2000–2009
「あなたがたは身を清めなさい」
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「あなたがたは身を清めなさい」

「あらゆる時代、特にわたしたちの時代に対する呼びかけはヨシュアの呼びかけと同じじです。『あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである。』」

兄弟の皆さん、わたしは神の神権者に対して愛と畏敬いけいの念を抱いています。神権を持つみなさんとともにいることを光栄に思います。今夜のわたしのメッセージは、年齢や奉仕の年数にかかわりなくすべての人に向けたものです。しかし、アロン神権の執事、教師、祭司、またメルキゼデク神権に聖任されて間もない若い長老に特に強調してお話ししたいと思います。青年期にあり、神権を行使する機会その機会はしばしば予期せぬときに予期せぬ形でやって来ますがに備えておかなければならない皆さんにお話ししたいのです。

その意味で、今夜、皆さんに向ける呼びかけは、ヨシュアが当時の神権者に与えた呼びかけに似ています。当時の神権者は、老若ろうにゃくを問わず、奇跡を起こす必要がありました。民は古代イスラエルの最も大変な務め、すなわち古き約束の地を奪い返して所有するという務めを果たさなければなりませんでした。ヨシュアは民にこう言いました。「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである。」1

一つのお話をしましょう。このお話は、ヨシュアの言う「あす」が、予期せぬうちに速やかにやって来ることや、場合によっては、遅まきながらすぐに準備をしますなどと言っている暇などないことを教えてくれます。

今からちょうど2年前の1998年9月30日水曜日の午後のことです。その日は、アイダホ州インコムにある少年フットボールチームの練習日で、チームのメンバーがグラウンドに集まりました。ウォーミングアップを終えて、これから試合形式の練習を始めようというところでした。黒雲が集まり、雨が少し降りだしました。秋に時々起こることです。しかし、フットボール好きの少年たちは少しも気にしませんでした。

突然、何の前触れもなく、辺りがピカッと光ったかと思うと、耳をつんざく雷鳴がとどろきました。辺り.一面、電気が通った感じでした。

ちょうどそのとき、アイダホ州マックカモンステーク、ポートネフワードの執事であるわたしの年若い友人、A・J・エドワーズは、練習とはいえ、何としてもタッチダウンを決めてやろうと、味方がパスしたボールに向かって走っているところでした。しかし、大地と大空を照らしたその稲妻が、フットボールヘルメットのてっぺんから靴の底まで、A・J・エドワーズを打ったのです。

その落雷は選手全員に衝撃を与えました。数人が地に倒れ、一人は一時的に目が見えなくなりました。ほかの選手たちもほとんど皆、目がくらみ、体が震えました。彼らは本能的に、公園に隣接したコンクリートの休憩所に向かって走り始めました。泣きだす少年もいました。多くの少年がひざまずいて祈り始めました。そうしている間も、A・J・エドワーズはグラウンドに横たわったまま動きません。

アイダホ州マックカモンステーク、ラピッドクリークワードのデビソド・ジョンソン兄弟は急いで少年のそばに行きました。そして、コーチをしていた同じワードのレックス・シェイファーに叫びました。「脈がない。心臓が止まっている。」奇跡と言ってもいいでしょう。二人とも、救急医療技師として訓練を受けていました。二人は心臓マッサージを始めました。

彼らが救急処置を行っていたとき、18歳の青年ディフェンシブコーチ(訳注一アメリカンフットボールで、守りの指示を出すコーチ)、プライス・レイノルズがA・Jの頭を支えていました。彼はアイダホ州マックカモンステーク、マウンテンビューワートの会員でした。ジョンソン兄弟とシェイファー兄弟が慌ただしく心臓マッサージを行っている姿を見て、ある光景が彼の頭に浮かびました。わたしはそれが文字どおり天からの啓示であったと確信しています。彼は、神権の祝福にまつわる一つの出来事を鮮明に思い出しました。何年も前に彼の祖父が今回と同じような痛ましい、命にかかわる事故に遭い、監督が神権の祝福を授けてくれました。そこで、彼はこの若い執事を腕で支えながら、生涯で初めて、授けられたばかりのメルキゼデク神権を同じように使う必要があると自覚したのです。若いプライス・レイノルズは、19歳の誕生日と伝道の召しを前にして長老に聖任されてを経たばかりでした。

聞き取れるほどの声だったのか、ささやくように言ったのか分かりませんが、とにかくレイノルズ長老はこう告げました。「A・J・エドワーズ、主イエス・キリストの御名とわたしの持つメルキゼデク神権の力と権能により、あなたが助かるよう祝福します。イエス・キリストの御名により、アーメン。」プライス・エドワーズが18歳の言葉で短いけれども熱烈な祝福を授け終えたとき、A・J・エドワーズは息を吹き返しました。

ポカテロまで救急車が急行しました。ユタ大学のバーンセンター(訳注やけど治療専門の病院)へ飛行機で向かったときには、もうほとんど望みはありませんでした。途中何度も繰り返された祈り、数々の奇跡、幾たびか重ねられた神権の祝福。詳しいことは、いつかエドワーズ家族に紹介していただくことができると思います。ただ、今夜、わたしの特別招待客として、とても元気で、とても体格の良いA・J・エドワーズがお父さんと緒にこの聴衆の中にいることだけをお伝えすれば十分でしょう。わたしはまた、最近、プライス・レイノルズ長老と電話で話しました。彼はこれまで17か月問、テキサス州ダラス伝道部で忠実に奉仕しています。わたしはこの二人のすばらしい若者を愛しています。

さて、アロン神権あるいはメルキゼデク神権を受けている若い友人の皆さん、すべての祈りが直ちにこたえられるわけではなく、神権によるすべての宣言により蘇生そせいや生命の維持が自由にできるわけでもありません。神の御心みこころがそうでないときもあります。しかし若人の皆さん、皆さんはいずれ経験するでしょう。恐怖に駆られ身の危険さえ感じるときに、信仰と神権を持つ者として、最高の自分を差し出し、天に求め得る最高のものを呼び求めなくてはならない時を。アロン神権者の皆さんは、長老に聖任された者がメルキゼデク神権を行使するのとまったく同じ方法で神権を行使することはありません。しかし、すべての神権者は神の御手の器でなければなりません。そしてそうあるために、ヨシュアが述べたように、「あなたがたは身を清め」なければなりません。行動するための備えをし、行動するにふさわしい者とならなければなりません。

そのために、主は聖文の中で次のように繰り返し言われました。「主の器をになう者よ、おのれを清く保て。2「主の器をになう」という言葉はどういう意味かお話ししましょう。昔は少なくとも二つの意味がありました。二つとも神権の働きに関するものです。

第1は、ネブカデネザル王がバビロンに運び去った様々な神殿の品を取り戻して、エルサレムに返すことを指します。これらの品々を物理的に取り扱って返却する際、主は初期の兄弟たちに、神殿に関するものはすべて聖きよいということを思い起こさせられたのです。そこで、彼らは様々な皿、鉢、器、そのほかの品々を祖国に持ち返るとき、儀式用具と同じように自分自身を清くしなければなりませんでした。3

第2の意味は第1の意味に関連しています。同様の鉢や用具が家庭で行う清めの儀式に使われました。使徒パウロは当時まだ若かった友人テモテにあてて、「大きな家には、金や銀の器……木や土の器もあり」と、救い主の時代に一般的であった洗いと清めの道具について書いています。しかし、パウロはこう続けています。「もし人が……〔ふさわしくない状態から〕自分をきよめるなら、彼は……きよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、……若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義……を追い求めなさい。」4

聖書にあるこれら二つの聖句が告げるメッセージは、わたしたちが神権者として神聖な器と神の力の象徴を扱うだけでなく例えば、聖餐せいさんの準備、祝福、それにパスを考えてみてくださいわたしたちも同様に聖められた器になる必要があるということです。わたしたちが行うべきことを示すため、あるいはむしろわたしたちがどのような者になるべきかを示すため、使徒や預言者たちはわたしたちに、「若い時の情欲を避けなさい」、また「きよい心をもって主を呼び求め」なさいと命じています。清くあるようにと命じているのです。

わたしたちは清さを保つのが次第に難しくなりつつある時代に住んでいます。現代のテクノロジーをもってすれば、皆さんの弟や妹は三輪車で安全に表通りを横切る年齢になる前に、疑似体験として世界を巡ることができます。わたしたちの世代には、映画を見に行ったり、テレビを見たり、雑誌を読んだりするのは、屈託のないことでした。しかし、ビデオ、インターネット、パソコンが利用できるようになった今、それらは道徳に関して現実的な危険をはらんだ「娯楽」となっています。わたしは「娯楽」という言葉を強調しました。「娯楽」という言葉のラテン語本来の意味を御存じでしょうか。「欺く意図をもって心をそらすもの」という意味です。不幸にも、現代の「娯楽」と呼ばれるものの大部分が再び大いなる詐欺師の手中にあります。

最近、わたしが読んだ書物の著者はこう述べています。「余暇というものは、たわいない遊びでさえも、わたしたちは真剣に考えなければならない。宇宙には中立な場所というものはないのだから。どんなに小さな面積の場所ででも、どんなにわずかな瞬間にでも、神は御自分の権利を主張なさり、サタンもそれに対抗して権利を主張している。」5 わたしはそれが絶対的な真理であることを信じています。若人の思い、倫理、清さに対する争い以上に厳しく、かつ目を引く争いはありません。

兄弟の皆さん、今夜警告の声としてこのことも申し上げておきます。状況はますます悪くなるばかりです。放任のドア、卑劣、野卑、卑わいへ通じるドァというものは、片方にしか開きません。そのドアは向こう側にじりじりと開いていきます。自動的に手前に戻って来ることは決してありません。人はそれぞれそのドアを閉じることを選択することができます。しかし、歴史的に見て、社会の欲望と政策のためにドアは決して閉まらないでしょう。そうです、道徳の領域に関して、人が実際にコントロールできるものは自分自身だけなのです。

兄弟の皆さん、見るもの、聞くもの、語ること、あるいは行うことに関して自分をコントロールしようとして、もしも苦しんでいるのなら、.助けを求めて天の御父に祈ってくださるようにお願いします。エノスが神の御前みまえで苦闘し、心を込めて力強く祈ったように、神に祈ってください。6 ヤコブが天使と組打ちして、祝福を受けるまで天使を離さなかったように、組打ちしてください。7 あなたの父母に話してください。あなたの監督に話してください。あなたを取り巻いているすべての善良な人から得られる最も強力な助けを受けてください、あなたを誘惑し、あなたの意志を弱め、問題を永続させる人々を何が何でも避けてください。今夜、たとえ十分ふさわしいと感じていないとしても、悔い改めと主イエス・キリストの贖罪しょくざいを通じてふさわしくなることができます。救い主はあなたのために涙を流し、血を流し、亡くなられました。救い主はあなたの幸せと救いのためにすべてを与えてくださいました。救い主が、今、あなたを助けてくださらないはずがありません!

ですから、あなたは現在と将来において、神の神権を持つ者として自分が遣わされる人々を助けることができるのです。そして、あなたは宣教師として、主が述べられた「教会員にとっての医者」8 になれるのです。

若人の皆さん、わたしたちは皆さんを愛しています。皆さんのことを心配しています。わたしたちの力の及ぶかぎりあらゆる方法で皆さんを助けたいと思っているのです。およそ200年前に、ウィリアム・ワーズワースは、「人はあまりにも世に迎合し」と述べています。彼は、今日こんにち皆さんの魂や感情を侵略しているものを見たら一体何と言うでしょうか。わたしたちは、皆さんが直面しているこれらの問題について語ってはいますが、非常に多くの若人が福音に忠実に生活し、主の御前にしっかりと立っていることも承知しています。今夜、ここで話を聴いている大多数の方々がその中に含まれていることを確信しています。しかし、少数の人に与える警告は忠実な人々にとっても大切な教えなのです。

最も困難で、失意に満たされた第二次世界大戦の時代、ウィンストン・チャーチルが、イングランドの人々に言いました。「すべての人に特別な瞬間が訪れるだろう。そのとき一人一人が、肩をポンとたたかれ、特別な事柄をする機会を与えられるのだ。一人一人が独特の事柄を、自分の才能にふさわしい事柄をする機会を与えられるのだ。そのときもしも備えが不十分で資格がないために、最もすばらしい瞬間を失うとしたら、何という悲劇であろう。」

さらに深刻な霊の戦いにおいて、兄弟の皆さん、「その日」は来るかもしれません。いいえ、必ず来るのです。予期せぬ状況や緊急事態に遭遇し、いわば稲妻に打たれ、あなたに事がゆだねられる日が。その日のために備えてください、強くなってください。いつも清くあってください。今夜、そして、これから先永遠に、あなたが持っている神権を尊び、大切にしてください。この業が真実であること、そして、この業を導くためにわたしたちに与えられた神権の力が真実であること、そして、神権を行使するときにふさわしさが必要であることを証します。兄弟の皆さん、あらゆる時代、特にわたしたちの時代に対する呼びかけはヨシュアの呼びかけと同じです。「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである。」イエス・キリストの御名によって、アーメン。