教会歴史
第5章:「愛はいつまでも絶えることがない」


第5章

「愛はいつまでも絶えることがない」

エメリン・B・ウェルズ姉妹は1910年に中央扶助協会第5代会長に召されたとき,その任務を果たす備えができていました。ソルトレーク峡谷へ移住する旅に加わり,イエス・キリストの福音に対する堅固なあかしを持ち,扶助協会の礎となる原則を理解する姉妹たちとともに働いたからです。また1888年から1910年まで二人の中央扶助協会会長,ジーナ・DH・ヤングとバスシバ・W・スミスの秘書を務めました。

ウェルズ姉妹と顧問のクラリッサ・S・ウィリアムズおよびジュリナ・L・スミスは,扶助協会創設の礎となった原則を守ることに全力を尽くしました。1913年10月,彼女たちは次のように述べました。

「わたしたちの目的は,預言者ジョセフ・スミスが計画を発表したときの霊感された教えを堅く守り,この偉大な組織が創設された当初の名称と精神,目的をそのまま維持することであると宣言いたします。預言者の計画は,姉妹たちが適切な組織に振り分けられた神権の召しを通して権限を与えられ,病人を世話し,困っている人を助け,年老いた人を慰め,無分別な人に警告を与え,孤児を助けるという目的を果たすことでした。1

それより2,3か月前,ウェルズ姉妹と顧問たちはこのような使命感から一つのモットーを作りました。それは扶助協会の礎となる原則と霊感による創設を絶えず思い起こすためのモットーとなりました。「慈愛はいつまでも絶えることがない」2と宣言されている聖句です。この言葉は預言者ジョセフ・スミスが扶助協会の姉妹たちに託した任務を表しています。その任務とは「貧しい人を助け」,「人を救う」3ことです。

当時,開拓者の姉妹たちは身近な隣人たちのために慈愛を実践しました。今日こんにち,扶助協会の姉妹たちは「キリストの純粋な愛」4である慈愛を世界中の隣人たちにも示すよう組織的な活動をしたいと思っています。

ウェルズ姉妹と顧問たちは比較的平和で豊かな時代にこのモットーを作りました。その後,このモットーが試されるような出来事が起きる時代が来るとは夢にも思いませんでした。

戦時に平穏な生活を送る

1914年にヨーロッパで戦争が勃発ぼっぱつしました。1918年11月に戦争が終わるまで,多くの国が戦争に加わりました。第一次世界大戦として知られるようになった戦争です。この時代,扶助協会の姉妹たちに期待される慈愛の気持ちは敵に対する怒りや偏狭心にかき消されそうになりました。そこでエメリン・B・ウェルズ姉妹と顧問たちは教会のすべての姉妹たちに次のようなメッセージを送りました。

「愛と忍耐の精神で夫を助け,子供たちを世話し保護してください。子供たちにいかなる国や国民に対しても不寛容や憎悪の気持ちを抱かせないようにしてください。武器を手の届かない所に置き,戦争ごっこをしたり,戦死者のまねをして遊んだりさせないようにしましょう。国家や国旗への忠誠心を植え付けてください。ただし,自分は神の御心みこころに従う兵士であると感じるように助け,自由のため,また国家や故郷を守るために武器を取る必要が生じた場合には,恨みや怒りの気持ちを持たずに従軍させるようにしましょう。……主の王国の平和な事柄を教え,困っている人をこれまで以上に熱心に世話してください。」5

このメッセージを送るに当たりウェルズ姉妹は,70年以上も前に預言者ジョセフ・スミスが教えたように,慈愛を行動で示すよう姉妹たちに強く勧めました。愛する者たちに,忍耐し隣人のみならず敵にも親切にし,困っている人に奉仕するよう勧めました。扶助協会の姉妹たちはこの勧告に従いました。キリストの純粋な愛を受け,分かち合おうとしました。そのような愛はいつまでも絶えることがないと知っていたからです。6この愛は戦争と平和の時代を通して彼女たちを支えることになりました。

第一次世界大戦の間,合衆国の扶助協会は国防会議や合衆国赤十字社などの地域団体と全面的に協力しました。姉妹たちは食糧の生産や貯蔵,募金運動,衛生,児童福祉,その他の奉仕活動に参加しました。こうした地域活動に効果的かつ精力的に協力しました。しかし,預言者は扶助協会が神の導きにより創設されたことを決して見失ってはならないことを彼女たちに思い起こさせました。

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ジョセフ・F・スミス大管長

ジョセフ・F・スミス

教会の第6代大管長ジョセフ・F・スミス大管長は,この世の組織は「人が作ったもの」であるが,扶助協会は「神が作ったものであり,人々に救いをもたらすために,神により承認,設立,聖任されたものである」と述べました。大管長は,扶助協会が今後現れる,人の作った組織と混同されることにより,人の組織に従い,混じり合い,それ自身が持っている本質を見失うような時が来るのを望みませんでした。扶助協会が姉妹たちの組織となることを望んだのです。大管長は扶助協会の姉妹たちに,「皆さんの務めは,称賛に値する事柄,神聖な事柄,人々の霊を鼓舞し清める事柄すべてにおいて,世界,特に世界の女性たちの先頭に立つことです。皆さんは尾ではなく頭なのです」7と述べました。エメリン・B・ウェルズ姉妹も同じビジョンを持っており,ほかの組織と協力するよう扶助協会を指導するとともに,扶助協会独自の目的と神から与えられた特質を維持するよう助けました。

扶助協会の姉妹たちはほかの組織と協力するだけでなく,自分たち自身で,また各ワードとともに,困っている人々を対象とする物資供給と資金集めのための様々な活動を行いました。洋服やエプロン,子供服,キルト,手織りの帽子や敷物を作って売る姉妹もいました。牛や羊を飼って売る姉妹もいました。

ユタ州ツーウェルに住む姉妹は,自分が作ったキルトが,戦争中にイギリスのある家族に慰めを与えたことを知りました。この扶助協会の姉妹は1906年にそのキルトを作りました。そして悲惨な地震の被災者を助けるために,メモを挟んでカリフォルニア州サンフランシスコへ送りました。11年後,そのキルトは赤十字を通してイギリスへ送られました。受け取ったイギリス人がメモを見つけ,自分の感謝の気持ちを表した手紙を書きました。そのキルトは「戦場で夫を亡くしたわたしにとって大変役立ちました」と書いてありました。8人の子供を抱え,夫に先立たれ,働くすべもなかったこの女性はこう述べています。「今のわたしにできる精いっぱいのこと,それは前に進み続けることです。」8

イギリスの多くの姉妹たちはボランティアで兵士たちのために裁縫をしましたが,生地を買うお金がありませんでした。合衆国とカナダの扶助協会が緊急援助資金を集めるために熱心に働き,イギリスの各支部へ資金を送りました。そのおかげで,イギリスの姉妹たちはシーツやまくらカバー,洋服を作る生地を買うことができました。

1918年に扶助協会は備蓄していた小麦を合衆国政府に売りました(第4章参照)。そのとき,ウェルズ姉妹はこう述べました。「これまで何年もの間,意図された目的のために貯蔵されてきた穀物を使う必要があまりありませんでした。でも黒雲が世界を覆う今になって,緊急時に備えて穀物を貯蔵するよう姉妹たちに勧めたヤング大管長が,預言者として知恵を持っていたことが分かります。」9

小麦を売ったことは空腹の人々に食糧を与えるだけにとどまりませんでした。会長会でウェルズ姉妹の顧問の一人として奉仕したクラリッサ・S・ウィリアムズ姉妹は,売り上げを中央扶助協会の預金に入れ,その利子を使って女性や子供たちの健康を改善するための活動資金とするよう勧めました。後に,ウィリアムズ姉妹が中央扶助協会第6代会長を務めたとき,彼女の監督の下でこの資金はその目的のために使われました。

個人と家族を強める

第一次世界大戦が終わると,多くの家族や個人は経済面でも,身体や情緒,精神面でも苦境に陥りました。こうした面での必要を満たすために,扶助協会は1919年,教会の第7代大管長ヒーバー・J・グラント大管長による全面的な支持の下で扶助協会社会福祉部を設立しました。後に中央扶助協会第8代会長になったエーミー・ブラウン・ライマン姉妹がディレクターを務めました。社会福祉部を通して扶助協会はワードやステークと協力して,困っている女性や少女たちが仕事を見つけたり,子供の養子縁組をあっせんしたりする活動を行いました。ただし,おもな目的は家族のために実用的な訓練を与えることでした。ライマン姉妹は家庭環境の調査,計画と予算の作成,末日聖徒の家族にかかわる援助の組織化,働く人の訓練を強調し,扶助協会社会福祉部は「援助機関」ではなく,「奉仕部門」10であると述べています。

この目標を念頭に置き,社会福祉部は6週間の家族福祉訓練プログラムを作成しました。ステークの参加者がこのクラスを受講し,ワードや地域社会で教えました。4,000人を超える女性が訓練を受けました。

1902年から中央扶助協会会長会は,看護師を訓練するためのプログラムを後援しました。1920年までには,看護師のための専門訓練はさらに広範囲になり,扶助協会は看護師の助手のための訓練プログラムを設立しました。この1年間のコースはユタ州ソルトレーク・シティーのLDS病院で始まり,授業料は無料でした。その代わり,生徒はそれぞれの地域で30日間,看護の奉仕をすることが義務付けられていました。4年後,46人の助手が訓練を受け,扶助協会はプログラムを終了し,赤十字の在宅看護コースを支援するようになりました。その他の幾つかのプログラムと同様,扶助協会はこのプログラムを用いて特定の一時的な必要を満たし,その後,ほかの機関へ仕事を引き渡しました。

扶助協会の指導者たちは姉妹たちがノーブーで当初から行ってきたように,慈善奉仕として引き続き互いに仕え合うよう姉妹たちを励ましました。姉妹たちは病人を世話したり,衣類が必要な人々のために裁縫をしたり,困っている人々のためにその他の方法で助けを与えました。一例を挙げましょう。1921年にトルコに住むアルメニア人の末日聖徒のグループが家から立ち退かなければなりませんでした。パレスチナ・シリア伝道部会長のジョセフ・W・ブース兄弟はシリアのアレッポへ移るよう助け,そこで支部を組織しました。扶助協会には約30人の姉妹たちが集いました。その大半は非常に貧しい人たちでしたが,扶助協会の姉妹として自分より恵まれない人々に奉仕することを自分の特権であり義務であると思っていました。そこで,姉妹たちは集まって,ブース会長が購入した100ヤード(約90メートル)の布地を使って衣服を縫いました。また,栄養失調の同胞はらからの難民たちのために食事を作りました。

1921年4月,クラリッサ・S・ウィリアムズ姉妹はエメリン・B・ウェルズ姉妹から中央扶助協会会長の職を引き継ぎました。ウェルズ姉妹と一緒に会長会で奉仕してきたウィリアムズ姉妹は前途にある困難な課題に対処する備えができていました。組織を動かす技能を備え,すべての人に対する愛と友情に満ちた人として知られていました。

ウィリアムズ姉妹は母親と乳児の死亡率が高いこと,障がいを持つ人々のための機会が不足していること,また多くの女性にとって生活水準が低いことを心配していました。彼女の賢明で有能な指導力の下で,扶助協会はこうした問題を取り除くための努力を続けました。1924年,中央および地元の神権指導者とウィリアムズ姉妹からの援助と励ましを受けて,コットンウッドステークの扶助協会は妊婦のための病院を設立しました。後にこの病院は教会の病院のネットワークの一つになりました。

ウィリアムズ姉妹は「わたしたちが接するすべての人のために,健康と機会,普通の生活水準」という分野で大いに改善する必要性があることに気づき,こう述べました。「全般的な改善のためのそのような取り組みには,入念な準備,訓練,教育,実践的な奉仕が含まれます。」11こうした努力は当面の需要を満たすのに役立ち,困っている家族に援助を与えるための道をビショップに示してくれました。また,教会が2,3年後に直面することになる困難に対処する備えにもなりました。

自立心をはぐくむ

第一次大戦から10年余りの間,扶助協会は健康と雇用,教育に焦点を置きながら,女性や家族の生活水準を向上させるために活動しました。また,個人の義と慈愛に満ちた行いを奨励し続けました。その後,ほとんど何の前触れもなく,1929年末に世界は大規模な経済恐慌へと突入しました。

扶助協会で教えられ学んだ特質が,再び,危機の時代にあって個人と家族を強めました。末日聖徒の姉妹たちは天の御父とイエス・キリストを信じる信仰に強さを見いだし,自立の技能を用い,慈愛の心を示すように努めました。こうした原則に導かれ,ほかの人に手を差し伸べながら,自分自身と家族を養うことができました。

1928年,ヒーバー・J・グラント大管長は中央扶助協会第7代会長としてルイーズ・Y・ロビソン姉妹を召しました。ロビソン姉妹にとって経済的な困難は目新しいものではありませんでした。ユタ州スキピオの田舎町の質素な丸太造りの家に育った姉妹は,農作業や裁縫を身に付け,勤勉に働き,わずかなもので暮らし,明るい生活を送ることを学びました。

ロビソン姉妹は中央扶助協会会長の召しを受ける7年前,グラント大管長から中央扶助協会会長会の第2顧問に任命されました。自分はそのような召しにふさわしくないと痛感したことについて彼女の娘が次のように語っています。

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ヒーバー・J・グラント大管長

ヒーバー・J・グラント

「母は任命を受けるためにグラント大管長の事務所へ行きましたが,大管長が母の能力について間違った情報を得たに違いないと確信していました。そこで,何を行うように頼まれたとしても喜んで最善を尽くしますが,自分はほとんど教育も受けておらず,お金や社会的地位も皆無に等しく,扶助協会の姉妹たちが指導者に期待するような模範にはなれないと思うと述べました。そして最後に「わたしはごく平凡な女性です」と言いました。グラント大管長は答えました。「ルイージー姉妹,わたしたちの教会の姉妹の85パーセントはごく平凡な女性です。わたしたちはあなたを彼女たちの指導者になるよう召します。」12

グラント大管長の言葉に励まされて,ロビソン姉妹は自分独自の才能を分かち合い,最初は顧問として後には会長として,心から奉仕しました。賢明で思いやりが深く,勤勉でした。正式な教育や物質的な富がないために,似たような状況に置かれた人を理解し助けることができました。家事をする人や子供のいる人に対して実用的で相手の立場に立った助言をしました。少ない予算で生活する苦しさを理解していましたが,家庭における母親の影響の重要性を知っていました。そこで,外へ出て仕事をするより,家庭にとどまり子供の世話をするためにできる限りの努力をするよう母親たちに勧めました。

合衆国政府は経済恐慌の流れを変えるために多くの救済プログラムを作りました。しばらくの間,扶助協会社会福祉部はこうした地域社会の機関と協力して,困っている家族のために奉仕しましたが,福祉部の対応能力を超えるほど需要が増してきました。福祉部で働いていたある人の話では,1929年には78件だった取り扱い件数が,1934年には700件を超えたとのことでした。13

教会は政府機関の取り組みを高く評価していました。合衆国政府は困っている人々を助けるために「すばらしいことをしている」とロビソン姉妹は述べています。しかし,教会員は自立の基本的な価値観を養い続ける必要があるという考えで神権指導者と一致していました。ロビソン姉妹はこう述べています。「93年間,扶助協会はわたしたちに,困っている人の世話をするべきであると述べてきました。今ではあまりにも政府に頼りすぎているのではないでしょうか。」14

1936年4月,大管長会は教会全体の福祉プログラムを導入しました。この結果,教会は困っている会員をさらによく助けることができるようになりました。1936年10月の総大会で,ヒーバー・J・グラント大管長はこのプログラムの目的を説明しました。

大管長は次のように述べています。「わたしたちの第一の目的は,可能なかぎり,忌まわしい怠惰や施しのもたらす悪弊を排除し,独立心,勤勉,倹約,自尊心を再びわたしたちの間に確立する体制を築くことです。教会の目的は,人々の自立を助けることにあります。勤労が再び教会員の生活を貫く原則にならなければなりません。」15

何年もたってから,教会の第16代大管長トーマス・S・モンソン大管長もこの教えに共感してこう述べています。「教会の援助は,人々が自立するよう助けることを目的としていることを忘れないでください。会員の社会復帰の責任は,神権定員会と扶助協会の援助を受けた個人およびその家族にあります。わたしたちが伸ばそうとしているのは依存心ではなく,自立心なのです。ビショップは,援助を受ける一人一人の中に,誠実さ,自尊心,威厳,そして健全な性格を築かせ,彼らが完全に自立できるように導かなければなりません。」16

福祉プログラムの指導原則の一つは,扶助協会の姉妹と神権者が一致協力して働くことです。教会の第11代大管長であるハロルド・B・リー大管長は,ステーク会長を務めていたとき,福祉プログラムの設立を助けました。大管長はこう述べています。

「〔教会の福祉プログラム〕が達成するべき最も重要な目的は,教会全体に協力と一致の精神を高めることです。……

ワードの扶助協会の組織が神権定員会やビショップリックと協力して運営される程度に応じて,そのワードにおける〔福祉〕プログラムが運営されることになります。」17

当時教会の管理ビショップだったジョセフ・L・ワースリン兄弟は次のように述べています。「ワード扶助協会会長の役割は特に重要です。家庭を訪問し,その必要を見極め,賢明にその必要を満たすことができるのはただ一人だとわたしは考えています。それは家庭の管理人とも呼べる扶助協会会長です。……とにかく,これらのすばらしい姉妹たちは自分自身の家庭を持ち,子育てや家庭管理に関連した経験を積んできたのです。」18

扶助協会はワード福祉活動の中で傑出した役割を果たすよう十分に備えられていました。ビショップの指示の下で,家族の必要を見極め,その後必要に応じて乾燥保存果物や野菜,衣類,寝具などを提供しました。しばらくの間,果物の瓶詰めを作っていた姉妹たちは10個のうち一つを福祉プログラムへ寄付するよう求められました。中央扶助協会第9代会長のベル・S・スパッフォード姉妹は,風で落ちた果物を瓶詰めにして,困っている姉妹たちに配ったことを覚えています。こうした奉仕の機会を通して,扶助協会の目的をさらによく理解できるようになりました。

扶助協会の指導者は教会福祉プログラムに不可欠な人々です。一般的にステークやワードで福祉委員会の集会に参加し,決定に影響を与え,活動を調整します。農場や工場,配送センター,その他の施設から成る教会の福祉システムが大きくなるにつれて,こうした調整は非常に重要なものとなりました。1969年,扶助協会社会福祉部は教会社会福祉部に合併されました。

慈愛のきずなを強める

1939年から1945年まで,第二次世界大戦が世界の大半を巻き込みました。教会のプログラムの大部分もこの世界的な戦争の影響を被りました。1940年3月,ヒーバー・J・グラント大管長の第一顧問を務めていたJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長は補助組織の会長たちと会合を持ち,すべてのプログラムと活動を見直しました。教会の各分野に対して4つの基本目標を掲げました。それは「教会の活動を維持するために,増大し続ける会員たちへの負担を削減し,ビショップの負担を緩和し,大規模でお金のかかる集会所を必要とするプログラムを廃止し,教会の運営を収入の範囲内にとどめる」というものでした。扶助協会とその他の組織は「大管長会と協力して上記の目標を達成するために,活動の整理,連携,削減,簡略化,調整」が求められました。19

家族の安全を守る

教会プログラムの簡素化を目指す教会指導者のおもな目的は,家族の安全を守ることでした。神権指導者と補助組織指導者は,第二次世界大戦が家庭や家族をばらばらにしてしまったのではないかと懸念していました。男性が従軍し,女性は夫や年長の息子から身近な助けを受けずに家族を支えなければなりませんでした。教会の指導者たちは子供のいる母親に,できることなら家の外でフルタイムの仕事をせずに子育てをする方法を見つけるよう再び勧めました。また,扶助協会の姉妹たちに,キルト作り,洋裁,家庭菜園,果物や野菜の保存など,自活の基本的な技能を身に付けるように勧めました。さらに,家庭における母親の霊的な役割を強調しました。戦争で引き裂かれた国々は,徳高く正直に生きることを母親から学んだ善良な若い市民を必要としていました。

地域の組織や神権者と協調する

第一次世界大戦のときと同様,合衆国の扶助協会の会員たちは,ほかの著名な組織のボランティア活動を支援するという要請に応じました。1942年には,1万人以上の扶助協会の姉妹たちが,家庭看護,応急手当,栄養などの赤十字のコースを修了しました。また,教会は従軍する末日聖徒の健康を守るために,禁煙・禁酒運動を提唱しました。こうしたプログラムの支援や慈善奉仕活動を通して,扶助協会の姉妹たちは健康管理と善意の業を推進しました。

当時,扶助協会の姉妹たちは地域の人々や神権指導者と協調を深めなくてはなりませんでした。中央扶助協会第8代会長を務めたエーミー・ブラウン・ライマン姉妹はこう述べています。

「何よりも感謝している事柄の一つは,……扶助協会の姉妹たちがいつも神権,すなわち教会幹部,地元の神権者,特にワードのビショップから受けた支援だと思います。

教会幹部は補助組織の女性指導者に教会内で特別な機会を与えてくれただけでなく,ほかの人道援助機関と協力して働くよう励ましてくれました。」20

このような協力の一例として,インディアン学生修学プログラムがあります。これは当時十二使徒定員会会員であったスペンサー・W・キンボール長老の支援により1947年に始まったものです。このプログラムを通して,小さな町や村に住んでいたアメリカインディアンの青少年たちが,正規の教育を容易に受けられ,教会が確立されている場所に住む末日聖徒の家族と一緒にしばらく生活する招きを受けました。このプログラムはこうした青少年に経験を広めるよう励まし,異文化間の理解を促進しました。

扶助協会の指導者,特に中央扶助協会第9代会長のベル・S・スパッフォード姉妹は,キンボール長老の指示の下でこのプログラムの運営を助けました。多くの姉妹たちがそれらの青少年に直接奉仕しました。彼らをあたかも我が子のように養育したのです。このプログラムは1996年まで続きました。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長は後にこう述べています。「インディアン学生修学プログラムはその目的を達成し,解体されました。そのようなことはよくあります。……建設が完了すると足場を外すのです。」21

「キリストの純粋な愛」:慈愛の実践

ヨーロッパの扶助協会の姉妹たちは,第二次世界大戦で荒廃した悲惨な状況を経験しました。彼女たちも苦難の状況にあるにもかかわらず互いに奉仕するために,称賛に値する勇気を示しました。信仰を保ち,自分の証とイエス・キリストのしょくざいに頼りました。この時代を生き抜いた彼女たちの生活と証はまさしく人々を鼓舞するものです。

戦後,ドイツのシュトゥットガルト地区の扶助協会会長を務めていたマリア・シュパイデル姉妹はこう書いています。

「この5年間は困難な年でした。わたしたちは非常に謙虚な気持ちになりました。主に対する信頼と主の教会に対する証がわたしたちの強さの柱でした。主はわたしたちをあわれみ深く守り,,多くの苦しみの中で主の力を少し与えてくださいました。わたしたちの中にはこの世の所有物すべてを,また自分にとってこの上なく大切な物を失った人もいます。でも,『神の導きなくして光の中を歩むより,神とともにやみの中を歩む方がよい』と言うとき,何のことを言っているか分かるのです。……

……わたしたちは喜びをもってシオンの歌を歌い,主に信頼を置きます。主はあらゆることを良いものにしてくださいます。」22

別の地域の扶助協会会長を務めるガートルード・ジプロ姉妹は,姉妹たちを愛し奉仕するために多くの日々を暗闇の中で神とともに歩みました。当時彼女が住んでいたオランダは軍の占領下にありました。護衛兵が旅行者をしばしば引き留めて調べていたので,彼女は地域の支部の扶助協会を訪問することができるように身分証明書を携行していました。

ジプロ姉妹の息子のジョンはこう述べています。「占領が5年間続き,夜の外出はますます危険になってきました。」そして,母親の献身的な奉仕を思い出し,こう続けています。「あのような状況をものともせずに,別の支部を訪問するために夜,自転車で何度も外出した母の姿を想像できるでしょうか。自分の気持ちや状況がどうあれ,母は義務を果たそうとしたのです。何という偉大な女性であり指導者でしょう。母が当時,扶助協会会長を務めるよう主の御手みてによって選ばれたということに今も疑いはありません。」

さらに,ジプロ姉妹の息子はこう述べています。「きっと母は,どのような問題に遭遇するかも分からずに,主を心から信頼して,あのような状況の中でもしばしば外出したのでしょう。」23

デンマークでは,聖徒たちの状況は多くのほかの国よりも耐えられるものでした。食料があり,自分より恵まれない隣人と分け合っていました。デンマーク伝道部扶助協会会長のエバ・M・グレガーセン姉妹はこう述べています。「戦時中,わたしたちは飢えに苦しむ同胞の住むノルウェーを助ける活動に取り組みました。伝道部本部と協力しながら,この目的のためにお金を寄付し,毎月,多くの食料が荷造りされてノルウェーの兄弟姉妹へ送られました。彼らからは言葉に尽くせない感謝を示されました。」24

ヒュー・B・ブラウン管長はそうした慈善奉仕をの当たりにしました。1937年から1939年まで英国伝道部会長を務め,1939年から1945年までヨーロッパの末日聖徒の軍人のためのコーディネーターとして働き,1945年から1946年まで再び英国伝道部会長を務めました。後に十二使徒定員会会員,そして大管長会の一員となりました。第二次大戦中に扶助協会の姉妹たちの間で目にした奉仕について,次のように報告しています。

「交戦地帯で働く扶助協会の姉妹が何百人もいます。戦士が戦場で経験するのに匹敵するような危険や試練,苦難にさらされています。こうした勇敢な姉妹たちは堪え難いほどの困難をものともせずに進んでいます。……

この姉妹たちと一緒にひざまずいて祈り,彼女たちが小さな祝福について,また自分や愛する者の命が守られ,わずかな食物と窓のない家があることについて神に感謝するのを聞くと,たちどころに霊が鼓舞されます。それに引き換え,ここにあるものをはるかに越える多くの物質的祝福にあずかりながらも,わずかのぜいたく品が奪われたことにしばしば不平を言うわたしたちの多くはいさめられるべきだと感じます。」25

東ドイツに住むヘトビッヒ・ビエレイヘル姉妹は飢えに苦しむロシアの囚人に食べ物を与えました。そのような慈善行為が見つかると,本人も家族も逮捕または処刑の対象とされかねない状況でした。26数年後,彼女はこの経験についてインタビューを受けました。第二次大戦中に同様の試練に耐えたほかの人々もインタビューを受けました。質問者は各インタビューの終わりに「このような試練の間にどのようにして証を保ちましたか」と尋ねました。質問者はすべての回答を要約して,こう述べています。「あの当時,わたしが証を保ったのではありません。証がわたしを守ってくれたのです。」27

1945年に第二次世界大戦が終わったとき,世界中の扶助協会の姉妹たちは深い悲しみを味わい,多くのものを失いました。しかし,それにもかかわらず,互いに奉仕し,家族を強め,証を増し加えました。

非常に多くの苦難と無私の奉仕を目にした証人として,エーミー・ブラウン・ライマン姉妹は次のように断言しています。

「わたしの証は,うれしく楽しいときにはわたしを支え,心を満たしてくれました。悲しいときや失望しているときには,わたしを慰めてくれました。……

扶助協会で……奉仕してきた機会に感謝しています。わたしは成人してから大半の時を扶助協会で過ごし,何千人もの会員たちと一緒に喜びと充実感をもって奉仕してきました。姉妹たちの家を訪ね,一緒に眠り,食卓で食べ,姉妹たちの麗しい人柄,無私の精神,思いやる心,忠実さ,犠牲について学んできました。姉妹たちのこの偉大な奉仕のきずなに敬意を表す言葉もありません。」28

試練と不安定な時代にあって,世界中の扶助協会の姉妹たちは,「最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい」というモルモンの勧告に従ってきました。そして,「すべてのものは必ず絶えてしまうからである。……この慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く」29ことに対する確かな理解を実証してきました。「愛はいつまでも絶えることがない」という姉妹たちのモットーに何度も誠実に従ってきたのです。

第5章

  1. エメリン・B・ウェルズ,クラリッサ・S・ウィリアムズ,ジュリナ・L・スミス,“Resolutions of Relief Society,” Woman’s Exponent1913年11月,79

  2. 1コリント13:8モロナイ7:46;中央管理会議事録,1842年-2007年,1913年7月3日,教会歴史図書館も参照

  3. ジョセフ・スミス,イリノイ州ノーブー扶助協会議事録,1842年6月9日,教会歴史図書館,63で引用

  4. モロナイ7:47

  5. エメリン・B・ウェルズ,クラリッサ・S・ウィリアムズ,ジュリナ・L・スミス,“Epistle to the Relief Society Concerning These War Times,” Relief Society Magazine1917年7月,364

  6. モロナイ7:46-47参照

  7. ジョセフ・F・スミス,扶助協会中央管理会議事録,1914年3月17日,教会歴史図書館,54-55で引用

  8. “Notes from the Field,” Relief Society Magazine1917年9月,512で引用

  9. エメリン・B・ウェルズ,“The Grain Question,” 扶助協会紀要,1914年9月,1-2

  10. エーミー・ブラウン・ライマン,“Social Service Work in the Relief Society,1917年-1928年,” タイプ原稿,教会歴史図書館,2

  11. クラリッサ・S・ウィリアムズ,“Relief Society Gives Hard Job to General Head,” Deseret News1925年9月23日付,セクション2,1で引用

  12. グラディス・ロビソン・ウィンター,The Life and Family of Louise Yates Robison,グラディス・ロビソン・ウィンター編で引用,教会歴史図書館

  13. イブリン・ホッジス・ルイス,ロレッタ・ヘフナーによるインタビュー,1979年9月,筆記録参照,教会歴史図書館

  14. ルイーズ・Y・ロビンソン,“Officers’ Meeting,” Relief Society Magazine1935年5月,272

  15. ヒーバー・J・グラント,Conference Report,1936年10月,3で引用

  16. トーマス・S・モンソン「個人と家族の福祉に関する指導原則」『聖徒の道』1987年2月号,7参照

  17. ハロルド・B・リー,“Place of the Relief Society in the Church Security Plan, ” Relief Society Magazine1937年3月,143,句読点は標準的なものに修正されている

  18. ジョセフ・L・ワースリン,“Relief Society-An Aid to the Bishops,” Relief Society Magazine1941年6月,417

  19. “Memo of Suggestions,” 1-6,Church Union Board 役員会議事録,教会歴史図書館

  20. エーミー・ブラウン・ライマン,Mayola R. Miltonberger, FiftyYears of Relief Society Social Services(1987年),2で引用,大文字の使用は標準的なものに修正されている

  21. ボイド・K・パッカー,未出版原稿

  22. マリア・シュパイデル,“Notes from the Field,” Relief Society Magazine1946年2月,123で引用

  23. ジョン・ジプロ,“Life Story of John Zippro,” 未出版原稿,ジル・マルベイ・デア,ヤナス・ラッセル・キャノン,モーリーン・アーゼンバッハ・ビーチャー,Women of Covenant:The Story of Relief Society(1992年),301-302で引用

  24. エバ・M・グレガーソン,“Notes from the Field,” Relief Society Magazine1946年2月,118で引用

  25. ヒュー・B・ブラウン,“Notes from the Field,” Relief Society Magazine1944年10月,591-592で引用

  26. ヘトビッヒ・ビエレイヘル,ロジャー・P・マイナート,Harm’s Way: East German Saints in World War II(2009年),209参照

  27. ジェニファー・A・ヘックマン,ネイサン・N・ウェイト,“Steadfast German Saints,” BYU Magazine,2010年冬号,57参照

  28. エーミー・ブラウン・ライマン,In Retrospect(1945年),160-161

  29. モロナイ7:46-47

困っている家族のために産着を用意する扶助協会の姉妹たち

イギリスのキッダーミンスターに住む扶助協会の姉妹たち

1934年,ユタ州ソルトレーク・シティーのLDS病院で音楽を楽しむ看護師と子供たち

1920年代初期にアルメニアから来たジョセフ・W・ブース兄弟と扶助協会の姉妹たち

1940年ころ,ステーク福祉プログラムで食糧貯蔵をするカリフォルニアの扶助協会の姉妹たち

1950年ころ,テキサス州デル・リオで集う扶助協会の姉妹たち

中央——姉妹と子供たちと一緒のガートルード・ジプロ姉妹

「慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く。」(モロナイ7:47