいます。愛にあふれた天の御父の正義と憐あわれみにより、わたしたちはそのような経験を通して精錬され、浄化されることができます。そして、神が望んでおられるような者になることができるのです。

わたしたちが受けているチャレンジは、改心の過程を経験し、永遠の命と呼ばれる地位と状態に.向かって歩むことです。単に善を行うだけでは到達できません。正しい動機すなわちキリストの純粋な愛という動機に基づいて、善を行う必要があります。使徒パウロは愛の大切さに関する有名な教えの中でこれを説明しています(1コリント13章参照)。慈愛がいつまでも絶えることがなく、慈愛がパウロが挙げたいかなる善行よりも大切であるのは、慈愛、すなわち「キリストの純粋な愛」が(モロナイ7:47)、人の行動ではなく、人の状態だからです。慈愛を身に付けるには改心へとつながる行動が常に必要とされます。こうして人は慈愛を身に付けた者となるのです。このため、モロナイが宣言したように、「人は慈愛を持たなければあなたが御父の住まいに用意してくださった場所を受け継ぐことができません。」(エテル12:34、強調付加)

これらすべてのことは、救い主が天国とはどのような所かを説明されたぶどう園の労働者のたとえの持つ大切な意味を理解する助けとなります。皆さんもご記憶のように、ぶどう園の主人は一日のうちの様々な時刻に労働者を雇いました。ある者は朝早くぶどう園へ送られ、ある者は9時ごろに、ある者は12時ごろと3時ごろに送られました。そして、主人は最後に5時ごろに労働者をぶどう園へ送って、「相当な賃銀」を支払うと約束しました(マタイ20:1-7参照)。

夕方になると、ぶどう園の主人は5時ごろに来た人々を含むすべての労働者に同じ賃銀を払いました、一目中働いた人々はこれを見て、「家の主人にむかって不平をもらし」ました(マタイ20:ll)。主人はその不平に耳を貸そうとせずに、約束したとおりの賃銀を払っているのであって、不正をしたわけではないと言いました。

ほかのたとえと同じように、このたとえは幾つかの異なった大切な原則を教えています。わたしの話とのかかわりから言えば、最後の裁きにおいて主がお与えになる報いは、ぶどう園でどれほど長い間働いたかということを基準としないことを教えています。タイムカードに記録があるだけで、天の報いが得られるわけではありません。大切なことは、主の園における働きによってわたしたちは主の望まれる者となるということです。ある人たちはそのためにほかの人よりも長い時間働く必要があります。最終的に大切なことは、わたしたちが労働によってどのような人になったかということです。夕方の5時ごろにやって来た人の多くは、ぶどう園で正規に採用された人たちとは異なる方法ですでに磨かれ、備えられています。これらの労働者は加工されてホットケーキのもとになっているような人たちであって、彼らは「水を加える」だけ、つまり仕上げとしてバプテスマの儀式と聖霊の賜物を必要としているだけなのです。労働者らは儀式を受けることによって、たとえそれが夕方の5時であっても、ぶどう園で長い間働いてきた人々と同じ進歩を遂げたものとされ、同じ報いを受けるにふさわしい者となります。

家族や友人の中には、良い性質を持っているので(モロナイ7:5-14参照)、愛にあふれる御父が望んでおられる状態に向かっていつか歩み出すと感じられる人たちがいます。このたとえは、彼らとの愛のこもった交わりを絶ったり、希望を捨てたりしてはならないこと教えています。贖罪しょくざいの力と悔い改めの原則も同様に、現在は多くの間違った選択をしているように見えるあなたの大切な人々を決して見捨ててはならないことを教えています。

わたしたちはほかの人の裁判官になるのでなく、自分のことを心配すべきです。決して希望を捨ててはなりません。努力をやめてはなりません。わたしたちは神の子どもであって、天父が望んでおられるような人になることができるのです。

どうすれば自分が進歩していることを確認できるでしょうか。聖文は様々な方法を提案しています。その中から二つだけお話ししたいと思います。

ベニヤミン王の偉大な説教を聞いた後、多くの民は主の御霊みたまが「わたしたちが悪を行う性癖をもう二度と持つことなく、絶えず善を行う望みを持つように、わたしたちの中に、すなわちわたしたちの心の中に大きな変化を生じさせてくださいました」と叫びました(モーサヤ5:2)。悪を行う望みがなくなれば、天の目標に向かって進歩しているのです。

使徒パウロは、神の御霊を受けている人は「キリストの思いを持っている」と語りました(1コリント2:16)。わたしはこれを、真の改心に向かって歩んでいる人は天父や御子イエス・キリストと同じように物事をとらえ始める、という意味に理解しています。このような人々は世の声でなく、救い主の声を聞き、世の方法ではなく、救い主の方法で行動しているのです。

わたしはイエス・キリストがわたしたちの救い主であり贖あがない主であられることを証します。この教会はイエス・キリストの教会です。わたしは感謝の気持ちを込めて、御父の計画について証します。御父の計画に基づき、救い主の復活と贖罪しょくざいしを通して、わたしたちは不死不滅の状態になることが保証されており、永遠の命を受けるにふさわしい者になる機会が与えられているのです。イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。