2010–2019
それだから,あなたがたもいずれ完全な者となりなさい
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それだから,あなたがたもいずれ完全な者となりなさい

辛抱強く努力を続ければ,永遠のどこかでわたしたちの精錬が終わります。

聖文はわたしたちに祝福と励ましを与えるために書かれたものであり,確かにその目的を果たしています。わたしたちは,これまでに与えられているすべての章,すべての節に感謝しています。しかし,自分の至らなさを思い起こさせる聖句が時々出てくるように感じたことはありませんか。例えば,山上の垂訓は,慰めを与える穏やかな至福の教えで始まりますが,その後の節では,ほかの事柄に加えて,殺してはならないばかりか怒ってもいけないと言われています。姦淫を犯してならないばかりか,不純な思いを抱いてもいけないと言われています。求められたら,下着を取ろうとする者に上着をも与えなければなりません。敵を愛し,自分をのろう者を祝福し,自分を憎む者に善を施さなければならないのです。1

もしこれが朝の聖文研究で,そこまで読んだ時点で福音通知表に良い成績が付くことを期待できないと思ったら,最後の戒めによって完全に打ちのめされることでしょう。「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。」2この最後の戒めを聞くと,ベッドに戻り,頭から布団をかぶってしまいたくなります。こんな天の目標はできそうにありません。しかし,人が守れない戒めを主がお与えになることは決してないのです。では,このジレンマをわたしたちはどう見るでしょうか。

教会の中には,この問題で悩む多くの人の声が聞こえてきます。「わたしなんかでは力不足だ。」「自分は全然だめだ。」「絶対に期待にこたえられない。」このような声が10代の若者から聞こえてきます。宣教師から聞こえてきます。新しく改宗した人たちから聞こえてきます。教会員歴の長い人たちから聞こえてきます。見識ある末日聖徒のダーラ・アイザックソン姉妹は,サタンが聖約や戒めをあたかものろいや罪の宣告であるかのように見せようとしていることに気がついたと述べました。サタンは福音の理想と霊感をねじ曲げて,それがある人たちの自己嫌悪や悲劇のもとになるようにしてきたからです。3

わたしがこれから言うことは,神がこれまで与えてくださった戒めを否定したりゆがめたりするものでは決してありません。わたしは神が完全な御方であられることを信じていますし,わたしたちが神の霊の息子娘であって,神のようになる力を秘めていることを知っています。わたしは,神の子供であるわたしたちが,あたかも自分を苦しめることで神の望むような人になれるかのように,自分を卑下したり責めたりするべきではないことも知っています。そんなことはしないでください。わたしたちが個人の成長を求めて進むときに,進んで悔い改め,さらに義にかなった生き方をしたいという望みを常に心に抱くことで,胃潰瘍や拒食症を患ったり,落ち込んだり,自尊心を傷つけたりしない方法で成長できればと願っています。「イエス様のように」4なりたいと正直に歌う初等協会の子供やそのほかの人たちに,主はそんなことを望んではおられないのです。

この問題について,次の観点を持つことを忘れないでください。わたしたちは堕落した世にいて,今は堕落の影響を受けた民であるということです。現在わたしたちがいるのは 星の栄えの王国です。であって ではありません。ラッセル・M・ネルソン会長が教えているように,完成とは,その先も続く「途絶えることのない過程」なのです5

ですからこの件に関するイエスの説教は,わたしたちの至らなさを言葉で打ちのめすためではないと思います。そうではなく,神とともに到達することのできる人の状態と,永遠の父なる神のおられる状態に対する賛辞として行われたのではないかと思います。いずれにせよ,不完全なわたしであるにもかかわらず,少なくとも神が完全であられ,例えば,少なくとも神は敵を愛することがおできになることを自分が分かっているということに感謝します。なぜなら,わたしたちの内にある「生まれながらの人」6の性質によって,皆さんもわたしも,その「敵」になることがよくあるからです。神が,御自分を不当に扱う者ですら祝福されることに感謝しています。なぜなら,意図的ではないにせよ,わたしたちは,神を不当に扱うことがあるからです。わたしは神が憐れみ深く平和を作り出す御方であられることに感謝しています。それは,わたしに憐れみが必要であり,世界に平和が必要だからです。もちろん,御父の徳について述べることは,生まれて亡くなり,同じ完全の域に達しておられる独り子についても当てはまります。

当然ながら,人の至らなさよりも御父や御子のなさることに目を向けたからといって,無節操な生き方をしたり標準を下げたりすることを正当化するわけではありません。福音は初めから,「聖徒たちをととのえて……わたしたち……が……全き人となり……キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」7にありました。わたしはただ,聖句や戒めの少なくとも一つの目的が,「キリストの満ちみちた徳の高さ」8がどれほど高貴なものかを思い出させることである場合もあると言っているだけです。それが分かるとキリストをさらに愛し敬うようになり,キリストのようになりたいという望みが大きくなります。

「まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい」とモロナイは訴えています。「勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,……あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。9真の完全に至る唯一の希望は,天からの贈り物として賜るものなのです—「獲得」することはできません。このようにキリストの恵みにより,わたしたちは悲しみや罪から救われるだけでなく,自分を責めるというなかなか治らない性癖からも救われるのです。

救い主のたとえの一つを使って,これを少し違った方法で話しましょう。王に対して1万タラントもの負債を抱えている僕がいました。この僕が忍耐と慈悲を必死に求めたところ,「僕の主人はあわれに思って,彼をゆるし,その負債を免じてやった。」ところがその同じ僕は,自分から100デナリ借りている仲間を赦そうとしませんでした。これを聞いた王は,自分が赦してやった僕のことを嘆いて言いました。「わたしがあわれんでやったように,あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。」10

ここに出てくる貨幣の価値については学者の間で意見の相違がありますが,アメリカの通貨に例えてざっと計算すると,赦してもらえなかった小さい方の負債である100デナリを現在の100ドルとすると,寛大な心で赦してもらった1万タラントは10億ドル近い金額,またはそれを超える金額になると思われます。

これは個人が抱える負債としては天文学的な数字であり,想像すらできません。(だれもそれほどの買い物はできないでしょう。)それは,このたとえの目的からして,完全には想像できないようにされています。返済能力を超えているのはもちろんのこと,わたしたちの理解の限度を超える内容にされているのです。なぜなら,これが新約聖書に出てくるこの二人の僕についてだけの話ではないからです。これはわたしたち,つまり堕落した人類家族,現世を生きる負債者,背いた者,囚人についての話です。わたしたちは皆,負債を負っていて,わたしたち全員に下った判決は投獄でした。わたしたちを愛し,「わたしたちに対する哀れみの情に動かされ」11たからというだけで釈放してくれる王の恵みがない限り,わたしたちは牢獄から出ることはできません。

イエスがここで計り知れないほど巨大な金額を使っているのは,イエスの贖罪が,想像だにできない犠牲の下で与えられたとてつもない贈り物だからです。それこそが,完全になりなさいというイエスの命令の陰にある理由の少なくとも一つではないかと,わたしには思われます。わたしたちは,御父と御子が示された1万タラント級の完全さをまだ実践することができないかもしれませんが,御二方にとって,わたしたちが小さな事柄において,もう少し神のようになるよう求められることは大きなことではありません。言動や,愛,赦し,悔い改め,改善することにおいて,少なくともわたしたちが明らかに成し遂げることのできる100デナリ程度の完全さを達成することができます。

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちのいるこの世の旅路で欠点のない人生を送った人は,イエスを除いてはいません。ですから,現世にいる間,行動学の研究者が「病的な完璧主義」12と呼ぶ状況に陥ることなく,成長し続けていきましょう。この過度な完璧主義を自分にもほかの人にも当てはめないようにするべきです。付け加えると,教会で奉仕する召しを受けている人,わたしたちは皆,何らかの奉仕に召されていますので,つまりは末日聖徒全員にも当てはめないでください。

これについては,かつてレフ・トルストイが,信者の一人からあまり確固とした意志をもって生活していないと非難された祭司の話を書いています。非難した本人は,道を踏み外した人の説く原則は間違いに違いないと結論付けました。

この批判に答えて祭司はこう言います。「わたしの現在の生活を過去の生活と比べてみてください。わたしが自分の説いた真理に従った生活をしようと努力していることが分かるはずです。」自分が教えた高い理想を実践できなかったこの祭司は,自分の非を認めました。しかしこう叫びました。

「〔お望みなら〕わたしを非難しなさい。これはわたしの行いです。でも,わたしの従う道を非難しないでください。家に帰る道を知っていたとして〔も〕酒に酔ってその道を歩いていた場合,わたしが道の端から端へとよろめきながら歩いていたとしても,それが正しい道であることに何の変わりがあるでしょうか。……

してやったりとばかりにこう叫ぶのはやめてください。『ほうら見ろ。あいつは泥にはまってもがいている。』あざ笑わないで,〔神のもとに帰る道を歩めるよう〕わたしを助けてください。」13

兄弟姉妹の皆さん,この世でしばしば到達できる状態よりももっとキリストのような生き方がしたいと,わたしたちのだれもが切に願っています。それを正直に認め改善しようとするとき,わたしたちは偽善者とならず,〔本来の〕人間となるのです。自分がこの世で犯す愚かな間違いや,わたしたちの周りにいる優れた人にすらある至らなさによって,福音や教会の真実さや未来への希望,神の属性への可能性を否定するような人にならないでください。辛抱強く努力を続ければ,永遠のどこかでわたしたちの精錬が終わります。それが新約聖書で言う完全なのです。14

「恵みに恵みを」15受け続けて,ついに不死不滅16となり日の栄えの完全17をお受けになった主イエス・キリストの贖いにより,この栄えある行く末が可能になったことを証します。イエスがまさに今このときでも,どんなときにでもおられて,釘に刺し貫かれた手で同じ恵みをわたしたちに伸べ,わたしたちが無事主のもとに帰って天の両親に抱かれるときまで,お見捨てになることなくしっかりと手を取って励ましてくださることを証します。どんなに未熟でも,わたしはその完全な瞬間まで努力し続けます。たとえ十分に感謝できなくても,わたしはその完全な賜物に感謝し続けます。これらのことを,一度も未熟さや不十分さを示さなかった完全そのものであられる主,それでいてわたしたち一人一人を愛しておられる主イエス・キリストの御名により行います,アーメン。

  1. マタイ5:1-47参照

  2. マタイ5:48

  3. Darla Isackson, “Satan’s Counterfeit Gospel of Perfectionism,” Meridian Magazine, June 1, 2016, ldsmag.com参照

  4. 「イエス様のように」『子供の歌集』40

  5. ラッセル・M・ネルソン「完成への道『聖徒の道』1996年1月号,95-98参照

  6. モーサヤ3:19

  7. エペソ4:12-13

  8. エペソ4:13

  9. モロナイ10:32;強調付加

  10. マタイ18:24-33参照

  11. 教義と聖約121:4

  12. Joanna Benson and Lara Jackson, “Nobody’s Perfect: A Look at Toxic Perfectionism and Depression,” Millennial Star, Mar. 21, 2013, millennialstar.org参照

  13. “The New Way,” Leo Tolstoy: Spiritual Writings (2006), 81–82

  14. ギリシャ語の新約聖書で使われている「完全(「テレイオス」teleios)」という言葉に関する理解を深めてくれる説明は,ラッセル・M・ネルソン会長の「完成への道」(『聖徒の道』1996年1月号,95-98)を参照。

  15. 教義と聖約93:13

  16. ルカ13:32参照〔訳注—「わざを終えるであろう」の英語は “I shall be perfected”〕

  17. 教義と聖約93:13参照