教会歴史
39 神の手に


第39章「神の手に」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年(2020年)

第39章:「神の手に」

第39章

神の手に

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宣言を伝える電報

1889年12月14日,召されたばかりの使徒アンソン・ランドは,ユタのエフライムにある自宅で大管長会から電報を受け取りました。大管長会は,外国生まれの聖徒たちが合衆国の市民権を認められないという最近の事例に悩まされており,聖徒が忠実な市民になることは不可能だとする告発に対応しようとしていました。教会指導者は,この件にとどまらない虚偽の主張を否定する声明の原稿を書き上げており,十二使徒定員会の一員としてアンソンの名前を添えたいと思っていたのです。1

アンソンは子供のころからずっと,誤った認識に対して教会を擁護してきました。子供のころ,生まれ故郷のデンマークで教会に入った彼は,その後,宗教のことで同級生から暴力を受けたことがあります。ところがアンソンは怒りをもって応じるどころか,彼らに忍耐と思いやりを示し,ついには彼らの友情と尊敬を勝ち得たのでした。アンソンは18歳でデンマークを離れ,ユタの聖徒たちに合流しました。それ以来何十年もの間,アンソンと妻のサニー,それに6人の子供たちは,神の王国の建設を助けるために多くの犠牲を払ってきました。2

アンソンは大管長会からの電報にすぐさま返信し,その宣言に自分の名前を添えてもらうようにしました。彼は教会において様々な責任を果たしてきました。マンタイ神殿の会長会で奉仕していたこともあります。しかし,イエス・キリストの使徒の一人として自分の名前を全世界に知らせるのは,これが初めてでした。

アンソンは十二使徒定員会のほかの会員たちと異なり,一度も多妻結婚をしたことがありません。さらに,現代の使徒の中では初となる,英語を母国語としない使徒でもありました。ウィルフォード・ウッドラフはそのような違いが定員会にとって益となることを確信していたばかりか,アンソンが召されたのは神の御心であることを理解していました。アンソンの穏やかな物腰や数か国語を話す能力は,教会を次の世紀へ導くのに役立つことでしょう。3

アンソンが十二使徒に召されると,ウィルフォードは彼を新たな務めに備えるため,使徒としての勧告を与えるようジョージ・Q・キャノンに頼みました。「この召しをふさわしく果たすには,生涯働く必要があります。」ジョージはアンソンにそう語りました。「恐らくこれまで経験したことのないような感覚かもしれませんが,神に近く生活し,神の力を願い求め,自分の周りにいる天使たちを通して神の守護による助けを受ける必要性を感じることでしょう。」

アンソンはこの勧告から,神の思いと御心を知るのは,使徒としての自分の特権であることを学びました。自分が受ける啓示に忠実であり続ける必要があるのです。その啓示が自分本来の判断に反するように思えることがあっても,それは変わりません。「謙遜になりすぎるということは決してありません。」ジョージはアンソンにそう思い起こさせます。アンソンは柔和な態度で主の預言者に耳を傾けると同時に,率直に自らの見解を表明することも求められていました。「わたしたちは進んで務めを果たし,神が選ばれた大管長の上に注がれる神の御霊の働きを見守るのです。」ジョージはそう語っています。4

アンソンが電報に返信したその日に,大管長会と十二使徒定員会は“Deseret News”(『デゼレト・ニュース』)紙上で声明を発表しました。『宣言』は明確な言葉で,一夫多妻を禁じる国の法令の下で受けた苦難にもかかわらず,教会は暴力を忌み嫌い,合衆国政府と平和裏に共存する意思を持っていることを表明しました。

「わたしたちが,人々と調和する意思のない宗教の自由を主張することはありません。」『宣言』はそう断言しています。「わたしたちの望みは,国家に欠くことのできない一部として,合衆国政府と人民とに調和することなのです。」5


その冬,教会指導者たちが国に対して自らの信条を明らかにしようと努める一方,ジェーン・マニング・ジェームズはジョセフ・F・スミスにあてて,自身の問題に対する答えを明らかにしてくれるよう手紙を書いていました。60歳を過ぎた今,ジェーンは次の世で自分に何が待ち受けているのかと思い悩んでいたのです。ユタに暮らす聖徒のほとんどは,愛する人と,この世から次の世にわたって結び固められる神殿の儀式を受けていました。ところがジェーンは,黒人の末日聖徒である自分が,そのようなより高い儀式を受けることは認められないと理解していました。

たとえそうであっても,神はアブラハムを通じて地上のすべての国民に祝福を授けると約束しておられることを,ジェーンは知っていました。その約束は間違いなく自分にも当てはまると,彼女は考えていたのです。6

来世への不安に加えて,ジェーンは自分の家族の現状に関しても悩みを抱えていました。彼女は夫のアイザックと,1870年の春に離婚しています。1874年ごろ,彼女は別の末日聖徒の黒人であるフランク・パーキンズと結婚しましたが,それも長くは続きませんでした。この間,彼女は3人の子供と数人の孫を病気で亡くしています。子供のうち4人はまだ生きていますが,だれ一人として,ジェーンほど教会に献身的ではありません。7

ジェーンは,次の世で子供たちと一緒に暮らせるでしょうか。もしそれができないとすれば,彼女は来世において自分の居場所と家族を持てるのでしょうか。

若いころ,ジェーンはノーブーにあるジョセフとエマ・スミスの家で,住み込みで働いていました。その間,エマは自分とジョセフの養女にならないかと彼女に勧めていましたが,ジェーンはジョセフが亡くなるまで,直接それに答えたことはありませんでした。ところがジェーンは今,神殿での特別な結び固めを通して,聖徒たちは家族に養子として迎え入れられることが可能だと知っています。ジェーンはそれこそ,エマが自分を家族に加えようとした方法であるという確信に至ったのです。8

1883年の初頭,ジェーンはジョン・テーラー大管長を訪ねると,自身のエンダウメントを受ける許可を願い出ました。テーラー大管長はその件について彼女と話し合いましたが,黒人の聖徒たちが神殿のより高い儀式を受ける時期はまだ来ていないというのが,大管長の考えでした。大管長は数年前にもその問題について検討していました。別の黒人聖徒,エライジャ・エイブルが,神殿の儀式を受けさせてほしいと求めていたのです。調べたところ,エライジャは1830年代にメルキゼデク神権を受けていたことが分かりましたが,テーラー大管長をはじめとする教会指導者たちは,それでもなお,人種の観点からエライジャの要求を却下する決定を下しました。9

テーラー大管長との会見からほぼ2年がたつと,ジェーンは再び彼に訴えました。「自分の人種や肌の色については分かっています。ですからエンダウメントを望むことはできません。」その折にはこう述べています。それでもジェーンは,神がアブラハムのすべての子孫に祝福を授けると約束されたことを指摘しました。「今は,時満ちる神権時代です。」ジェーンは問いかけます。「それなのに,わたしは何の祝福も受けられないのでしょうか。」

「わたしがどんな生活を送ってきたか,あなたは御存じです。」彼女はそう続けます。「わたしは自分の能力の限りを尽くして,福音のあらゆる求めにこたえて生きてきました。」ジェーンはそれから,エマが自分を誘ってくれたことについて詳しく述べ,ジョセフ・スミスの家族に養女として迎え入れられたいという自らの望みを伝えました。「もしジョセフの子供として迎え入れられるなら,わたしの心は満ち足りるでしょう」と,彼女は口にしています。10

ジェーンが手紙を送って間もなく,テーラー大管長は南部の定住地とメキシコを訪問するためにソルトレーク・シティーを離れてしまい,生前彼女に返事を出すことはありませんでした。4年後,ジェーンのステーク会長が,神殿で死者のためのバプテスマを受けられるよう彼女に推薦状を発行しました。「あなたはこの特権に満足し,今後は主がその僕たちにさらなる指示を与えられるまで待たなければなりません」と,彼は記しています。その後間もなく,ジェーンはローガン神殿に行き,自分の母親,祖母,娘,そのほか亡くなった親族のためにバプテスマを受けました。11

今度はジョセフ・F・スミスに手紙を書くと,ジェーンはスミス一家の養子に入ることを含め,神殿の儀式を受ける機会を再び求めます。「実現できないでしょうか。可能であれば時期はいつになりますか。」ジェーンはこのように尋ねました。12

やはり,ジェーンの手紙に返事はありません。彼女は4月になると,再び手紙をしたためました。またもや返事はありません。ジェーンは主の王国で救いを得られることを祈りながら,回復された福音と預言者に対して信仰を持ち続けました。「わたしは,これが神の業であることを知っています。」彼女はかつて,扶助協会でそのように述べました。「この教えを離れようなどと思ったことは,一度もありません。」

さらにジェーンは,近ごろジョセフ・F・スミスの兄であるジョン・スミスから受けた祝福師の祝福の中にある約束に信頼を寄せていました。

「聖約を神聖に保ってください。主はあなたの願いを聞いておられるからです。」彼女の祝福文にはそのような確約がありました。「神の手はとこしえにあなたのうえにあり,あなたは確かに自らの報いを受けるのです。」

「あなたは自らの使命を全うし,聖徒たちの中に受け継ぎを得るでしょう。」祝福文にはそう約束されていました。「あなたの名は誉れをもって,代々の子孫に覚えられることでしょう。」13


1890年4月下旬のどんよりとした午後,エミリー・グラントは友人ジョセフィン・スミスの自宅を訪ねました。この二人の女性は,コロラドの小さな町,マナッサに住んでいました。サンフォードにあるロリーナ・ラーセンとベント・ラーセンの家からは数キロ南に離れた場所にあります。ユタにある聖徒たちの大きな定住地から遠く離れていたマナッサは,「一夫多妻による未亡人」,すなわち身を隠している多妻結婚の妻たちにとっての避け所となっていました。エミリーは孤独を感じていましたが,風の吹きすさぶその町で,自分と娘たち,4歳になるデジーと幼いグレースのために家庭を築こうと努めていました。

馬車に乗ってジョセフィンの家へ向かうまでの短い時間,デジーは文句を口にして泣いていました。大好きな「エリおじさん」がいないと,悲しがっていたのです。エミリーも悲しい気持ちでした。「エリおじさん」とは,使徒であり,彼女の夫,そしてデジーとグレースの父親でもあるヒーバー・グラントに対してエミリーが使う暗号名でした。ヒーバーの3番目の妻であるエミリーは,ヒーバーの正体を隠すため,手紙の中や子供たちの前ではその名を使っていました。

ヒーバーはエミリーや娘たちと2日間過ごしてから,その日の早い時間に,ソルトレーク・シティーにある自分の家に向けて出発していました。エミリーはジョセフィンを訪ねることで,自分を元気づけようと思っていたのです。ところが自分や子供たちが到着するのとほとんど同時に,エミリーは泣き崩れてしまいます。ジョセフィンには,この友人の気持ちが分かりました。ジョセフィン自身,使徒ジョン・ヘンリー・スミスの多妻結婚による妻だったからです。ジョンは少しの間自分の妻に会うため,町へやって来たばかりでした。14

エミリーは,ヒーバーと一緒にいる時間が十分だと思ったことは一度もありません。ソルトレーク・シティーの第13ワードで一緒に育った二人は,長年の交際期間を経て,1884年の春に結婚しました。多妻結婚の妻となったエミリーが,自分の結婚を公にすることはできません。結婚に続く6年間の間に何度も引っ越しを繰り返し,アイダホ南部にイギリス,ソルトレーク・シティーにある母親の家の隠れ部屋で過ごしてきました。15

そうして,今暮らしているのがマナッサです。エミリーは,ヒーバーと長い間離れて暮らす生活がいつの日か終わりを告げることを願っていました。都会での生活に慣れていた彼女は,いまだこの小さな町での暮らしに馴染もうと努めています。それでも時折,現代社会から遠く離れているような気持ちになりました。ヒーバーは,家具の整った家や何頭もの馬,乳牛や鶏,使用人,“Salt Lake Herald”(『ソルトレーク・ヘラルド』)新聞の定期購読などをそろえて,エミリーを助けようとしていました。義理の母親であるレイチェル・グラントも,この遠く離れた町に来てエミリーと時間を過ごしてくれました。16

「今やわたしは,この町で自分のほしいものはすべて手に入れました。」エミリーはかつて,マナッサからヒーバーにあてた手紙の中にそうつづりました。「ただ,あなたを除いては。」17

ヒーバーの訪問があってからおよそ2週間後,エミリーはマナッサで開かれた集会についてヒーバーに書き送りました。二人の教会指導者が,町の「未亡人たち」がユタに戻ることは不可能だろうと話していたのです。「議会の次の手は,教会指導者たちの資産を差し押さえることだろうと,彼らは話していました。」彼女はそう報告しています。「それから,この町に来て,住み着いて良かったと思う日が訪れるだろうとも。」

ところがエミリーは,この町に暮らして幸せになれるとはどうしても思えませんでした。18「わたしは満たされた思いを抱けるよう祈り続けていますが,落ち込んでしまって,まだ憂鬱なままです。」数か月後,彼女はヒーバーにあててそう思いを口にしています。「愛するあなた,どうかわたしのために祈ることを忘れないでください。天の御父の助けがなければ,わたしはこの状態にこれ以上耐えて,平静でいることはできません。」19

8月17日の日曜日,ウィルフォード・ウッドラフと顧問たちが,この小さな定住地を訪れました。そのころまでに,合衆国最高裁はエドマンズ・タッカー法を合法とする判決を下していました。法廷はこの訴訟に関して紛糾し,聖徒たちはその法律が宗教の自由を侵していると主張しましたが,支持の投票をした判事がわずかに過半数を上回ったのです。この判決により,政府の役人はその法律が定める制裁を思うままに執行する権限を得,教会からさらなる資産を剥奪することが可能になりました。20

マナッサにおける聖徒たちとの集会で,ジョージ・Q・キャノンは各家族に注意を呼びかけました。町には二人以上の妻とともに暮らしている男性たちがいましたが,彼らの存在は地域社会全体に問題や迫害をもたらす危険性を生んでいるというのです。この発言は一部の男性を怒らせ,翌日,彼らはジョージのもとへやって来ると,自分の家族にとって,離れて暮らすということがいかに厳しい選択であったかを訴えました。21

ウィルフォードと顧問たちが帰る前,エミリーは彼らと友人たちを朝食でもてなしました。その後で,彼女は数人の女性とともに,駅まで訪問者たちに付き添いました。列車が遅れていたため,エミリーは大管長会ともう少しの時間話すことができました。ついに列車が到着すると,彼女は一人一人の男性と順に握手を交わします。「神の恵みがありますように。」彼らはそう声をかけ合いました。「平安がともにありますように。」

エミリーも,マナッサを去りたい気持ちでいっぱいでした。彼女はヒーバーにこうつづっています。「彼らは列車に乗って去って行き,わたしたちはこの人里離れた地に戻ったのです。」22


大管長会がソルトレーク・シティーに戻ったのは8月末でしたが,イオセパの1周年記念にはちょうど間に合いました。そこは,ハワイの聖徒たちがユタで最初に入植した場所です。イオセパという名称は,ジョセフという名前をハワイ語で呼んだものです。23

1850年代,ハワイの人々が教会に加わり始めると,ハワイ王国は彼らが島から去ることを制限し,ライエをハワイ人聖徒たちの集合地とするよう教会指導者らに促しました。しかし,その法律の効力は次第に弱められ,ハワイ人の中には神殿の祝福を受けることを強く望む人々がいました。1880年代,彼らはユタ準州に集合し始めます。

1889年になると,大管長会はハワイ人男性3人を含めた委員会を組織しました。ユタにおいて,ハワイ人聖徒たちが家を建て,農業を営むのに適した場所を探すためです。様々な地域を調査した後,委員会は数か所の候補地を挙げました。中には,ソルトレーク・シティーから南西におよそ60マイル(97キロ)離れた769ヘクタールの放牧場も含まれていました。大管長会は委員会の見つけてきた土地を検討し,その放牧場を新たな定住地として購入することにしました。24

その翌年の間,イオセパの聖徒たちは熱心に働いて家を建て,作物を植え,家畜の世話をしました。最初の冬は,特に熱帯気候のハワイでの生活に比べると,彼らにとって厳しいものでした。それでも入植者たちは辛抱し,希望を抱きました。イオセパには肥沃な土壌があり,近くの山々からはいつでも水を引けたので,夏には豊かな収穫を迎えられることが予想されたのです。25

1周年記念日は,晴れわたる暖かい日でした。大管長会の面々がそれぞれ妻の一人を伴って定住地に近づいて来ると,目に入ったのはまるで砂漠の中の緑のオアシスのようなイオセパの風景でした。周囲の畑には背の高いトウモロコシが育ち,裂けた皮からは大きな穂が顔をのぞかせています。収穫を終えた畑には,黄色く染まった干し草がうずたかく積まれていました。

ハワイ人聖徒らは訪問者の周囲に集まると,預言者とその顧問,ジョージ・Q・キャノンとジョセフ・F・スミスを熱烈に歓迎しました。この二人はどちらも,若いころにハワイで伝道していたのです。その晩,イオセパの聖徒たちは歌い,ギターやマンドリン,バイオリンを弾き,楽しい音楽が場を満たします。

お祝いは翌日も続き,パレードの後は,掘った穴で焼き上げた肉をメインに盛大な昼食会となりました。ジョージはハワイ語で祈りをささげ,食物の祝福をしました。ハワイ語で祈るのは,実に36年ぶりのことでした。

その日遅く,人々は特別集会に集いました。ジョージが何十年か前にバプテスマを授けた90代の男性,ソロモナが熱心な開会の祈りをささげます。一人の聖徒,カエラカイ・ホヌアは,人々が海の島々からシオンへ集まるときに示された神の憐れみについて話しました。別の男性,カウレイナモクは,一部の人々がイオセパを去り,太平洋に戻って行ったことが残念だと語りました。彼は忠実であるように,また不平不満の思いに屈することのないよう聖徒たちに勧めています。

イオセパの至る所で,人々はともにこの日を祝い,ウィルフォード,ジョージ,ジョセフは彼らの幸せを喜びました。ハワイ語を流暢に話せるほどの能力を保ってはいなかったジョージですが,記念行事で語られた言葉のほとんどを理解できたことに,自分でも驚きました。26


イオセパから戻って数日後,大管長会はヘンリー・ローレンスが,ローガン,マンタイ,セントジョージにある各神殿を差し押さえると脅しているという知らせを受けました。ヘンリーはエドマンズ・タッカー法の下,教会資産を押収する目的で新たに連邦政府の役人として任命された人物です。

以前に教会員であったヘンリーは,20年以上にわたり聖徒たちに激しく敵対していました。彼はウィリアム・ゴッドビーとエライアス・ハリソンの「革新運動」に属しており,移住してきた聖徒たちに市民権を認めないとする最近の裁判でも,教会に不利な証言をしていました。

エドマンズ・タッカー法において,「神を礼拝する目的に限って」使用される建物は保護されることを承知しつつも,ヘンリーは神殿がそれ以外の目的で使用されており,他の資産と一緒に押収することは可能であると証明しようとしていたのです。

9月2日,大管長会は,ヘンリーがどうにかしてウィルフォードの召喚状を手に入れ,教会資産について法廷で証言させようとしていることを知りました。召喚を避けようとした大管長会はカリフォルニアに向かい,聖徒たちの窮状に同情的な立場を取る,影響力のある人々に相談しました。しかし,彼らの口から前向きな言葉を耳にすることはできませんでした。聖徒たちが多妻結婚を続けるかぎり,合衆国政府やアメリカ国民が教会に対する考えを変えることはないだろうというのです。27

ウィルフォードと顧問たちは数週間後にユタへ戻りましたが,そこで待ち受けていたのは,ユタ委員会が連邦政府に年次報告書を送ったばかりだという知らせでした。連邦政府の役人から成る同委員会は,ユタの選挙を管理し,聖徒たちが一夫多妻禁止法を遵守しているかを監視しています。今年の報告書は,教会指導者らがいまだ公に多妻結婚を奨励し,認可しているという偽りの主張をする内容でした。加えて,過去1年間にユタでは41件の多妻結婚が行われたという報告が,証拠もなく述べられていました。

きっぱりと多妻結婚を根絶するため,委員会は議会に向けて,教会に反対するさらに厳しい法律を成立させるよう提言したのです。28

この報告書に,ウィルフォードは激怒しました。教会における多妻結婚の現状について,ウィルフォードが公式の声明を発表したことはありませんでしたが,ユタでも合衆国のどの場所でも,これ以上の多妻結婚を行うべきではないとすでに決めていました。そのうえ,報告書には反対の内容がつづられていましたが,新たな多妻結婚が行われることのないよう,ウィルフォードはこの1年にわたって大いに尽力していたのです。29

9月22日,ウィルフォードはソルトレーク・シティーにある大管長の公邸,ガルドハウスで顧問たちと会合を持ち,その報告書への対応策について話し合いました。ジョージ・Q・キャノンは,報告書の主張を否定する声明を発表することを提案しました。「もしかすると,これ以上の格好の機会はないかもしれません。」ジョージは言います。「教会指導者として,教義と制定された法律に関するわたしたちの見解を正式に公表するのです。」30

その日の会合を終えた後,ウィルフォードは導きを求めて祈りました。もし教会が多妻結婚の実施をやめなければ,政府は聖徒たちを取り締まる法律を成立させ続けることでしょう。多妻結婚の原則を実施していない大半の聖徒にも影響が及ぶのです。混乱と戸惑いがシオンに広がるでしょう。刑務所に送られる人の数は増え,政府は神殿を差し押さえることでしょう。新しい神殿が奉献されてからというもの,聖徒たちは死者のために数えきれないほどの儀式を執り行ってきました。もし政府にこれらの神殿を取り上げられたら,生者も死者も含め,どれほど多くの神の子供たちが神聖な福音の儀式を受けられなくなってしまうことでしょう。31

翌日ウィルフォードは,宣言,または公式の声明を報道機関に発表することが,教会の大管長としての自分の務めであると確信したことをジョージに告げます。そうしてウィルフォードは秘書と一緒に私室に入り,ジョージはその間,部屋の外で待ちました。

このころ,ガルドハウスに着いた使徒のフランクリン・リチャーズが,預言者を探していました。ジョージはフランクリンに,ウィルフォードは今手が離せず,割り込めない状況であることを伝えます。しばらくすると,ウィルフォードはたった今口述したばかりの声明文を手にして私室から出てきました。ユタ委員会の報告書に対する動揺は消え去っていました。その顔は輝きを放っているかのようで,喜びと満足が読み取れます。

ウィルフォードはその文書を声に出して読み上げました。その声明文は,過去1年間,新たな多妻結婚が行われたことを否定し,教会は喜んで政府に協力することを断言するものでした。「国は多妻結婚を禁じる法律を可決しました。」声明文はそう宣言しています。「ですから,わたしたちはその法律に従い,この件については神の手に委ねたいと思います。」

「これでうまくいくと思います」と,ジョージは言いました。公表することを考えると,声明文の体裁はまだ整っていないものの,そこに述べられている内容自体は正しいものであると,ジョージは思いました。32

翌日,大管長会は3人の才能ある著述家,すなわち秘書のジョージ・レイノルズ,新聞編集者のチャールズ・ペンローズ,管理ビショップリック顧問のジョン・ワインダーらに,声明文の言葉に磨きをかけ,公表できるように整えてほしいと依頼しました。次いでウィルフォードが,手を加えた文書を使徒のフランクリン・リチャーズ,モーゼス・サッチャー,マリナー・メリルに見せると,3人はさらに訂正箇所を提言しました。

修正が終わると,後に『公式の宣言』と呼ばれるようになったこの文書によって,今後多妻結婚は終わりを告げることが言明され,国の法律に従うというウィルフォードの決意が強調されました。聖徒たちも同様に行うよう勧める内容です。

「わたしたちは現在一夫多妻制,すなわち多妻結婚を教えておらず,だれにもそれを実施することを許していない。」宣言の一部には,このように述べられています。「わたしは,それらの法律に従い,またわたしが管理する教会の会員にもわたしの影響力を行使して同様にそれらの法律に従わせるようにすることを,ここに宣言するものである。」33

そうして使徒たちは承認された文書を提出し,報道機関に電報で送ったのでした。34

「このことはすべて,ウッドラフ大管長自身の発議だった」と,ジョージ・Q・キャノンはその日の日記に記しています。「ウッドラフ大管長は,こうすることが自らの務めであると主から明示され,それが正しいことであると心にはっきりと感じたことを伝えてくれたのです。」35

ウィルフォードも,日記の中で『宣言』への思いを次のようにつづっています。「わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として,今教会を救うために必要なことをしなければならない地点に達していたのです。」36

政府が多妻結婚に対して断固たる反対の立場を取ったことを,ウィルフォードは理解していました。そこでウィルフォードは祈り,御霊から霊感を受け,主が聖徒たちに対する御自分の御心を明らかにされたのです。