2010–2019
天から下ってきた生きたパン
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天から下ってきた生きたパン

わたしたちがキリストの内にとどまり,キリストがわたしたちの内にとどまられることを願うとき,求めるべきは聖さです。

ガリラヤで「大麦のパン五つと,さかな二ひき」だけで5,000人に食べさせる奇跡をなされた日の翌日,1イエスは再びカペナウムの人々に教えを説かれました。救い主は,人々が御自分の教えよりも,もう一度食べさせてもらうことに関心を持っていることにお気づきになりました。2それを受けて,主は「人の子があなたがたに与える」「永遠の命に至る朽ちない食物」には,はるかに高い価値があることを伝えようとされました。3イエスはこう宣言されました。

「わたしは命のパンである。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが,死んでしまった。

しかし,天から下ってきたパンを食べる人は,決して死ぬことはない。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である。」4

救い主が伝えようとされたメッセージは,表面上の言葉しか理解しなかった人々にとってまったく意味不明でした。彼らはぞっとしながら不思議に思いました。「この人はどうして,自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか。」5イエスはさらにこう教えられました。

「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず,また,その血を飲まなければ,あなたがたの内に命はない。

わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者には,永遠の命があり,わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

わたしの肉はまことの食物,わたしの血はまことの飲み物である。」6

主は次に,そのたとえの深い意味について話されました。

「わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者はわたしにおり,わたしもまたその人におる。

生ける父がわたしをつかわされ,また,わたしが父によって生きているように,わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」7

話を聞いている人々はそれでもイエスの言わんとしていることをつかめませんでした。「多くの者は,これを聞いて言った,『これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか。』……それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった。」8

主の肉を食べ,主の血を飲むという言葉は,わたしたちの生活,すなわち人格そのものに,どれほど徹底して救い主の力を取り入れ,一つとなるようにしなければならないかを印象的な表現で示しています。どうやって取り入れるのでしょうか。

第一に,わたしたちは,イエスが御自身の肉体と血を犠牲としてわたしたちの罪を贖い,死に打ち勝たれたことを理解しています。9ということは,主の贖罪の力と祝福を受けるとき,わたしたちは主の肉を食べ,血を飲んでいることになります。

キリストの教義は贖いの恵みを受ける方法を示しています。すなわち,キリストを信じる信仰を持ち,悔い改めてバプテスマを受け,聖霊を受け,そして「火と聖霊によって罪の赦しが与えられる」ことです。10これが門であり,救い主の贖いの恵みを受け,主の王国へ続く狭くて細い道なのです。

「そして,キリストの言葉をよく味わいながら〔その道を〕力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は,『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。

見よ,これがキリストの教義であって,限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。」11

主の晩餐に表されている聖餐の象徴について深く考えると,そのすばらしさを実感します。パンと水は命のパンと生ける水であられる御方の肉と血を表し,12主がわたしたちを贖うために代価を支払ってくださったことをはっきりと思い出させてくれます。パンが割かれる様子を通して,救い主の肉が裂かれたことを思い出します。以前,ダリン・H・オークス長老はこのように述べました。「手で割かれたパンの一片一片はそれぞれ,大きさも形も違います。それをいただくわたしたち一人一人が違うことに似ています。悔い改めるべき罪は人それぞれですし,主イエス・キリストの贖罪によって強められなければならない部分も様々です。聖餐の儀式を通して,わたしたちは主を覚えます。」13水を飲むとき,わたしたちは主がゲツセマネや十字架で流された血と,その聖めの力について考えます。14「清くない者は,決して父の王国に入ることができない」と知っているため,わたしたちは「信仰を持ち,罪をすべて悔い改め,最後まで忠実であることによって,〔救い主〕の血により衣を洗われた者」となろうと決意します。15

わたしは救い主の贖いの恵みにより,罪とその罪の汚れがわたしたちから取り去られることについて話してきましたが,主の肉を食べ,主の血を飲むという比喩にはさらに深い意味があります。すなわち,キリストの特質と人格を身につけ,生まれながらの人を捨てて,「主​なる​キリスト​の​贖罪​に​より」聖徒となることなのです。16毎週聖餐のパンと水を取るとき,主の人格と罪のない人生の規範を自分の生活や人格にどれほど本格的かつ徹底的に取り入れるべきかを考えるとよいでしょう。御自身が罪のない状態でなかったなら,イエスは人の罪を贖うことはおできになりませんでした。正義は主に対して要求する権利を持たないため,主は正義を満たすためにわたしたちの身代わりとなり,憐れみを差し出すことがおできになったのです。主の贖いの犠牲を覚え,尊ぶときに,わたしたちは罪のない主の生涯についても考えるべきです。

これは,わたしたちの方でかなりの努力が必要になることを示唆しています。現状に甘んじないで,「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ために常に前進し続けなければなりません。17モルモン書に登場するラモーナイ王の父のように,わたしたちはすべての罪を進んで捨て,18主が各自に,そして全体に期待しておられることに焦点を当てなければなりません。

しばらく前に,ある友人が伝道部会長として奉仕していたときの経験を教えてくれました。彼は手術を受けて,その後何週間か療養する必要がありました。体の快復を待つ間,彼は聖文を調べることに専念しました。ある午後,第三ニーファイ第27章に書かれている救い主の言葉について深く考えているうちに,うたた寝をしてしまいました。彼は後にこう言っています。

「わたしは夢の中で,自分の人生のすべてをはっきりと見せられました。自分の罪やよくない選択,……人と接するときに忍耐を示せなかったこと,言うべきことを言わず,するべきことをしなかったときのこと……。わたしの人生〔の過去の場面〕を走馬灯のように見せられて,……わずか数分間のことでしたが,もっと長く感じました。目を覚ますと,わたしはあわてて……すぐにベッドの横にひざまずき,祈り始めました。赦しを請い,かつてないほど心のすべてを注ぎ出しました。

その夢を見るまでは,悔い改める必要がそれほどあると思いませんでした。わたしの欠点や弱さが突然はっきりと見え,自分の現状と,神の聖さと善良さには何百万キロもの隔たりがあるように感じました。その夕方にささげた祈りの中で,わたしは天の御父と救い主に対し,御二方が自分のためにしてくださったこと,そして自分の妻や子供たちとのすばらしい関係があることに心の底から感謝しました。ひざまずいているとき,自分はふさわしくないと痛感していたにもかかわらず,神の愛と憐れみが手に取るようにはっきりと分かりました。

あの日からすべてが一変しました。……わたしの心が変化し,……それからは人に対してより深い共感を持ち,愛する力が増し,福音を宣べ伝えることを急がなければならないと感じるようになりました。……モルモン書に書かれた信仰,希望,悔い改めの賜物に関するメッセージに,かつてないような共感を覚えるようになったのです。」19

注目していただきたい大事なことは,この善良な友人が,自分の罪や欠点をはっきりと思い出しても,がっかりしたり悲嘆に暮れたりすることがなかったことです。衝撃や後悔の念を抱き,悔い改めの必要性をはっきりと感じ,謙遜にさせられましたが,感謝と平安と希望,真の希望を感じました。それは「天から下ってきた生きたパン」であられるイエス・キリストのおかげです。20

わたしの友人は夢の中で,自分の人生と神の聖さの間に大きな隔たりがあるのが分かったと言いました。「聖さ」はぴったりの言葉です。キリストの肉を食べ,その血を飲むことは,聖さを追い求めることを意味します。神は「わたしが聖なる者であるから,あなたがたも聖なる者になるべきである」と命じておられます。21

エノクはこう勧めています。「あなたの子供たちに次のことを教えなさい。すなわち,どこにいる人でもすべての人が,悔い改めなければならない。そうしなければ,決して神の王国を受け継ぐことはできない。清くない者はそこに住むことができない,すなわち,神の前に住むことができないからである。アダムの言葉で,聖なる人とは神の名である。また,神の独り子の名は,人の子,すなわちイエス・キリストであ……る。」22少年時代,どうして新約聖書の中で,実際に神の御子であられるイエスが(時には御自身でも)「人の子」と呼ばれているのか不思議でした。しかし,エノクの言葉から,この呼び方は実は主の神性と聖さを認める呼び名であることがはっきり分かります。主は,父なる神,すなわち聖なる人の子なのです。

わたしたちがキリストの内にとどまり,キリストがわたしたちの内にとどまられることを願うとき,23肉体と霊の両面で求めるべきは聖さです。24わたしたちは「聖きを主にささぐ」と刻まれた神殿で聖さを求めます。夫婦関係や家族,家庭で聖さを求めます。毎週,主の聖日を喜びとするときに聖さを求めます。25また,言葉と服装と思いなど,日常の細かい部分でも聖さを求めます。トーマス・S・モンソン大管長はこう述べています。「わたしたちは自分の読むもの,見るもの,聞くもの,考えることのすべてによって形造られるのです。」26わたしたちは毎日,自分の十字架を負うときに聖さを求めます。27

キャロル・F・マッコンキー姉妹はこう語っています。「様々な試しや誘惑や試練が,わたしたちを神の前に徳高く,称賛に値することから遠ざけようとすることは承知しています。しかし,死すべき世の経験は,わたしたちに聖さを選ぶ機会を与えてくれます。多くの場合,わたしたちを聖めてくれるのは聖約を守るために払う犠牲なのです。」28わたしはこの「払う犠牲」に加えて「わたしたちが行う奉仕」を挙げたいと思います。

わたしたちは「同胞のために務めるのは,とりもなおさず,〔わたしたち〕の神のために務め」ていることを知っています。29主は奉仕が御自身の生涯と人格の中心にあることを思い出させるために,こう語っておられます。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くのあがないとして,自分の命を与えるためである。」30マリオン・G・ロムニー管長は賢明な言葉でこう説明しました。 「奉仕とは,日の栄えの王国に入る資格を勝ち得るために,この地上で我慢して行うものではありません。日の栄えの王国における昇栄の生活そのものが奉仕なのです。」31

ゼカリヤは,福千年に主が統治されるとき,馬の鈴さえも「聖きを主にささぐ」という文字が刻まれると預言しています。32同じ精神で,ソルトレーク盆地に住んでいた開拓者たちも「聖きを主にささぐ」という言葉を,宗教的な慣習に直接関連ある物品だけでなく,普通の,平凡と思われる物にも刻みました。聖餐式のためのコップや皿,七十人の聖任の証明書や扶助協会の垂れ幕にも書かれました。「聖きを主にささぐ」という文字は,シオン協同組合商事,すなわちZCMI百貨店のショーウィンドーにも掲げられました。金づちの頭や太鼓にも書かれました。ブリガム・ヤング大管長の家の金属製のドアノブにも「聖きを主にささぐ」の文字が鋳造されていました。聖さという言葉がこのような変わった,意外な所に書かれていることを適切でないと思うかもしれませんが,これらにより,どれほど広い範囲で絶えず聖さに心を向けることが必要かが分かります。

救い主の肉を食べ,主の血を飲むとは,キリストのような人格と一致しないことは何でも自分の生活から取り除き,主の特質を身につけることを意味します。これこそ悔い改めの広義です。過去の罪を捨てるだけでなく,前進しながら「心と思いを神に向ける」ことです。33わたしの友人が啓示的な夢で体験したように,神はわたしたちの欠点や至らなさを示すと同時に,弱さを強さに変えるのを助けてくださいます。34わたしたちが「ほかに何が足りないのでしょう」と心から尋ねるなら,35主はわたしたちの憶測に任せるのではなく,わたしたちの幸せを考えながら愛をもって答えてくださり,希望を与えてくださいます。

骨の折れる作業ですし,独りで聖さを求めなくてはいけないとしたら心が折れてしまうでしょう。すばらしいことに,わたしたちは独りではありません。神の愛やキリストの恵み,聖霊の慰めと導き,キリストの体における仲間の聖徒たちの友情と励ましがあります。現状に甘んじたり,がっかりしたりしないようにしましょう。簡素ながらも深い意味を持つ賛美歌にこのような勧めの言葉があります。

「聖くなる時間を取りなさい 世は急ぎ行く

一人でイエスと会う時間を多く取り

イエスに頼りイエスのようになりなさい

あなたの行いが主と似ていることを,友は悟るでしょう」36

わたしは証します。イエス・キリストは「天から下ってきた生きたパン」であられ,37「〔主〕の肉を食べ,〔主〕の血を飲む者には,永遠の命があ」ります。38イエス・キリストの御名により,アーメン。