教会歴史
30 着実な前進


第30章「着実な前進」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年(2020年)

第30章:「着実な前進」

第30章

着実な前進

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教会の建物に向かって歩く少女と少年

ブリガム・ヤングが亡くなって3日後のこと,ウィルフォード・ウッドラフがソルトレーク・シティーに到着すると,ブリガムの亡骸が安置されたタバナクルは,通り過ぎる何千もの会葬者であふれていました。預言者の棺は簡素なもので,ふたにガラス窓が付いており,聖徒たちは最後に一目,預言者の顔を見ることができました。

ユタの聖徒たちは,砂漠はサフランのように花咲くというイザヤの預言の成就がブリガムの指導により促進されたと信じていました。ブリガムの指導の下,聖徒たちは山間の谷をかんがいし,農場や庭,果樹園,牧草地に水を引きました。その用水路は,何百もの末日聖徒の定住地を支えています。こうした定住地のほとんどは,一致と協同の原則に従って生活しようと努める聖徒たちから成る共同体を発展させながら根付いていきました。ソルトレーク・シティーのような定住地の幾つかは,急速に製造業と商業の中心都市になりつつありました。

しかし,立案者および開拓者としてのブリガムの成功も,神の預言者としての奉仕には及びません。その朝,ブリガムに敬意を表した人々の多くは,彼が準州内の聖徒たちの間で語るのを見聞きしたことがありました。中には,合衆国東部やイギリスで宣教師として働いたブリガムを知っている人々もいました。あるいは,ジョセフ・スミスの死後に続く不安定な時期を通して,教会を安全に導いたブリガムの姿を心に留める人々もいました。また,ブリガムの傍らで,大平原とロッキー山脈を渡った人々が今でもいます。ヨーロッパをはじめとする世界各地からユタに集まって来た何万もの聖徒を含め,多くの人々は,ブリガムがいなければ決して教会を知ることのなかった人々です。

棺の傍らに立つウィルフォードの目に映るこの昔からの友人の姿は,いつもと変わらないように思えました。「主のライオン」は,休息に就いたのです。1

1877年9月2日,死者を弔った翌日のこと,ブリガムの葬儀に集まった聖徒たちがタバナクルを埋め尽くす中,戸外にはさらに何千もの人々が立っていました。タバナクルの丸天井からは花輪のループが何列も吊るされ,オルガンは黒い布で覆われています。聖徒たちは合衆国における葬儀の慣例に倣い,黒い衣装を身につけることはありませんでした。ブリガムが,そうしないよう願ったからです。2

ブリガムの死後,教会はまだ新たな大管長会を支持していなかったため,十二使徒定員会会長であったジョン・テーラーが葬儀の司式を務めました。3何人かの使徒が,他界した預言者に哀悼の意を表します。ウィルフォードは,ブリガムが神殿を建設し,死者を贖うことを強く望んでいたと語りました。「ヤング大管長は,この神権時代の重みをその身に感じていました」とウィルフォードは述べています。「大管長が生きながらえて,一つの神殿に足を踏み入れ,その奉献式に出席したこと,またそのほかの神殿の業の始まりを見届けられたことをうれしく思います。」4

ジョンは,末日の混乱のさなかにあって,神は引き続き教会を導かれるだろうと証しました。“Salt Lake Tribune”(『ソルトレーク・トリビューン』)は早くも,ブリガムの死によって教会指導者たちの間に口論が生じ,聖徒たちの間では不満が募るだろうと予想していました。5そのほか,裁判所が教会を破滅に追いやることを期待する批評家もいました。重婚の罪で再度審議を受け,有罪となったジョージ・レイノルズは,当時合衆国最高裁判所に上訴中でした。裁判所が有罪判決を支持するならば,聖徒たちは事実上,自分たちの生活様式を擁護する力を失うことになります。6

それでも,ジョンは将来を恐れませんでした。「わたしたちが携わっている業は,人の業ではありません。ジョセフ・スミスが始めた業でも,ブリガム・ヤングが始めた業でもありません。」ジョンはそう断言します。「この業は神から出たものです。神がその創始者であられます。」

「今こそ,わたしたち末日聖徒が自らの召しを尊んで大いなるものとするときです」とジョンは言います。「そうするならば,わたしたちが期待しているように,革命に次ぐ革命といった変化をもたらす出来事があらゆる国々に起こるでしょう。わたしたちは主に導かれ,着実に前進するでしょう。」7


スージー・ヤング・ダンフォードは父親が亡くなってからというもの,悪化しつつある結婚生活についてどうすればよいか悩んでいました。夫のアルマが伝道に出たとき,スージーは,そこから得られる経験によって夫が変わるのではと期待していました。しかし,スージーに届く手紙の内容から垣間見えるのは,相変わらず怒りっぽく,自己防衛的な夫です。8

早まった行動を取りたくなかったスージーは,様々な選択肢を検討し,自身の窮地について引き続き祈りをささげていました。スージーの父親は亡くなる少し前,妻および母親の役割は実りある人生の核となるものであることを思い起こさせてくれました。スージーはそうした役割を正しく果たしたいと望んでいます。しかし,それは虐待的な夫婦関係にとどまらなければならないという意味なのでしょうか。9

ある晩,スージーは自分とアルマが,ライオンハウスにいる父親を訪ねている夢を見ました。ブリガムは二人にある割り当てを用意していましたが,生前たいてい取っていた行動とは異なり,ブリガムはその割り当てをアルマではなくスージーに与えました。割り当てを果たすためにその場を立ち去ったスージーは,廊下でエライザ・スノーに出会います。これまで父は,いつもアルマに頼み事をしていたのに,なぜ今回は自分に割り当てを与えたのだろうとスージーが尋ねます。

すると夢に現れたエライザはこう言いました。「お父さんはあのときには理解していなかったのよ。でも今は理解しているわ。」

目覚めた後にも,エライザの言葉がスージーの心に残っていました。今や霊界にいる父親が,生前とは異なる視点を持っているかもしれないと気づき,スージーは慰めを得ます。

ほどなくしてスージーが離婚を申し立てると,アルマはイギリスから戻り,弁護士との相談を始めました。教会の指導者はしばしば,離婚を望む夫婦を和解させようと努めます。しかし,不幸な婚姻関係の解消を望む女性はだれでも,その望みをかなえられるべきだとも信じていました。10多妻結婚が求めるものに適応できずに苦しんでいる女性についても同様でした。地元の司法制度はそうした婚姻関係を認めていなかったため,多妻結婚の妻が関与する離婚問題については,地元の教会指導者が対処していました。11

スージーはアルマの唯一の妻であったため,彼女の場合は事情が異なります。虐待を伴う婚姻関係にある女性として,スージーは離婚できるものと期待していました。しかし,スージーとアルマは民事裁判を起こす必要がありました。当時,合衆国および欧州各地の裁判所は,離婚に関する訴訟において男性側に付くのが常でした。教会指導者は夫側に対し,前妻とその子供たちのために十分な生活資金を提供するよう助言するも,アルマは子供の養育権と家族の資産のほとんどを手に入れようと主張を続けるのでした。

スージーとアルマの離婚の審理は2日間に及びました。最終的に,アルマは4歳の娘,リアの全面的な親権を獲得しました。息子のベイリーはまだ2歳だったため,裁判所はベイリーをスージーの保護下に置き,アルマをその法定後見人に指定しました。12

子供たちを失い心が引き裂かれる思いのスージーは,この裁定にひどく取り乱しつつ法廷を後にします。それでも,離婚により資産も経済的援助の手段もすべて失ったスージーに,悲しみに暮れている暇はありません。今後どうすべきか計画を立てるという,切実な必要に迫られているのです。13

離婚後間もなく,スージーは自身の将来についてジョン・テーラー大管長に相談しました。スージーは14歳で学校を中退していましたが,今再び勉学に戻ることを望んでいました。テーラー大管長は協力的で,スージーが地元の高等学校で学び始められるよう支援を申し出てくれました。ところが,大管長の執務室を後にしたスージーは,使徒のエラスタス・スノーに出会います。

「学校に行きたいのなら,どこへ行くべきかお教えしましょう」とエラスタスは言いました。「霊感の豊かな光で心を満たすと同時に,古代および現代の学問で頭脳を満たすことのできる場所です。それは,プロボにあるブリガム・ヤング・アカデミーです。」

翌日,スージーは列車に乗って南へ向かい,アカデミーを見学しに行きました。自分の父親がその学校の創立者であったにもかかわらず,スージーは学校自体についても,その目的についてもよく知りませんでした。到着すると,スージーは学長に会って話をしました。かつて自分を教えてくれた学校教師,カール・メーザーです。メーザーはスージーを温かく歓迎し,彼女の名前をアカデミーの生徒名簿に加えたのでした。14


一方,モロカイ島のカラウパパ半島では,ジョナサン・ナペラの健康が悪化の一途をたどっていました。この半島で重い皮膚病を患う人々とともに暮らし始めた当初,ナペラ自身は,妻のキティーを含む大勢のハワイ人を痛めつけていたこの病気に苦しめられることはありませんでした。ところが,それからほぼ5年がたった今,この病気はナペラの体をも蝕んでいたのです。顔はほとんど彼と判別できないほどに腫れあがり,歯の多くが抜け落ちています。20年以上にわたり無数の人々を祝福してきた彼の手は,できものに覆われていました。15

1878年1月26日,ナペラとキティーは,二人の宣教師,ヘンリー・リチャーズおよびケアウ・カラワイアとともに,モロカイの教会管理役員であるネヘミア・カフエラアウを自宅に迎え入れました。ケアウとネヘミアは昔からのハワイ人の聖徒で,二人とも宣教師として何度も奉仕してきました。ヘンリーは使徒のフランクリン・リチャーズの末弟で,ナペラがバプテスマを受けて数年後の1850年代に,初めての伝道地として同諸島に赴任しました。ヘンリーが最後にナペラに会ったのは,1869年,ソルトレーク・シティーでのことでしたが,それから10年にも満たない今,ナペラの容姿の変わり様にヘンリーは驚きます。16

翌日は安息日だったので,ナペラは客人たちを連れて半島の各支部を訪問しようと計画しました。病気にもかかわらず,ナペラは引き続きカラウパパの教会を導き,二つの支部に属する78人の聖徒を監督していたのです。ところが,定住地一帯を巡り旅する前に,ヘンリーは共同体の最高責任者を務めるカトリック司祭,ダミアン神父に訪問の許可を申請する必要がありました。ハワイ衛生局は訪問者らに向けて,重い皮膚病を患う人々とともに夜を過ごすことのないよう勧告していたため,ヘンリーは朝までダミアン神父の家に滞在することになります。

実のところ,ダミアン神父はすでに重い皮膚病にかかっていましたが,まだ初期の段階だったため,彼の病状を知る人はだれ一人いませんでした。ナペラと同様,ダミアン神父はカラウパパに追いやられた人々の霊的および物質的福利のため,彼らの世話をすることに生涯をささげてきました。ヘンリーとナペラは宗教的な事柄に関して幾らか意見を異にしていましたが,二人は親しい友人となりました。17

午前中,ナペラとヘンリーは,半島の東岸に暮らす聖徒たちの支部会長であるレポの自宅で開かれた支部集会に出席しました。40人から50人ほどの人々が参加していましたが,その多くは教会員ではありません。健康そうに見える人もいましたが,ほかの人々は頭のてっぺんから足の先までできものに覆われていました。彼らの苦しみを目にしたヘンリーは心動かされ,涙を流します。ヘンリーとケアウはそれぞれ45分ずつ話をしました。二人が話し終えると,ネヘミアとナペラが短い話をしました。

朝の集会の後,ナペラはヘンリーとケアウを伴い,半島のほかの支部を訪問しました。ヘンリーはそれから,その晩の残りと翌朝を,ダミアン神父とともに定住地内の最も症状が重い人々を見舞うことに費やします。

ナペラとネヘミアとケアウは,ヘンリーが戻って来るのを待っていました。訪問者たちが去る前,ナペラは彼らに祝福を頼みました。ナペラとキティーは間もなく寝たきりとなり,ヘンリーと会うことは恐らく二度とないでしょう。

ヘンリーはナペラの頭に手を置き,祝福の言葉を述べました。そうして,昔からの友人たちは重い心持ちで別れを告げ,ヘンリー,ケアウ,ネヘミアは険しい山道を登って帰途に就いたのでした。18


その夏の終わりごろ,ユタの田舎町であるファーミントンでは,オーレリア・ロジャーズがソルトレーク・シティーから来た二人の著名な扶助協会指導者,エライザ・スノーとエメリン・ウェルズと夕食をともにしていました。二人の女性は扶助協会大会のためにファーミントンを訪れており,地元の扶助協会書記を務めるオーレリアには,彼女たちに至急伝えたい考えがあったのです。19

オーレリアは子供たちの必要をはっきりと認識していました。12歳で母親を亡くしたオーレリアは,父親が伝道に出ている間,姉とともに年下の4人のきょうだいたちの世話を任されました。今や40代になったオーレリアは,7人の子供を抱えており,末の息子は3歳になったばかりです。最近,オーレリアは共同体の少年たちについて心配していました。彼らは騒々しく,夜遅くまで戸外にいることも度々です。

「娘たちが良い夫を得られるよう,何をすればよいでしょうか。」夕食中,オーレリアはそう尋ねました。「少年のための組織を作って,より良い男性になるよう訓練してはどうでしょうか。」

エライザはその提案に興味をそそられます。少年たちには,日曜学校や平日に学校で受ける以上のさらに霊的かつ道徳的な指導が必要だという意見に,エライザは賛同しました。

エライザはこの考えをジョン・テーラーに伝え,彼の承認を受けます。また,オーレリアのビショップ,ジョン・ヘスにも支援を求めました。ヘスビショップにあてて,エライザが提案された組織についての手紙を書くと,ビショップは間もなくオーレリアをワードの新たな初等相互発達協会の会長に召しました。

ワード内の少年たちにどのように手を差し伸べればよいか計画する中で,オーレリアは,少女たちなくして集会は不完全であることに気づきます。オーレリアはエライザに手紙を書き送り,少女たちも初等協会に参加するよう招くべきではないかと尋ねました。

「少年だけでなく少女たちも参加しなければなりません」とエライザは返事を書きました。「少年と少女はともに訓練を受けるべきです。」20

1878年8月のある日曜日のこと,オーレリアとヘスビショップは,ファーミントンに暮らす親たちと集会を開き,初等協会を組織しました。ビショップが最初に話をし,「親の皆さんがこの活動の重要性を感じ取ってくださるよう願っています」と言いました。「親がこの世の生活で注意を傾けるべきことがあるとすれば,それは子供の世話であるはずです。」ヘスビショップがオーレリアとその顧問たちを任命すると,オーレリアは,親が子供たちを教えるのを支援するための組織が必要であると強く訴えました。

「この運動によりたくさんの恩恵がもたらされると感じています」とオーレリアは述べ,ファーミントンの子供たちを若木が育つ果樹園にたとえました。「木の根に注意を向ける必要があります」とオーレリアは言います。「根が安定していれば,枝にもそれほど問題は生じないでしょう。」21

2週間後の日曜日,初等協会の初めての集会に200人以上の子供たちが集まりました。オーレリアは秩序を保つよう最善を尽くします。子供たちを年齢別のクラスに振り分け,各クラスの最年長の子供に監督者としての役割を割り当てました。次の集会で,オーレリアは子供たちに,自分とほかの指導者たちを支持するために挙手をするよう招きました。

子供たちに対するオーレリアの教えは,簡潔で真心からのものでした。ほかの子供よりも優れている子供はいないこと,また人との争いを避けるよう,いつも悪に対して善で報いるようにと教えたのです。22


1878年9月,初等協会の組織からおよそ1か月後,テーラー大管長は使徒のオーソン・プラットとジョセフ・F・スミスを送り,初期の教会歴史についてさらなる情報を集める任務に就かせました。オーソンは教会歴史家であり,ジョセフはそれまで長きにわたり歴史家事務局で働いていました。

東部へ向かう途中,オーソンとジョセフはミズーリに立ち寄り,モルモン書の三人の証人の一人であるデビッド・ホイットマーを訪れました。二人の使徒はデビッドに面会し,モルモン書の初版用に活字を組むうえで印刷工が用いた原稿を売ってくれるか確かめたかったのです。マーティン・ハリスは1875年にユタで亡くなっており,デビッドは三人の証人のうち今なお生存する唯一の人物でした。

デビッドはホテルの一室で使徒たちと話すことに同意しました。1838年に破門されて以来,デビッドは教会に戻っていませんでしたが,近ごろモルモン書を聖典として用いる教会の設立を手助けしていました。今や70歳を超えたデビッドは,オーソンが自己紹介すると驚きを隠せない様子でした。1835年,デビッドは,ジョセフ・スミス,オリバー・カウドリ,マーティン・ハリスが,オーソンをこの神権時代における最初の使徒の一人として召すのを助けました。当時のオーソンは内気で細身の若者でしたが,今では立派な腰回りに後退した生え際,それに長い白髭をたくわえています。23

面会が始まって間もなく,オーソンはデビッドに,ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳するために使った金版を目にしたときのことを覚えているかと尋ねました。

「1829年6月のことだった」とデビッドは言いました。「ジョセフとオリバー,それにわたしがまさにここで丸太に座っていると,一筋の光に目がくらんだ。」デビッドの話によると,それから一人の天使が,古代の記録と,ウリムとトンミム,そのほかニーファイ人の手による品々を携えて姿を現したのです。

「今このベッドを目にしているように,はっきりと見たんだ。」そう言いながら,デビッドは傍らにあるベッドを手でたたきました。「それまでに聞いたことのないほどはっきりと主の声が聞こえ,モルモン書の版の記録は神の賜物と力によって翻訳されたと宣言された。」

過ぎ去った日々の教会について,オーソンとジョセフがさらに幾つか尋ねると,デビッドはできるかぎり詳細に答えてくれました。二人は,印刷工が所持していたモルモン書の原稿について尋ねました。デビッドがオリバー・カウドリから受け取ったはずの原稿です。「それを売るおつもりはありますか」とオーソンが尋ねました。

すると,「いいや。オリバーから,手放さないように言われている」とデビッドは答えます。「これらは神聖なものだ。手放すつもりも,金のために売り渡すつもりもない。」24

翌日,デビッドは原稿を使徒たちに見せてくれました。その際デビッドは,主はその僕らに,モルモン書を全世界に携えていくことを望んでおられたと述べました。

「そうです」とジョセフは答えます。「だからこそ,わたしたちはその書物をデンマークやスウェーデン,スペイン,イタリア,フランス,ドイツ,ウェールズの人々,そして海の島々に住む人々に送り届けてきたのです。」

ジョセフはさらに続けます。「ですからホイットマーさん,教会はいたずらに時間を過ごしてきたわけではありません。」25


その秋ユタでは,67歳のアネ・ゾフィー・ドリウスが長男のカールとともにセントジョージ神殿に向けて旅をしていました。カールの父親ニコライが末日聖徒に加わった後,アネ・ゾフィーは彼と離婚しましたが,それからすでに30年近くになります。アンは教会に対する辛辣な思いを捨て去って以来,永遠の福音を受け入れ,シオンに集まるために故郷のデンマークを後にしたのでした。アンは,ばらばらになった家族を修復するべく,その手始めとして神聖な儀式に携わろうとしていました。26

アネ・ゾフィーは1874年にユタへ移住しました。ニコライが亡くなってから2年後のことです。ニコライは亡くなる前,いつの日かアネ・ゾフィーと永遠に結び固められたいという望みを口にしていました。27

ユタに到着したアネ・ゾフィーは,サンピート盆地に落ち着きます。ニコライとの間に生まれた子供のうち生存する3人の子供,カール,ヨハン,アウグスタそれぞれの家族の近くに住まいを構えたのです。ここ何年もの間,アネ・ゾフィーは何度かスカンジナビアへ伝道にやって来た息子たちに会っていました。しかし,アウグスタに会うのは20数年来初のことです。アウグスタは今や36歳,7人の子供の母親となっていました。28

エフライムに住まいを構えたアネ・ゾフィーは,母親,また祖母としての新たな生活を喜んで受け入れました。1877年,ブリガム・ヤングをはじめとする教会指導者がワードやステークを再組織した際,エフライムワードは二つに分割されました。エフライム南ワードのビショップとして奉仕するよう召されたのはカールです。それ以来,アネ・ゾフィーが町で開かれる演劇や演奏会に出かけるときには決まって,チケットなしで入場しました。にっこり笑い,「ドリウスビショップの母親なの」と言うだけでよかったのです。

アネ・ゾフィーはデンマークにいたころパン職人として成功を収めていた人で,ユタに暮らす家族は彼女の到着後,その才能の恩恵を受けました。アネ・ゾフィーは,デンマーク風焼き菓子がふるまわれるパーティーのために着飾るのを楽しみにしていました。自分の誕生日には,ドレスに赤いゼラニウムをあしらい,大きなケーキを焼き,家族全員と友人を招いてともにお祝いをするのです。29

11月5日,アネ・ゾフィーとカールはセントジョージ神殿に参入します。アネ・ゾフィーは自分の母親と,自分が幼いころに亡くなった姉妹のために身代わりのバプテスマを受けました。カールはアネ・ゾフィーの父親のためにバプテスマの儀式を受けています。翌日,アネ・ゾフィーは自身のエンダウメントを受け,その後,母親と姉妹のためにエンダウメントの儀式を受けました。その間,カールは祖父のために儀式を受けました。アネ・ゾフィーの両親もまた,彼女とカールが身代わりを務める中,ともに結び固められました。

アネ・ゾフィーは自身のエンダウメントを受けた日に,カールが身代わりとなってニコライに結び固められました。現世で壊れたきずなに癒しがもたらされたのです。次いで,カールは両親と結び固められました。デンマークに召された最初の宣教師の一人である使徒エラスタス・スノーが,カールの父親の身代わりを務めました。30


1879年1月上旬,エメリン・ウェルズと,ブリガム・ヤングの娘の一人であるジーナ・プレセンディア・ウィリアムズはユタを離れ,ワシントンD.C.で開かれた女性の権利運動にかかわる指導者の全国大会に出席しました。311870年の「義憤の集い」以来,末日聖徒の女性たちは,ユタをはじめ全国内で,引き続き女性の権利を公に擁護していました。彼女たちの運動は,女性の権利を求める国内で主だった活動家たちの注目をも集めました。その中に,スーザン・B・アンソニーとエリザベス・キャディ・スタントンがいました。二人は1871年の夏,連れ立ってソルトレーク・シティーを訪れ,末日聖徒の女性たちに向けて話をしています。32

エメリンとジーナ・プレセンディアはワシントンで開かれる大会に参加する間,教会およびユタの女性を代表して,議会に陳情するつもりでした。近ごろ,聖徒を政治的に弱体化させようとする動きが続く中,何人かの議員がユタの女性から投票権を奪うことを提議していました。自分たちの投票権を擁護したいと願うエメリンとジーナ・プレセンディアは,教会の業を妨げようとする政府の取り組みに対し抗議の声を上げます。それに,連邦最高裁判所がジョージ・レイノルズの重婚にかかわる判決を再審理中の今,二人は政治的な支援を求めたいと考えていました。33

エメリンが教会のために大仕事を引き受けるのはこれが初めてではありません。1876年,イナゴの襲来の真っただ中にあって,ブリガム・ヤング,エライザ・スノーをはじめとする倹約運動の指導者たちは,準州内に穀物を備蓄する取り組みを指揮するようエメリンを召しました。1877年末までに,エメリンは扶助協会と青年女子による協会を率いて,1万ブッシェル(350立方メートル)以上の穀物を集め,ソルトレーク・シティーに二棟の穀物倉を建てました。エメリンの指示に従い,準州内の多くの扶助協会もまた,扶助協会ホールやワードの建物内に,容器に詰めた穀物を蓄えたのでした。34

ダニエル・ウェルズの多妻結婚による妻の一人であるエメリンは,多妻結婚および末日聖徒の女性の権利にかかわる確固とした擁護者としても知られていました。1877年,“Woman’s Exponent”(『ウーマンズ・エクスポーネント』)の編集者となったエメリンは,そのコラム欄を活用し,政治的,霊的両分野の多様な事項について自身の意見を表明しました。新聞社の指導的立場になって以来,仕事に忙殺されながらも,エメリンは,新聞の発行は末日聖徒の大義に欠かせないものと確信していました。35

「わたしたちの新聞は社会を改善し,社会に益をもたらしています。」エメリンは“Woman’s Exponent”(『ウーマンズ・エクスポーネント』)を引き継いで間もなく,日記にそう記しています。「わたしは全力を尽くして,自分が属する民の,とりわけ女性たちの境遇を向上させるべく役に立ちたいのです。」36

エメリンとジーナ・プレセンディアがワシントンに到着すると,ジョージ・Q・キャノン,スーザン・B・アンソニー,エリザベス・キャディ・スタントンは喜んで二人を町に迎え入れました。一同はまた2日前に最高裁判所が,合衆国憲法は宗教的信条を保護するものの,必ずしも宗教的行為を保護するものではないとするジョージ・レイノルズの有罪判決を満場一致で支持したことを知ります。上訴が不可能であるこの最高裁の判決は,連邦政府が多妻結婚を禁ずる法案を何の差し支えもなく可決し施行できるようになったことを意味します。37

それから数日のうちに,エメリンとジーナ・プレセンディアは女性の大会に出席し,多妻結婚と自分たちの投票権を擁護しました。「ユタの女性たちは準州の法律を何一つ破ったことがありません」とエメリンは宣言します。「彼女たちからこの権利を取り上げることは,不公平なだけでなく愚かな行為です。」

「ユタの女性は,自分たちの権利を放棄することなく,国中の姉妹たちの助けとなることを提議します」とジーナ・プレセンディアは言い添えました。38

1月13日,エメリンとジーナ・プレセンディア,さらに大会に参加していた別の女性二人は,ホワイトハウスへ赴き,ラザフォード・ヘイズ大統領に会いました。大統領はこの一団を書斎に招き入れると,女性たちが大会の決議を読み上げる間,礼儀正しく耳を傾けました。その決議文には,女性の権利をさらに支持すべく尽力していないと訴える大統領への非難も含まれていました。

エメリンとジーナ・プレセンディアはまた大統領に,1862年のモリルによる反重婚法を施行することのないよう警告しました。「何千もの女性が世間からのけ者にされ,その子供たちは私生児となるのです。」彼女たちはそう訴えたのでした。

ヘイズ大統領は同情の念を示したものの,支援の約束をすることは一切ありませんでした。ほどなくして部屋に入って来た大統領夫人のルーシーは,エメリンとジーナ・プレセンディアの訴えに快く耳を傾けると,この訪問者の一団を引き連れてホワイトハウス内を案内してくれました。39

続く数週間内に,エメリンとジーナ・プレセンディアは議会委員会の面前で証を述べ,聖徒たちを代表して主だった政治家たちに向けて話をしました。また,モリル法の撤回を求める陳情書を議会に提出しました。陳情書の中で,彼女たちは今ある多妻結婚にかかわる妻と子供たちの法的地位を認める法律を可決するよう議会に求めます。40議員の中には,聖徒の信条を勇敢に擁護する彼女たちに感銘を受ける人々もいました。そのほか,女性の権利のための全国大会で発言するのを許された多妻結婚の妻たちについて,もの珍しげに,あるいは不満げに対応する人々もいました。41

ワシントンを去る前,エメリンとジーナ・プレセンディアは,ルーシー・ヘイズが主催する二つのパーティーに出席しました。その努力にもかかわらず,エメリンとジーナ・プレセンディアが聖徒に対する大統領の見方を変えることはできませんでした。大統領は依然として,ユタにおける教会の「この世的な力」を失わせようと決意していたからです。それでも,エメリンはルーシーの親切に感謝し,ルーシーの率直さや魅力的な立ち居振る舞い,またホワイトハウスで酒を振る舞うのを断固として拒むその姿勢を称賛しました。

1月18日に開かれたレセプションで,エメリンはルーシーに“The Women of Mormondom”(『モルモンの女性たち』)という本と個人的な手紙を手渡しました。本の内側に,エメリンは次のような短いメッセージを書いています。

「モルモンの妻を尊ぶしるしとして,お受け取りください。」42